備前 岡山城  (おかやま)    昔は国宝で岡山のシンボル         本丸・案内図

<岡山城データ>
別名烏城、金烏城
所在地岡山県岡山市丸の内
築城年代1597年(慶長2年)
築城者宇喜多秀家
主要城主宇喜多氏57万4千石
小早川氏51万石
(前)池田氏28万石
(後)池田氏31万5千石
種類、形式平山城、近世大名の居城
遺構、現状石塁・復元天守
月見櫓・西丸西手櫓(国)重文

 戦前には国宝であった天守閣は昭和20年(1945)6月29日のアメリカ軍の岡山空襲で焼失し、現在のそれは、昭和41年(1966)に再建された鉄筋コンクリート造りですが、三重六層の外観は昔の天守閣と変わりません。 現在の姿の岡山城は宇喜多秀家の築城により、織田信長の安土城をモデルにしたと云われています。

本段(南側)から見た天守 江戸時代中期の岡山城絵図
岡山城天守 岡山城絵図

 備前・邑久の砥石城で生まれ備前覇者となった宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)であった。 それまでは玉松城(金川城)の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の運営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。
 直家の子秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の所領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石を超える大領主となった。
 ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落成するにおよんだ。 これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城・本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などの城域を画し、近世城下町の骨格が出来上がったのである。
 宇喜多秀家は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍最大の17000の大軍を率いて出陣、一敗地に塗れて八丈島に流された。 その後小早川秀秋が筑前・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。 そのあと姫路城主・池田輝政の子、池田忠継に備前一国28万石を与えられ岡山城に入り、 後に鳥取から国替えで池田光政が31万5千石で岡山城主になって以後池田氏の時代が続き明治維新におよんだ。

<岡山城・歴代城主と在城期間>
宇喜多直家 天正元年(1573)〜9年間池田 宗政 宝暦2年(1752)〜12年間
〃 秀家 天正10年(1582)〜19年間 〃 治政 明和元年(1764)〜30年間
小早川秀秋 慶長5年(1600)〜2年間 〃 斉政 寛政6年(1794)〜39年間
池田 忠継 慶長8年(1603)〜13年間 〃 斉敏 天保4年(1833)〜9年間
〃 忠雄 元和元年(1615)〜17年間 〃 慶政 天保13年(1842)〜21年間
〃 光政 寛永9年(1632)〜40年間 〃 茂政 文久3年(1863)〜5年間
〃 綱政 寛文12年(1672)〜42年間 〃 章政 明治元年(1868)〜1年間
〃 継政 正徳4年(1714)〜38年間

明禅寺合戦>1567年(永承10年)  備中・三村氏 vs 備前・宇喜多氏
 備中三村家親が備前宇喜多直家の沼城に攻め込んだが、撃退され、更に直家の刺客により家親は暗殺された。 この弔い合戦で家親の子元親が再び備前に攻め込んだ合戦。
この合戦のキャスティングボードは、直家以前に岡山城に在城していた金光備前の子金光宗高です。 宗高は、初め玉松城(金川城)の松田氏に従い備中の三村氏の勢力が強まると三村氏の傘下に入ってこの合戦に臨んだが、ひそかに宇喜多氏に通じ、直家のために働きました。これにより備中勢は「明禅寺崩れ」といわれる大敗をしてしまったのです。 宗高はその後宇喜多氏の傘下に入りますが、最終的に直家の謀略により、岡山城を乗っ取られる事になります。


<交通> 地図 岡山駅から烏城公園まで、徒歩20分。岡電・城下電停から徒歩5分。付近に有料駐車場有り、後楽園の駐車場なら無料。

岡山城.1 天守閣
岡山城.2 天守閣の遠景
岡山城.3 岡山城の復元門
岡山城.4 岡山城の現存櫓
岡山城.5 岡山城のライトアップ
岡山城.6 天守閣内部
岡山城.7 天守閣からの眺めと本段

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