備前 沼城 (ぬま)    宇喜多直家の飛躍  秀家生誕の城

<沼城データ>
別名亀山城(本来の正式名)
所在地岡山市沼
築城年代1530年代
築城者中山正信
主要城主中山氏、宇喜多氏
種類、形式沼城・山城、有力武将の居城
遺構、現状土塁

 宇喜多直家は乙子城を築いた後、新庄山城を与えられ、さらに義父の中山正信を謀殺し、沼城(亀山城)を奪いこの城に居住。 直家はこの城主時代に下克上で浦上氏から自立し、近隣の城主を次々に傘下に加え勢力圏の拡大を続け、戦国大名に成長してついに居城を岡山城に移した。 直家の沼城在城は1559年から1573年(永禄2年から天正元年)の約15年間で、合戦と謀略の繰り返しであった。

 また、のちに岡山城を築城し、豊臣五大老にまで出世した宇喜多秀家(直家の子)はこの城で生まれた。 さらにこの城は、秀家のあとに岡山城に入城した小早川秀秋時代に廃城となり、この沼城の天守は岡山城の櫓(大納戸櫓)に利用された。

沼城(亀山城)の全景
南から見た沼城で、右の山が亀山と呼ばれる本丸・二の丸跡で、左の山が西の丸跡。麓の建物は浮田小学校(左)と浮田保育園。また、これらの山の直ぐ後は新幹線が通っている。

亀山・本丸、二の丸 本丸跡へ登る道 本丸跡
亀の形をしているから亀山と呼ばれている。 今にも崩れそうな石段。 結構きれいに整備された公園にはなっている。

沼城時代の直家の大きな合戦に1567年(永承10年) 明禅寺合戦>がある。
この合戦に勝利した事が直家の戦国大名への大きな一歩となった。

秀吉の備中高松城の水攻め後、「中国大返し」で最初に立ち寄ったとされるのがこの沼城。

<沼城と山城>
沼城は、その名の通り備中高松城の様に周りは沼地に囲まれた城ではあるが、亀山と云われる通りの列記とした山城でもある。 つまり、この両方を生かして築かれた非常に難攻不落の城という事も云える。
 ちなみに、誰が決めたか岡山県の三大沼城は、備中高松城撫川城と、この沼城(亀山城)

<西の丸への登城>
この西の丸は、亀山とは違う山で元は出城。現在は浮田小学校の裏山になっていて、登城する事が非常に困難ではあったが、北側の竹林を書き分け何とか登城に成功。 広さは、本丸とほぼ同じ位で結構広く、南側は三段の曲輪も確認できる。


<登城難易度> 易 ランク2
山の麓から約60m位の古びた石段を登ると、そこが本丸跡。(麓の道路脇Pスペース約2〜3台)

<登城メモ> (2001年2月)
本丸跡の木碑に建っている宇喜多の旗(青地に「兒」の字)が半分破れていて、何だか物悲しい。 物悲しいと言えば、この本丸跡の看板に赦免花伝説というのがあったので、原文のまま引用すると、
関ヶ原の戦いで八丈島に流された秀家公の菩提寺宗福寺に二株の蘇鉄がある。この蘇鉄の花が咲いたとき、なぜか赦免があったと言われている。 文政年間に69人、天保年間に41人、弘化年間に64人、嘉永年間に24人の流人が赦免されたが、宇喜多一族には何の沙汰もなく、明治になって罪がゆるされたのであった。

<登城メモ> (2001年10月)
今回2度目の登城にあたり、以前訪れた時の物悲しさは全く感じなかった。本丸跡の破れかけた宇喜多の旗も新しくなっているし天候も良い。 また、西の丸に登城出来た事が大きな違いだと思うが、同じ城跡でも訪れる季節や天候、城跡の整備状況などによって、随分違うものだと思った。


<交通> 地図 JR山陽本線上道駅から徒歩20分。岡山から日生、瀬戸方面行きの宇野バス浮田校前停留所から徒歩5分。

備前覇者・宇喜多直家ゆかりの城
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