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| 別名 | 沼城 |
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| 所在地 | 岡山市高松 |
| 築城年代 | 1570年頃 |
| 築城者 | 石川久式 |
| 主要城主 | 清水氏、花房氏 |
| 平城、戦国武将の居城 | |
| 本丸跡、築堤跡、首塚 城跡(国)史跡 |
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この城は、羽柴秀吉の水攻めで一般にもよく知られ、国の史跡に指定されている。城主の清水宗治が切腹して城兵の命を救った話も、今に語り継がれている。 城跡は、清水宗治の首塚がある本丸跡だけ保存されていて周囲は水田であったが、数年前に二の丸跡と推定される場所などを買い上げ、遊歩道や駐車場などを設け、さらに花菖蒲や蓮などを植え、史跡公園として整備している。 |
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<高松城水攻め> (1582年・天正10年) 織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々に攻略するとともに、備中高松城を攻撃。 秀吉は、高松城主の清水宗治に利をもって降伏するように勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。 高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀・黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。 秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣・千原九衛門勝則を奉行とし、約3kmにおよぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができ城は孤立した。 6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。 宗治は「主家(毛利氏)の安泰と部下5千の命が助かるなら明日4日切腹する」と自刃を承諾。
<清水宗治辞世の句>
<備中の境目7城>
→高松城.2 |
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<登城難易度> 超易 ランク1 史跡公園駐車場すぐ(P約20台)
<登城メモ>
(2001年1月、5月)
高松城跡の北側に日本三大稲荷のひとつの最上稲荷がある。
地元の人には高松城よりもこっちの方が有名で、県内の初詣客の数では毎年ダントツのトップ。インド風のエキゾチックな建造物の門が特徴。
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| JR吉備線備中高松駅から徒歩10分で史跡公園へ。車では岡山自動車道総社ICもしくは山陽自動車道岡山ICから国道180号線で約10分。 |