道徳的な男性性構築の課題 ―福澤諭吉の〈ヂグニチー〉〈愛〉〈敬〉〈恕〉論
近代日本男性(性)史研究会会員 丹原恒則(たんばらつねのり)
一. 今なぜ福澤諭吉『日本男子論』か ―問題設定
「実に遠」い学問ではなく、生活に役立つ実験実証の実学への真理観の転換を説き、「天は人の…」で始まる平等論などで有名な『学問のすすめ』の著者である福澤諭吉([一八三五]〜一九〇一・天保五年〜明治三十四年)が、『日本婦人論』『男女交際論』など数多くの男女論を書いていたことは意外に知られていない。
既存の福澤諭吉研究において福澤の男女論は、主に婦人(女性)論や家族論という枠組みで問題にされている。この点について、ひろた(1979)、中村(1990.1993.1994)、杉原(1991)、小泉(1997)、関口(2001)等が論及している。
ところが、一八八八(明治二十一)年に発表された『日本男子論』を男性論として議論しているものは、たとえば、男尊女卑への義憤を爆発させつづけた福澤の論説群は「いつかは書かるべき日本男性史上、不抜の位置を占めている」(鹿野 1981:334)といった評価や、「福澤自身、彼の男性論がすぐ受け入れられるとは思っていなかった」(西澤 2003:370)とする言及があり、「福沢の把握した日本の近代人間(=男性)像が…臣民像であった」(安川 1979:379)という論及において福澤の男性像は、女性やアジアの民衆など被差別者には尊大で支配的に振る舞い明治憲法の天皇制下では従属性を持つとの指摘があるものの、先行研究は極めて少ない。
また、これまでの福澤研究では、『日本男子論』で説かれている「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」(「男」「女」、人間)関係および「ヂグニチー(dignity 君子の身の位)」という個人のあり方を、道徳的な男性性構築の課題として捉える分析が、比較的手薄である。
そして、「男性性」を問い直し、現代日本の代表的な男性解放論となっている「男らしさの鎧を脱ぎ捨てよう」という伊藤公雄による脱鎧論では、「男たちの女に対する、優越志向・権力志向・所有志向」(伊藤 1993:169)に注目しつつも、抑圧的な規範性をもつ男らしさの鎧を脱いだ後の男性の新たな価値観や行動規範などが敢えて充分に示されていない。
そこで、本稿では、『日本男子論』を当時の日本における新しい道徳的な男性性構築の言説として見ていくことを課題とする。
二.福澤諭吉の「文明」論と道徳的な男性性の構築を課題にする男性論
福澤の「文明」論は、「智徳の進歩」「人間交際(権力が偏重した男尊女卑)の改良」「衆心(より多くの大衆の精神)発達」などを構成要素にした「複合概念」(丸山 1986:215)である。「徳の進歩」が文明化の基本要素と考える福澤は、『日本男子論』において道徳を論じる時に、「居家の道徳」と「家の外の道徳」に分け、「私徳公徳の区別」をしている。福澤は、単なる〈公私分離論〉ではなく、東洋的な儒教の修身斉家治国平天下(『大学』経第五節)に学び、〈私公連続(同心円的拡大の社会構想)論〉を説く。
あくまで私徳が公徳の前であり徳の根本なのである。また、私徳について福澤は、「世界開闢生々の順序に於ても、先ず夫婦を成して然る後に親子あることなれば…根本は夫婦の徳心に胚胎するものと云わざるを得ず」(中村編 1999:141)と念を押している。
この「夫婦」関係の前提になる個人のあり方として、『日本男子論』では「ヂグニチー(君子の身の位)」が論じられ、「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」関係論が、「男子」を対象として男性にこそ説かれている。
福澤が「男子論」を展開する理由は、「婦人論なり、また交際論なり、いずれも婦人の方を本にして論を立てたるものにして…その筆法は常に婦人の気を引き立つるの勢いを催して、男子の方に筆の鋒(ほこさき)の向はざりしは些(ち)と不都合」(中村編 1999:137)と考えたからである。
「夫婦」の徳義を重んじる福澤の眼差しの先には、家の存続の為とか英雄色を好むなどと称し一夫一婦の関係を粗略にする畜妾制などの常態化した国内の社会状況があり、対外的に不平等から平等なものへ条約改正を西洋に迫る上で、訪日する欧米人の内地雑居が進んだときに、西洋から軽侮の念で見られかねない男性の不品行が問題化していた。
当時の風潮として、女性へ貞淑さや貞操を求めながら、一方で、公然と貞節の義務を破る男性が妾を養うのも男の甲斐性・特権・特典とするなど、今で言う「性の二重基準(sexual double standard)」(上野 1994:112)を福澤は問い、「古今世界の実際において、両性のいずれかこの関係を等閑にして大倫を破るもの多きやと尋ぬれば、常に男性にありと答えざるを得ず」(中村編 1999:150)と男性を問題視している。
福澤は、このような男性問題の解決策を講じようとしたときに、日本において「文明」を「始造」しうる道徳的な主体形成の課題の一つとして、道徳的な男性性の構築を課題にする男性論を展開した。
三.「ヂグニチー(君子の身の位)」にもとづく個人のあり方を問う
そもそも「自ら信じ自ら重んずる所のもの」(中村編 1999:155)が無ければならないと福澤は説く、そして、それが何か、自分自身に問うてみよと迫る。さらに、「男子」のあり方、個人のあり方として何が最も大切なのか、問いかける。
福澤によると「いわゆる屋漏(おくろう)に恥じざるの一義が最も恃(たの)むべきもの」「能(よ)くその徳義を脩(おさ)めて家内に恥ずることなく戸外に憚(はばか)る所なき者は、貧富・才不才に論なくその身の重きを知って自ら信ぜざるはなし。これを君子の身の位という。洋語にいうヂグニチー」(中村編 1999:156)というのである。ここで「屋漏に恥じざる」とは、「人の目から最も遠い場所にいる時も自戒し謹慎せよとの意。道徳の内面性を示すことば」(松沢校注 1982:329)と解される。
つまり、個人のあり方や男のあり方として最も大事なことは、誰が見ていようと見ていまいと(ゴッドのような天は見ているかもしれないが…)、自分の欲望や行動に対して自己調整(統御)力が備わり、自分を信じ自分を重んじ自分の尊厳を大事にする自尊感情を併せ持つ有徳者たる存在であることであろう。
この「ヂグニチー(君子の身の位)」の体現者について、福澤は、「我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働はただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気、外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にして縦横憚る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕を留めず、余裕綽々(しゃくしゃく)然として人の情を痛ましむることなし」(中村編 1999:158)とリズミカルに朗誦するかの如く語っている。
幕末に強烈な西洋の衝撃を受けた日本では、明治以来、西洋に追いつけ追い越せと、滅私奉公的に個人を犠牲にしてまでも、近代的な国民国家や産業社会の形成を最優先する傾向が、第二次世界大戦後も経済復興期から右肩上がりのバブル景気の終焉まで継続した。
個人のあり方や男のあり方への一人一人の自問自答は、先進的な西洋より日本が後発であったが故に、経済的物質的に精神的時間的にも余裕が無く、不問にふしたり、曖昧なまま先送りして来たのではないだろうか。
大量生産大量消費による個々人の飽食的な欲求充足を是とした二十世紀の末まで、日本の男性の多くは、高学歴高収入を目指し、産業戦士・仕事人間・会社人間などと呼ばれ、稼ぎ手として主たる生計維持者の役割を果たし期待に応えようとしてきたが、福澤によれば、「才学」や「資産」などは自信自重の「資(たすけ)」にすぎなかった。
地球規模での環境破壊が進行して、生存基盤が危うくなり、持続的な発展が望まれる一方で、富が偏在して南北格差が深刻となった社会状況下の二十一世紀の日本に生きる者、特に男たちにこそ、「ヂグニチー(君子の身の位)」にもとづく個人のあり方として、まず、自分を信じ自分を重んじるものがあるのかを問うこと、自尊感情を大事にすること、そして、自戒と謹慎が求められ、「屋漏に恥じざるの一義が最も恃む可きもの」になってきているのかもしれない。
四.「夫(「男」)」にこそ問う「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」のあり方
『日本男子論』における「愛」とは、「相互いに隔てなくして可愛がる」「動物たる人類の情」である。また、「敬」とは、「互いに丁寧にし大事にする」「万物の霊たらしむる所以のもの」(中村編 1999:146-147)であり、「夫を主人として敬うべしというは、女子より言を立てて一方に偏するが故に不都合…男子の方より婦人に対し、夫婦の間は必ず敬礼を尽し…時としては君に事(つか)ふるの礼をもってこれを接すべし」(中村編 1999:181)と「夫婦」間では特に「夫(「男」)」に求められている。
この「愛」と「敬」は、さり気なく「相互いに」「互いに」という〈相互性(reciprocity)〉が定義の共通要素になっている。
実はこの「相互性こそが対等の人間関係を保障」(坂本 1991:15)し、男女平等を基礎づけている重要な要素であろう。すでに一八七三(明治六)年の『学問のすすめ』二編において、「人たる者は常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ(reciprocity)」又は「エクウヲリチ(equality)」と云う」と福澤はウェーランド(Francis Wayland.1796-1865)の「モラルサイヤンス(『修身論』The Elements of Moral Science)」(伊藤 1969:3-17)から学んでいた。
「敬愛」とは、「夫婦の徳にして…夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風」(中村編 1999:147)をするという「夫婦」の利害苦楽喜憂の〈共同分担(性別分業の見直し)論〉であろう。男性に共同分担する工夫を迫り、固定的な性別分業の段階的で究極的な見直しが求められているといえよう。
たとえば、この男性の共同分担のユニークな議論の展開は、一八九九(明治三十二)年に発表された『新女大学』第二条の子育て論において示されている。父たる者は、「妻」と苦労を分かち、仮に「戸外の業務あるも事情の許す限りは時を偸(ぬす)んで小児の養育に助力」して、少しでも「妻」を休息させ、「夫」が、「妻」の辛苦をよそに安閑とし見て見ぬふりでは「勇気なき痴漢(ばかもの)」(西澤編 2003:306)であると、福澤は、「男の育児無し批判」をして、男も育児の時間を取るという「男の子育て」(丹原 1992:137)を先駆的に説いていた。
そして、「恕」とは、「己の欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事」(中村編 1999:147)という〈己所不欲勿施於人〉論(『論語』顔淵第十二第二章)になっている。己が欲さないことは、突き詰めていくと尊厳をおかされること、言い換えれば、「ヂグニチー(君子の身の位)」を危うくされることであろう。「恕」の本質的な構成要素は、尊厳の尊重・自他の〈尊厳の不可侵〉と言えるのではないだろうか。
福澤の「恕」とは、一八八五(明治一八)年の『日本婦人論後編』で男性に対しても論じられ、まず、「恕」の説明に際して、「試みに女大学の文をそのままに借用し…男女の文字を入れ換えて」(中村編 1999:59)、男が女の立場になって、相手の置かれた状況や気持ちを思いやると「大不平」「生まれた甲斐なしとまで憤る」例が挙げられている。この文脈で、「恕」とは、「心の如しとの二字を一字にしたる文字にして、己の心の如くに他人の心を思いやり、己が身に堪え難きことは人もまた堪え難からんと推量して、自ら慎むこと」(中村編 1999:61)であった。この「恕」にも〈相互性〉が意味内容に含まれている。
また、福澤の「恕」は、「愛」とも関連があり、「愛」とは、「動物たる人類の情」とはいえ、妾などを愛玩し寵愛するというより、「隔てなく」は、文脈上、「徹頭徹尾、恕の一義を忘れず、形体こそ二個に分れたれども、その実は一身同体と心得て、夫婦の人倫を全うするを得べし」(中村編 1999:147)と繋がり、自他が一心同体となるほど対等・平等に、我が身を愛する如く他者を「相互いに」「可愛がる」意味であろう。「恕」を実践して自他が「一身同体」になるほど他者の心身を思いやり「自ら慎むこと」は容易ではない。
つまり、福澤の「愛」「敬」と「恕」とは、〈相互性〉が共通要素でありながら、違いは、「愛」「敬」が、動物的であれ「万物の霊」としてであれ、男が固定的な性別分業を見直し共同分担するなど〈何かをする〉ことであるのに対して、「恕」とは、自己を起点に他者を思いやり、男が他者である女に対して(たとえば、相手を自分の思い通りにしようと手を上げるなど暴力を振るわず)尊厳をおかさない〈何かをしない〉ことであろう。
福澤によれば「己の心の如くに他人の心を思いや」るとは、己の欲することを他者にすることではなく、己の欲せざることを他者にすることがないように「推量(推察)」して「自ら慎む」ことを意味していたが、微妙ながら決定的に重要である。
「恕」論の「自ら慎む」要素は、「ヂグニチー(君子の身の位)」論の自戒と謹慎の要素と重なり合い、〈尊厳の尊重・不可侵〉を基礎づけ保障していた。「愛」「敬」「恕」論には、〈相互性〉が共通する要素であった。このように、福澤が説く「愛」「敬」「恕」「君子の身の位」という儒教用語は、有機的に関連し合っていよう。
たとえば、福澤の「愛」「敬」「恕」の共通要素になって、立場交換などして忖度する〈相互性〉は、〈平等・対等〉を基礎づけ保障する。「恕」と「ヂグニチー(君子の身の位)」とは、個人の尊厳の尊重・自他の〈尊厳の不可侵〉を基礎づけ保障する。〈平等・対等〉や〈尊厳の尊重・不可侵〉を基礎づけ保障する福澤の「ヂグニチー(君子の身の位)」「愛」「敬」「恕」論は、相互に共通要素を持ち相乗効果的に結びつき合って新たな価値や行動規範の内容になっているといえよう。
このように見てくると、〈平等・対等〉と尊厳の尊重・自他の〈尊厳の不可侵〉を基礎づけ保障する福澤の工夫の重要な要素は、「恕」論であろう。
なお、『日本男子論』において福澤は、「我輩が爰(ここ)に敬の字を用いたるは偶然にあらず」(中村編 1999:146)と特別の注意を読者に喚起している。そこで、福澤が特別の意味を込めている「敬」については、古注(原始儒教)から新注(朱子学)、そして、福澤の儒教の「先生となった白石常人は…徂徠の系譜を引く学者であった」(岩間 1997:120)ので、その徂徠の『論語徴』における解釈と比較して、福澤の「敬」解釈の特徴や「敬」概念の転換(転釈)の工夫を検討した結果を簡潔に見ておこう。
『論語』の「敬」に関する重要な章句の一つである、為政第二第七章の「子游 孝を問う。子曰く、今の孝なる者は、是をよく養うを謂う。犬馬に至るまで、皆よく養うこと有り。敬せずんば、何を以って別たん乎」(吉川 1978:56)を検討する。
古注の有力説では、養うが「労働」「奉仕」(吉川 1978:57)の意味で、子が家畜並みの位置にあり、親に対して、無条件的で無制限の上下的な敬いである。
新注では、養うが「食料を与えている」(吉川 1978:57)意味で、子が、親や家畜に対し、食することに不自由がないようにしつつ、子が親を敬うので、親が最上位で次に子、その下位に家畜という梯子のような位置関係になり、上下的でありながら、子に一定の主体性が認められ、家畜より上位に在り、「分の階梯的肯定」(守本 1967:124)という封建的世界に適合的な解釈であった。
『論語徴』のこの章句には、一見余計なエピソード風に君子と君臣関係の説明が付記されている。『孟子』離婁第四下篇九十二章の「君の臣を視ること犬馬の如くなれば、すなわち臣の君を視ること國人の如し。君の臣を視ること土芥(つちあくた)の如くなれば、すなわち臣の君を視ること寇讎(あだかたき)の如し」(小川訳注 1994:66)を部分引用して、君の臣への心的態度に対する臣の君への心的態度が追記されている。国人とは、普通の縁のない人々、路傍の人である。君と臣という上下的でありながら、臣から君と君から臣への双方向性というのか〈相互性〉の大切さが強調されており、この点が、君臣関係から親子双方の〈対等・平等〉な関係への画期的な過渡的イメージになっていよう。徂徠は、古注を支持しても単なる復古ではなく、新たな思想的可能性を提示していた。
古注であれ、新注であれ、徂徠解釈であれ、「敬」が上下的な位置関係であったのに対して、福澤の「敬」は、夫婦「互いに」「丁寧にし大事にする」と定義に明確に〈相互性〉が含まれ平等な関係を基礎づけ保障している。
このように歴史的な「敬」は上下的関係であったので、平等な関係で「敬」意を払い合い、尊「敬」し合うことが如何に困難か、「敬」解釈の変遷を見てくると平等な関係における「敬」は未だ経験していないが故に、簡単なことのようで難題であろう。
特に、男に権力が偏重した男尊女卑の状況下において、女が男を「敬」したとしても、男が女を「敬」することは、容易ならざる大衆的な難業かもしれない。
五.おわりに
福澤は、論語の章句を換骨奪胎して転釈を試み、徂徠が親子犬馬の関係に追記した君子と君臣関係を、意識的であったか否かは別にして事実として「夫婦」関係に置き換え、さらに、従来の「夫婦に別有り」ではなく「夫婦に愛敬恕」有りへ大胆な読み替えをした。
ちなみに、福澤の「夫婦に別有り」の解釈は、一対ごとの「夫婦」で『中津留別の書』に示されており、一夫多妻など妾制度を認めない一夫一婦の解釈になっている。ところが、福澤は、思想的には柔軟で将来的に一夫一婦制は「男子論」において「絶対(アブソリュート)の理論」(中村編 1999:169)ではないとして、『福翁百話』では「愛情相投ずれば合して夫婦となり、その情の尽るを期して自由に相別れ、更に他に向って好配偶を求むべし云々と…自由愛情(フリーラヴ)論」(中村編 1999:190)を紹介している。
ただし、この「自由愛情(フリーラヴ)論」は、男子の豪放磊落と称する性的放縦とは全く似て非なるものである。この考え方の影響が可能性として考えられる一八五〇年のアメリカで始まった共同体運動について、「ミルが『自伝』のなかで触れ…「個人の尊厳」のみに基づいて社会制度を形成しようとするもので…福沢はミルの自伝を読んでいた」(中村 2000:183)という。福澤の「自由愛情(フリーラヴ)論」を成り立たせる基本要素は、「ヂグニチー(君子の身の位)」「愛」「敬」「恕」論であり、男にこそ求められていたのであろう。
筆者は、本稿において道徳的な男性性の構築が福澤の課題であるとして『日本男子論』を中心に内容を検討してきた。伊藤公雄の脱鎧論では、抑圧的な鎧を脱いだ後の男性の新たな価値観や行動規範などが充分に示されていないことを指摘して、この不充分性の補充を試みた。伊藤男性性論は、なぜ新たな男性性の規範を敢えて示さないのか、それは性別にもとづく規範を問題視して、性別を越えた規範の再構築を考えているからであろう。本稿筆者も、性別にもとづく規範の再生は、新たな特性論を生みがちで、固定的な性別分業や性差別を再生産する危うさがあると考える。
伊藤男性性論では、性別などによらずに、他者への配慮・想像力をともない、支配することなく逞しく、「自己像においても他者像においても、また自己と他者の関係性においても」個々人の多様性・固有性を「ひとつ」にくくらず、「つねに多様性・複数性という志向性のなかでとらえ…差異を差異として、固有性を固有性として解放しながら、しかも、自己と他者との対等で開かれたコミュニケーション=共同性を可能にする…脱男性社会を生きるための「倫理」」(伊藤 1993:196-197)が示されていた。
福澤の議論は、道徳的な男性性の構築が課題であったけれども、内容を検討すると単に道徳的な男性性の規範論に止まらず性別を越えた規範論になっている。
つまり、「ヂグニチー(君子の身の位)といった個人のあり方は、男のあり方であり、女のあり方でもある。「愛」「敬」「恕」の両性間あるいは自他における〈相互性〉が共通要素になっているということは、「男も人なり女も人なり」「人たる者は常に同位同等」(今風に言えばgender equality)であり、道徳的な男性性構築が女性性構築の課題となり、さらに、「男」「女」の二項区分を超越した道徳的な人間(「万物の霊」)性構築の課題にもなりうる。
ところで、人は生きていくためにアクセルを踏む(「愛」「敬」の精神で〈何かをする〉)だけではなく、人身事故などを起こさないためにブレーキで停まり自己統御(「恕」の精神で〈何かをしない〉)ができなければ、市民社会で幸せに暮らしていけない、ドライバーの心の奥底には個人の尊厳を重んじる構え(「ヂグニチー(君子の身の位)」)があるというように、現代社会に適合的な倫理として、福澤の道徳論はたとえられるのかもしれない。
今を生きる性の開拓者や若者たちには、福澤論が堅苦しく古臭い印象を与えるかもしれない。しかし、何でも有りが何にも無いかのような、価値を見失い揺らいでいる人々が、激変期を生きた福澤の男女論を読むと、意外に示唆的で望ましい男性像や人間の姿が見いだせよう。
福澤が説いた「ヂグニチー(君子の身の位)」の具体化は何よりも、男性の自己解放になり、「愛」「敬」「恕」の実践は、他者との関係の解放になるであろう。単なる西洋近代化志向ではなく、東洋と西洋との両洋の要素などから成る人類の文明化を目指す「(智)徳の進歩」「人間交際の改良」「衆心発達」として、福澤の「ヂグニチー(君子の身の位)」「愛」「敬」「恕」にもとづく道徳論は、百年余りの時空を超えて、二十一世紀の一人一人の男性たちに問われ、(たとえば、共に生きる者と苦楽喜憂を分かち幸せを感じ合い、歴史的に繰り返されている性的いやがらせや殴る蹴る精神的に虐待するなど家庭内の暴力、性暴力などを予防して生じないように…)改めて道徳的な男性性構築の課題になっているのではないだろうか。
〈文献〉
*伊藤公雄『〈男らしさ〉のゆくえ―男性文化の文化社会学』新曜社 一九九三
*伊藤正雄『福澤諭吉論考』吉川弘文館 一九六九
*岩間一雄『比較政治思想史講義―アダム・スミスと福澤諭吉』大学教育出版 一九九七
*上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店 一九九四
*小川環樹訳注・荻生徂徠『論語徴1』(全2巻)平凡社 一九九四
*鹿野政直「解説」『福沢諭吉選集 第九巻』(全14巻)岩波書店 一九八一
*小泉仰「福沢諭吉の女性論」『国際基督教大学 アジア文化研究』別冊7 一九九七
*坂本多加雄『市場・道徳・秩序』創文社 一九九一
*杉原名穂子「福沢諭吉の女性論におけるパラダイム転換」『お茶の水女子大学 人間文化研究年報』第15号 一九九一
*関口すみ子「福沢諭吉の「徳」と「家族」」『福澤諭吉年鑑 28』福沢諭吉協会 二〇〇一
*丹原恒則「男の子育て・子育ての男育て」岡山女性学会編『女・男の現在(いま)を見つめて―岡山女性学10年』山陽新聞社 一九九二
*中村敏子「福沢諭吉における文明と家族」『北大法学論集』第40巻第5・6合併号 一九九〇 第44巻第3号 第4号 一九九三 第6号 一九九四
*中村敏子編『福沢諭吉家族論集』岩波文庫 一九九九
*中村敏子『福沢諭吉 文明と社会構想』創文社 二〇〇〇
*西澤直子「解説」西澤直子編『福澤諭吉著作集 第10巻 日本婦人論 日本男子論』(全12巻)慶応義塾大学出版会 二〇〇三
*ひろたまさき「福沢諭吉の婦人論にふれて―近代日本女性史研究の若干の問題点」『岡山大学法文学部学術紀要』第39号[史学篇] 一九七九
*松沢弘陽校注・福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫 一九八二
*丸山真男『「文明論之概略」を読む 上、中、下』岩波書店 一九八六
*守本順一郎『東洋政治思想史研究』未来社 一九六七
*安川寿之輔『増補・日本近代教育の思想構造』新評社 一九七九
*吉川幸次郎監修『中国古典選3 論語 上』朝日文庫 一九七八