2004年6月13日(日)午後1時30分〜4時 「21世紀の男・女の生き方をさぐる講座」 岡山市中央公民館 メンズリブフォーラム岡山 丹原恒則
「鎧を脱いだ男らしさとは何か?」(1)
〜家庭的な男性性の今昔物語をさぐる〜
はじめに−重荷になる男らしさの規範性による抑圧からの解放・脱鎧論の光と陰
*最近のリストラは、中高年層の定年前退職から若年層へも広がり、そして、年収の半減四半減化する転職が常態化して、契約社員や臨時職員など不安定雇用層が3割から今や欧州並みの4割へアメリカ並みに5割へと比率を高める勢い
かつての一億総中流意識は瓦解して階層分化が急激に進行中であり、生きる場を失う年間3万人超の自殺者は増加傾向を示し、過労死や単身赴任、長時間労有働に苦しむ産業戦士に対する改善策は先送りされ、むしろ劣悪化している状況
*このような現状において、男は強く逞しくリーダーシップを取れ!男は泣くな!弱音を吐くな!妻子を養うのは男の甲斐性!男は仕事・外中心!(女は家庭・内中心!)…という従来の男らしさの強調は、当人にとって重荷に感じられ、過剰であれば、男らしさの規範性は、自分を律するどころか、むしろ抑圧的
*今から約10年前に、男たちの他者(特に女)に対する、「優越志向(まさっていなければならない)・権力志向(自分の意志を他者におしつけ支配したい)・所有志向(自分のモノとして相手を確保したい)」といった「〈男らしさ〉の鎧を脱いで、〈自分らしさ〉〈人間らしさ〉を求める必要がある」と脱鎧論に基づく男性解放論(伊藤 1993:167-172)が説かれていた
それでは、重荷になった抑圧的な鎧を脱いだ後の新たな男らしさ(男性性)とは何か?ところが、伊藤さんは、あえて新たな男性性を示していない
*そこで、重荷になった鎧を脱いだ抑圧的でない男性性とは何か?その手がかりを求めて、日本の近現代の始まりまで歴史をさかのぼってヒントをさぐってみると、「道徳的な男性性構築の課題」を提示していた思想家がいた。更に、歴史上見過ごされてきた家庭的な男性性の精神のリレー者たち(海妻 2004)も見つかった
百聞は一見にしかず、その議論の内容を御一緒に確認し、そして、自分らしさ、人間らしさ、人間性とは何か?その内容(要素)は何か?さぐりたい…
時間があれば小休止を兼ねて途中で「個人的な精神史を旅するワーク」を!
1. 日本の近代における「道徳的な男性性構築の課題」
― 福澤諭吉の〈ヂグニチー(君子の身の位)〉〈愛〉〈敬〉〈恕〉論 ―
*福澤諭吉の文明論と道徳的な男性性の構築を課題にする男性論
→福澤の「文明」論は、「(智)徳の進歩」「人間交際(権力の偏重した男尊女卑)の改良」「衆心発達」などを要素にした複合概念(丸山 1986:215)
→当時の風潮として、女性へ貞淑さや貞操を求めながら、一方で、公然と貞操の義務を破る男性が妾を養うのも男の甲斐性・特典・特権とするなど今で言う「性の二重基準(sexual double standard)」(上野 1994:112)を福澤は問い、男性を問題視
*「ヂグニチー(君子の身の位)」にもとづく個人のあり方を問う
→「自ら信じ自ら重んずる所のもの」(中村編 1999:155)が無ければならない、それが何か、自問自答してみよう。
→福澤によれば「屋漏に恥じざる」が最も大事で、その意味は「人の目から最も遠い場所にいる時も自戒し謹慎せよとの意」(松沢校注 1982:329)
*「夫(「男」)」にこそ問う「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」のあり方
→「愛」とは、「相互いに隔てなくして可愛がる」「動物たる人類の情」
→「敬」とは、「互いに丁寧にし大事にする」「万物の霊たらしむる所以のもの」(中村編 1999:146-147)であり、「男子の方より婦人に対し…敬礼を尽くし…接すべし」(中村編 1999:181)と「夫婦」間では特に「夫(「男」)が「敬」を修得し「妻(「女」)」に対して実践することが求められている
→「愛」と「敬」は、「相互いに」「お互いに」という〈相互性(reciprocity)〉が定義の共通要素、この「相互性こそが対等の人間関係を保障」(坂本 1999:15)し、男女平等を基礎づけている重要な要素
→「敬愛」とは、「夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風」(中村編 1999:147)をするという、男性に共同分担する工夫を迫り、性別分業の段階的な見直しが説かれている
→たとえば、段階的に男性の性別分業を見直し男性が共同分担する議論の展開=福澤の〈家庭的男性性〉は、福澤晩年の『新女大学』第二条の子育て論に示されている。父たる者は、「妻」と苦労を分かち、「戸外に業務あるも事情の許す限りは時を偸(ぬす)んで小児の養育に助力」して、少しでも「妻」を休息させ、「夫」が「妻」の辛苦をよそに安閑として見て見ぬふりでは「勇気なき痴漢(ばかもの)」(西澤編 2003:306)であると、福澤は、「男の育児無し批判」をして、男も育児の時間を取るという「男の子育て」(丹原 1992:137)を先駆的に説いていた
→「恕」とは、「己の欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事」(中村編 1999:147)という〈己所不欲勿施於人〉論(『論語』顔淵第十二第二章)になっている
己が欲さないことは、突き詰めていくと尊厳をおかされること、ではないか、「恕」の本質的な構成要素は、尊厳の尊重・自他の尊厳の不可侵
→『日本婦人論後編』では、「恕」の説明に際して、「試みに女大学の文をそのまま借用し…男女の文字を入れ換えて」(中村編 1999:59)、男が女の立場になって、相手の置かれた状況や気持ちを思いやると「大不平」「生まれた甲斐なしとまで憤る」例が挙げられている
この文脈で、「恕」とは、「心の如しとの二字を一字にしたる文字にして、己の心の如くに他人の心を思いやり、己が身に堪え難きことは人もまた堪え難からんと推量して、自ら慎むこと」(中村編 1999:61)
「恕」にも〈相互性〉が意味内容に含まれる
→福澤の「恕」は、「愛」とも関連がり、「愛」とは「動物たる人類の情」とはいえ、妾など愛玩し寵愛すると言うより、「隔てなく」は、文脈上、「形体こそ二個に分れたれども、その実は一身同体と心得て」(中村編 1999:147)と繋がり、自他が一心同体となるほど対等・平等に、我が身を愛するが如く他者を「相互いに」「可愛がる」意味
「恕」を実践して自他が「一身同体」になるほど他者の心身を思いやり「自ら慎むこと」は容易ではない
* 福澤が説く個人のあり方としての「ヂグニチー(君子の身の位)」論や相互に
共通要素になっている「愛」「敬」「恕」論は、自他の尊厳の尊重・不可侵や対等・平等を基礎づけ保障する道徳的男性性構築論に止まらず、女性性構築論となり、性別を超越した人間(「万物の霊」)性構築論になり得る
2. 与謝野晶子「寧ろ父性を保護せよ」
― 福澤に影響を受け、一條忠衛の評論を自説の論拠に挙げる ―
*母性保護論争期に父性保護を主張
3. 田子一民らの「良夫賢父」論
*近代的な性別分業に疑義を呈した父性論
4. 一條忠衛『男女の性より観たる社会問題』
― 福澤に影響され、父をして物質上の奴隷たらしむるなかれと主張 ―
*近代的な性別分業を徹底的に批判した父性論
【 参考文献 】
一條忠衛『男女の性より観たる社会問題』大同館書店、1921
伊藤公雄『〈男らしさ〉のゆくえ−男性文化の文化社会学』新曜社、1993
上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店、1994
海妻径子『近代日本の父性論とジェンダー・ポリティクス』作品社、2004
坂本多加雄『市場・道徳・秩序』創文社、1991
丹原恒則「男の子育て・子育ての男育て」岡山女性学会『女・男の現在(いま)をみつめて―岡山女性学10年―』山陽新聞社、1992
中村敏子編『福澤諭吉家族論集』岩波文庫、1999
西澤直子編『福澤諭吉著作集 第10巻 日本婦人論 日本男子論』慶応義塾大学出版会、2003
松沢弘陽校注・福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、1982
丸山真男『「文明論之概略」を読む 上、中、下」岩波書店、1986
与謝野晶子「寧ろ父性を保護せよ」(『女人創造』収録)『與謝野晶子全集 第十七巻 評論 感想集四』講談社、1980