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名字・苗字・姓の由来や起源について

最終更新日: 2020 年 11 月 12 日

 このページは各テレビ番組(情報元)で放送された内容を書き留めたものです。

また、私は研究家ではありませんし大半はテレビからの引用で一部はうろ覚えですので、「軽い読み物程度」でお願いします。なお、間違いがないように努めていますが間違いがありましたら何卒ご容赦下さい。

2020年6月に「イチョウ、キムラ、サイガミ、ナバタメ、ユビスイ」を追加しましたが、基本的に更新は停止中です。

基本事項


苗字の多くが地形由来(森岡氏)。そのため、下記の解説で地形の説明で終わっている苗字が一部あります

●古代の氏(ウジ)は職業や”なりわい”を表していたそうです。苗字ができる前で、6-7世紀頃の蘇我グループ、物部グループなどが氏として有名だったそうです。


●庶民が苗字をもつようになったのが室町時代前後。ただ江戸時代は農民が苗字を持っていても名乗れなかったそうです(森岡氏)


振り漢字
日本では「大和言葉である”ひらがな”」が主で、漢字は後から付けた場合が多いそうです。

今でいう「お米」に対し「こめ、よね」という大和言葉があったところに、中国から「マイという音を持つ”米”」が入ってきた。その「こめ、よね」に対し「米」を当てた、こういった漢字を振り漢字と言うそうです。(ちなみにその逆は振り仮名)

例として「はせがわ」という名称に対し、のちに初瀬川や長谷川という漢字を当て、その方法で苗字になった場合があるそうです(森岡氏)


●始まりの地(ルーツ)に住んでいた人がよその地へ転居する時にまれに見られるのが、「一部の漢字や読み方を変える」ことがあるそうです。理由としては「転居した先で周囲の人に読んでもらえないから」「ルーツの人達に遠慮して、自分たちの苗字の方を変える」などだそうです。

例. ニシコリ→ニシキオリ


●”藤”がつく人は、有名な藤原一族の末裔の場合が多いそうです

●九州には丸がつく名字が多いそうです。

●大和言葉(やまとことば)についてはwikipediaをご覧下さい。

●江戸時代以前は苗字を変えることができたそうです。

●文中の(森岡氏)(高信氏)は各先生方の説です。


★日本人に多い名字ランキング
1位 佐藤
2位 鈴木
3位 高橋
4位 田中
5位 渡辺
・・・
99位 杉本
100位 新井


出典元の書籍「なんでもわかる日本人の名字」に名字ベスト100として掲載されています


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50音順
苗字 起源や発祥地など
阿部、安倍、安部、安陪、安辺 アベ。2つの説には重複があります。

●説1
奈良県桜井市にある安倍文殊院を氏寺とした豪族であり大化の改新で左大臣となった「阿倍倉梯麻呂(アベノクラハシマロ)」がルーツ。
東北とくに宮城県石巻市にアベさんが多いのは、大和朝廷時代にアベの末裔が東国の経営に大きく関わり人々に愛されたから。

また違う漢字を使うことで「お互いを区別」し、全国にいる阿部・安倍、九州に多い安部、安陪、安辺も含め、漢字は異なってもアベさんのルーツは同じ。(森岡氏)


●説2
アベという読みに対し、安と阿、倍と部それぞれの組み合わせで4種の苗字があったそうです。

奈良の阿倍という土地を仕切っていた古代豪族の氏が安倍。

その阿倍氏が移住した先が大阪の阿倍野。

さらに大阪の阿倍野で生まれたのが「伝説のアベ」と言われる陰陽師「安倍晴明(921-1005年)」。彼の占いは結果として国を動かしたこともあるそうです。

一方で、奈良県の安倍文殊院は安倍晴明の修行の地としても有名とのこと。安倍晴明の活躍により今でいうヒーローであり、85才という当時では長寿だった為、アベを名乗りたい人が多かったそうです。(森岡氏)

飯星、
春川
順にイイボシ、ハルカワ。
今でもその苗字の人が多く住んでいるエリアが起源である。地名から引用した例

伊集院 イジュウイン。
鹿児島県日置市ではイスノキという木が名物に。そしてお米を納める倉院(正倉院のような建物)は本来ソウインと呼ぶものの、この地域ではイスインと名付けた。
それが訛(なま)ってイジュウイン。

伊藤 勢地方の役職についていた原姓の略

伊調 イチョウ。
青森県新郷村のお寺には、安土桃山時代に寺の再建を祝して植えられた銀杏(いちょう)の木があり、現存する。

銀杏のそばには、その地域を治めていた一族が住み、明治時代の名前届けの際、提出した名前が伊調。

なお「伊」には「治める」という意味があり、また「調」には「銀杏が落葉する時、葉と葉が奏でる旋律、音の調べ」から、その名字になった、と地元民では言われている。

犬養、
鳥飼
順にイヌカイ、トリカイ。
犬を養う、鳥を飼うというのはかつて重要な仕事とされ、その職についていた人たち

小野 オノ。滋賀県大津市小野がルーツ。孝昭(こうしょう)天皇の末裔である春日(カスガ)氏の一族がその地へ移り小野へと改名。その一族の一人「小野妹子(オノノイモコ)」が外交官になった。

その後、数多くの外交官を輩出した1400年以上続くエリート一族。ちなみに歌人・小野小町も同族。(森岡氏)

井森 イモリ。群馬県にはあまりいない。
井森姓のルーツは「井」は用水路など水を得る場所、森の中の水を得る場所という意味

岐阜県と奈良県に集中(森岡氏)

大阪、大坂 オオサカ。
大阪という地名は元々、大坂と書かれ、地名のルーツは大阪城のある辺りで、坂が多かったので大坂。

大阪城ができた辺りは台地で周囲は湿地だったので敵から攻められにくかった。

姓としては北陸と北海道に多い。北前船に乗って商人が北陸や北海道に行き、その地で商売をはじめ、屋号を大坂屋とした。明治になり戸籍を作る時に屋を取って「大坂」と名乗るように。(森岡氏)

金久 カネヒサ。
姓は奄美大島がルーツでカネクと読む。カネクとは琉球列島に共通して存在する、海から寄せられた砂が堆積したような場所のこと。加計呂麻島(かけろまじま)にカネクというエリアがあり、そこが金久家のルーツ

この地区ではサトウキビ畑を持つ大地主。薩摩藩の支配下で、黒糖を厳しく徴収され農民たちは生活が困窮。黒糖を納められない農家の代わりに金久家が払ったら、藩の取決めに逆らったとのことで一族全員が断罪されたが、難を逃れた赤ん坊が金久家の血をつないだ。

自分の足元を大事にして人助けをする、その生き方が金久家にとっての「金」(森岡氏・地元の方)


鹿沼 カヌマ、シカヌマ。
栃木県鹿沼(かぬま)市がルーツで戦国時代に鹿沼一族がいた。よそへ転居した一部のカヌマ家は、カヌマと読んでもらえずシカヌマと名乗った場合があるそうです。(森岡氏)

貫地谷 カンジヤ。
珍名のひとつ。東広島市西条町がルーツ。お米の取れ高は江戸時代は「石」という単位だったが、戦国時代以前は「貫」という単位。

一貫分のお米が取れる田んぼを「一貫地」といい、一貫分のお米が取れる谷間に住んでいたから、貫地谷。(森岡氏)


余談ですが、女優の貫地谷さんと同性の競艇選手がいて親戚だそうです。

キサラギと読み、鳥取・新潟県で100名ほど。

「2月は如月(きさらぎ)で節分の時期」ですが、明治8年に国民に名字を名乗る事が義務付けられたため、鬼さんのような「当て字の名字」が増えたそうです。
(高信氏)

北村、
西村、
中村、
松村
「村単位で住んでいる方角別」につけられた。

中心の村なら「中村」、西の方の村なら「西村」、松の木の多い村なら「松村」など。


なお、南村というのは少ない。少ない理由として、昔は”山寄りの谷”側の方が「一等地」という考えだったので(ここの解説がうろおぼえ。ただし、一等地側に住みたかった人が多かったのでは?)

ちなみに、だだっぴろい野原では一等地という概念がないので、南側に住んでいる人が「南野」と名乗ることがあった

木村 キムラ。諸説が複数あり。あくまでもその一例で、A~Fの全文がひとつの説です。


A 兵庫県加古川市木村の場合:紀伊村(キイムラ)が訛(なま)って木村。

B 福島県郡山市木村の場合:今の和歌山県である紀州・熊野速玉社(キシュウ・クマノ・ハヤタマシャ)に年貢を納めていた。

C 兵庫県豊岡市木村の場合:1300年以上前の豪族と思われる木村古墳がある。

D 栃木県栃木市の木村の場合:平安時代、下野国(しものつけのくに)だった栃木県は東北征伐の前線基地であった。その際、「紀」のつく豪族がたくさんこの地にやってきた。

E 紀氏(キウジ)は5世紀以降、大和朝廷で軍事や外交を担っていた豪族であり、本拠地は紀伊国。最先端の技術と知識を背景に全国に拠点を築いた。あの土佐日記の紀 貫之(キノ ツラユキ)も同族。

F 滋賀県東近江市木村の場合:村の外れにある古いお寺「宮井廃寺」から創建当時の瓦が出土し「紀寺式(キデラシキ)の軒丸瓦(ノキマルガワラ)」と呼ぶ。

その瓦と全く同じ物が、紀氏本家(奈良県出土)の瓦と全く同じ。

また、源平盛衰記(鎌倉時代)という書物に「この地、滋賀県の木村氏は紀氏の子孫である」と明記されている。


Q. ではなぜ紀ではなく木なのか?

A. もともと紀伊の方が木だった。奈良時代の713年に定められた法律「好字二字化令」によって「地名は良い意味を持つ、漢字二文字に改め」られ、木→紀伊になった。


※さらに、NHKの番組が調査したところ、「現在、木村姓が多い地域」と「かつて、紀氏の拠点だった場所」を重ねると、ほぼ一致した。

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金魚 キンギョ。
山口県下関の魚屋(うおや)という廻船問屋が発祥。明治初期の名前届けの際、その問屋の「魚屋金蔵(うおやきんぞう)」氏の名前から「金魚」となった。

ちなみに江戸時代は魚の金魚は貴重だったため、一般人は見たことが無い人がほとんど。

剛力 ゴウリキ。
珍名のひとつ。かつて山伏(ヤマブシ)や修験者に従って荷物を運ぶ人がいた。静岡県三島市がルーツの剛力は、富士山の登山者の荷物を運ぶ一族だった。 (森岡氏)
小峠 コトウゲ。
福岡県のみの姓。ルーツは田川郡川崎町の「小さい峠」(森岡氏)

妻神 サイガミ。青森県十和田市。
東北の厳しい環境や飢饉で多くの子供が犠牲に。子孫繁栄を願い、サイガミのサイに妻を当てた (森岡氏)
財前 ザイゼン。
武士の家系。財は「宝、大事な物」。当時は田んぼと稲が大事な物とされ、「田んぼを前に住んでいる人」 (森岡氏)
斉藤 サイトウ。
 天皇の娘にあたる斎王(さいおう)様が伊勢神宮で奉仕された時、その斎王様に使えた役人の住む役所が斎宮(さいくう)と言われていた。その斎宮の中でトップの役職を斎宮頭(さいくうがしら)と呼んでいた。

 その役職名を持っていた藤原叙用(のぶもち)氏が、「藤原一族の中で斎宮頭という肩書を持っているのは自分だけだ」という気持ちの表れから
宮頭+原→斎藤が誕生したとのことです。

 一方「サイトウ」の「サイ」の漢字は85種類あって、その理由は戸籍登録の制度が始まった時は手書きだったというのが要因で、さらに次の理由で複数のサイの漢字が生まれたそうです。

・書き癖や達筆の影響でサイの漢字を役人が読めない、本人が正確に覚えていない書けない、などの理由で微妙に異なるサイの種類が増えていった。

・あえて他人とは違うサイの漢字を使ったサイトウさんもいた、とのことでした。

上記の内容は45分番組の要約なので、多少の差異はご容赦下さい。
情報元:
2017/4/6 NHK日本人のおなまえっ!(森岡氏)

参考情報:
三重県で地名に斎宮がつくエリア地図。ネット調べなので不正確です。伊勢神宮から車で30分程度のところに「斎宮」があったそうです。

早乙女 早苗を植える乙女でサオトメ。

そして、栃木県では五月に田植えをする所が多いため、五月女と書く場合があり、ソウトメとも読むことがある。

つまり栃木では、早乙女・五月女の2つの漢字、サオトメ・ソウトメの2つのヨミ、それぞれが多い。(森岡氏)

佐藤 サトウ。
森岡氏によれば、佐藤が日本一多い名字になった理由は複数のルーツがあったと考えられる、そうです。

・その1
原一族(藤原鎌足系)の子孫で、衛門尉(サエモンノジョウ、左衛門府に勤めていた中間管理職)という役職の藤原氏が左藤と名乗った。

その後、諸説があって、どこかで「にんべん」がついて佐藤になったがルーツ


・その2
新潟県渡市の原がルーツ

・その3
栃木県野市の原がルーツ


※その1は高信氏の説も含んでいます



●似た説として
左(佐)大臣(*)という役職についていた藤原姓で、略して「佐藤」

*佐吏かもしれません

澤部 サワベ。
元々の漢字は澤。沢とは「細い川」で、その辺りに住む人(森岡氏)


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清水 シミズ。■振り漢字
山の中でキレイな「水」が湧いている所をシミズと言っていた。そこで「清」を当てた振り漢字。

群馬・長野・埼玉の県境の山の中に多い苗字。(森岡氏)

東海林 古くから山形県には東海林(トウカイリン)さんがいた。

その人が荘園を管理する職業である荘司(または庄司、ショウジ)に就いた。

そののち、秋田県南部にも土地(荘園)があったので、土地を管理するため一部のトウカイリンさんが移転した。


この結果、秋田県では東海林(ショウジ)さん、山形県では東海林(トウカイリン)さんのままとなった。

なお、歌手の東海林(ショウジ)太郎さんの登場により、ショウジさんの知名度が上がった。(森岡氏)

村主 スグリ。
とても古い苗字で、かつては村の長を「すぐり」と呼んでいて、「すぐり」という言葉に対し「村主」という漢字をあてた当て字

菅原道真の末裔で、菅家(スガヤ)とか菅と名乗る人が西日本に多く、一方、東日本ではそのまま菅原(スガワラ)と名乗ったらしい

鈴木 スズキ。
熊野地方が起源。稲を刈り取った後、稲を積んだものを「ススキ」と呼び、鈴木という漢字は当て字。

熊野信仰(wikipedia)が全国に布教したことによって、鈴木姓が広まり日本で一番多い苗字となった


※似た説として
熊野が発祥で、熊野神社の神官が鈴木さんで熊野信仰を広めるようとして和歌山から東日本に向かった。そのため、鈴木さんは東日本に広まった(高信氏)

小鳥遊 タカナシと読む。鷹がいなければ小鳥は遊んでいられる→鷹がいない→鷹無し、ということから。全国に6、7軒。(高信氏)

高橋、髙橋 タカハシ。★諸説が複数あります。

・その1
奈良県天理市の古道「山の辺の道」にかかっている橋は、「布留の高橋(ふるのたかはし)」(リンク先:ナビ天理・奈良)として万葉集で詠まれたそうです。

*リンク切れはご容赦を。
*リンク先の写真は現在の橋の様子で当然ながら当時の橋ではありません。


その頃、川は舟で渡るのが当たり前で橋が建つこと自体がビッグイベント。さらに橋のそばに住むことが「ステイタス(地位の高さ)」だったそうです。

その橋が詩に読まれたことを誇りに思い、自らの苗字にした人達が「高橋」さんの始まり。(森岡氏)


・その2
奈良市八条町にある高橋神社をルーツとする説。

平城京があった頃、薬師寺と大安寺のほぼ中間に位置する橋があった。
その橋は貴な人が通る(当時の建築技術で)最先端の、それから高橋と言われいた。(森岡氏)


・その3
天皇の料理番(料理長)に高橋さんがいた。また神主に髙橋姓が多い。

また、一般的に引っ越しをした人は苗字を変える人が多かったが、「高橋」に誇りを持っていた人が多かったので、全国に高橋姓が多い。(森岡氏)


・その4
(高信氏説)天皇家の料理番をしていた一族。天皇は雲の上の人とされ、「高いハシゴ」を使わないと天皇に料理を届けられないと言われていたから。


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田中 タナカ。田んぼに住むの意味からで、田を所有しているという意味合いが強いそうです(高信氏)

九十九 読み方はツクモ。百は「モモ」とも読み「99の次が百」であることから、ツギモモ→ツクモへと変化したとされるそうです。(森岡氏)

徳井 トクイ。徳のあるすばらしい水くみ場で、徳井。(森岡氏)

青天目、生田目、名畑目などナバタメ ナバタメ。

ナバタメという音が先にあって、のちに青天目、生田目と色々な漢字が充てられたという説。「音が先で、漢字が後」というパターンは鈴木と同じ。


そのうえで「ナバタメ」という音について。

森岡先生は実際に「栃木県の生田目地区」を取材され、その地区の「傾斜地の田んぼ、つまり棚田があったと思われる場所」を撮影。さらに周囲には神社や公民館があったそう。

そこで先生は、「ナバる」には傾斜地という意味があることから、その地名の由来として

「傾斜地(ナバ)+田んぼ(タ)+集落の境(メ)」→ナバタメと仮説。メは「境目のメ」とのこと。


※青天目という苗字は福島県に多いとのこと。

※生田目はナマタメと読めるのにナバタメと読む理由として、このナバタメは漢字が先ではなく音が先に生まれた名字と仮定。

色々な漢字が当てられ複数の派生が生まれた、そう判断すれば「ナバタメ」という音から、派生の一つとして青天目が生まれたと解釈できる、という森岡先生の仮説です。



錦織 滋賀県大津市錦織(にしこおり)町がルーツ。錦を織る職人が多くいた町で、彼らは錦織部(ニシコリベ)と呼ばれていたそうです。

時代とともに苗字の"部"が省略され、錦織(ニシコリ)と読まれるように。ルーツとしてはニシコリが正しい読み方だそうです(森岡氏)

仁科 ニシナ。■振り漢字
「に」とは大和言葉で”赤みがかった粘土質の土」を指し、「しな」とは長野県の言葉で「河岸段丘(傾斜地)」のことを指す。

「にしな」とは”赤みがかった粘土質の傾斜地”のことで、仁科という漢字を当てた振り漢字。なお長野には「しな」のつく地名が多いそうです(森岡氏)

長谷川 ハセガワ。■振り漢字
奈良県の初瀬川(ハセガワ)という川が谷にあり、長い谷の川と言われたことが起源。

諸説はあるものの、5世紀頃、初瀬川周辺を拠点にしていた雄略天皇が家臣たちに「長谷川を名乗れ」と指示、その後全国に広まったそうです(森岡氏)

服部 衣服を担当する「服織部(ハタオリベ)」という職業をする人達がいて、のちに苗字の”部”が省略され「服織(ハタオリ)」に。

さらに字が変わって「服部(ハタオリ)」になり、さらにのちにハットリへと読み方が変わったそうです。(森岡氏)

東国原 ヒガシコクバル。鹿児島内の東国原地区というのが起源。ちなみに西国原(ニシコクバル)地区も近くにあるそうです

福田 フクダ。自分の家に福をもたらしてくれる田んぼになりますように、という願いを込めた。

古舘 フルタチ。舘は「武士が住んだ所」で、古舘は「使われなくなった館(やかた)」

邊土名 ヘントナ。DA PUMPのISSAさん
浦添市には玉城朝薫(タマグスク・チョウクン)の墓(別名:邊土名家の墓)がある。玉城朝薫氏は伝統芸能「組踊(くみおどり)」の創始者で踊り奉行とも言われ、さらに玉城の家系は領地の管理を王様から任された役人でもあった。

王様から領地を任された時「玉城よ、奥平の土地を授ける」「では私は今日から奥平と名乗ります」。そして明治の頃「奥平よ、邊土名の土地を授ける」「では今日から邊土名と名乗ります」
玉城→奥平→邊土名(森岡氏・地元の方)

又吉 マタヨシ。
又吉さんの9割弱が沖縄県に住み浦添市に集中。
浦添市城間(ぐすくま)の隣に又吉村があったが今は米軍基地。

あれも良し、これも良しでどちらも良し、また良し→又吉という姓はそういった、おおらかな気持ちから生まれた。(森岡氏・地元の方)

真弓 マユミ。魔物が出た時に呼ばれる朝廷の役人で、弓を射る名人の末裔。

三宅 宮家(ミヤケ)という宮廷の倉庫番の役人で、のちに三宅に改名した人

宮崎 ミヤザキ。宮は神社。山の少し高い所、出っ張った所にある神社周辺に住んでいた人(森岡氏)

宮根 ミヤネ。全国で約160件しかない。そのうち約60件が埼玉県に多く、かつては宮本と名乗っていたものの、朝廷から「宮本」という宮司がその町の神社に赴任。

「そんな偉い人と同じ名前だとその人に失礼にあたる」という謙虚さから、地元の宮本一族が「草木の根もと」という意味で”本”と同じ”根”に変え、宮根に改名したそうです。

ちなみに司会の宮根氏の親戚は埼玉県にはいないそうです。


宮本 ミヤモト。宮廷に勤めていた人

森本 モリモト。苗字の由来としては、様々なパターンがある名前

山田 ヤマダ。山ぎわにある田んぼの所有者。

室町時代の人口の9割が農民で、山に囲まれた谷間に住む人が多く、当然、田んぼがあった(森岡氏)

指吸 ユビスイ。大阪府堺市。

堺市は室町時代から商業都市だったので商売にちなんだ名字が多く、このユビスイは魚問屋でありながら金融業も営んだ豪商「指吸善兵衛」氏が最初。

現在も善兵衛氏のご子孫が堺市で法人「ゆびすい」を経営され、その社史には次の記述がある。

「『渇しても盗泉の水を飲まず』という心意気を示したもののようです。『食べる物がなければ指をしゃぶって辛抱してでも不正不義はせぬ』という初代、善兵衛の家訓が堺きっての大きな魚問屋を築き上げ苗字帯刀(wikipedia)を許された際に「指吸」という姓に象徴されたものと思われます」

(依頼主により番組が調査した名字)

番外編1 ●大阪府岸和田市発祥の苗字には「谷(ヤ)」が最後につく事が多い。これは「お店の屋号の読みをそのままに漢字だけ”谷”」に変えた名字が多いそうです。

●●屋→●●谷

淡路谷、伊豆谷、和泉谷、岸和田谷、讃岐谷、日根野谷、佐野川谷、小間物谷、名小路谷など


●大阪府堺市には具足さん、陶器さんなど「店名から”屋”をとった苗字」が多いそうです。(森岡氏)

*管理人補足
陶器屋、具足屋(ぐそくや:甲冑(かっちゅう)を作り販売する店)

番外編2 ●名字に上中下が付く方
地名・土地の特徴に由来。室町時代前後、農村部の庶民が使ったとされます。


●名字に都道府県名が付く方
郡・町・村・字(アザ)といった小さな単位の地名。
(森岡浩氏)

★県別ベスト5

書籍「なんでもわかる日本人の名字」の「県別ベストテン(10)」から東京都と岡山県の1~5位までを掲載させて頂きました。(書籍には他の都道府県も掲載されています)


・東京都 鈴木・佐藤・高橋・田中・小林・・・

・岡山県 山本・三宅・藤原・佐藤・田中・・・

岡山県民である管理人の感想は「とくに三宅さんが多いのが岡山の特徴かもしれません」

情報元
NHK・ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!(2019年1月24日、2020年6月18日放送・森岡浩 氏)

NHK・日本人のおなまえっ!(2017年4月6, 13, 27日、5月11,25日、6月1日および6月放送・森岡浩 氏)

TOKYO MX・5時に夢中!(2016年2月9日放送・高信幸男 氏)

朝日放送・ビーバップ!ハイヒール(2015年放送・森岡浩 氏)

読売テレビ・ミヤネ屋(2010年8月19日放送)

●補足
このページの★マークの記述は、前述の姓氏研究家・森岡浩氏の著書「なんでもわかる日本人の名字」が出典元です。

2010/8初版



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