徐州大殺戮

権力者が精神的な危機に陥ったらどういうことになるか。まして曹操なら。
徐州における報復戦は、曹操が善玉になれない大きな原因のひとつです。
以下は物語なので多分にフィクションですが、
徐州戦において曹操を弁護する気持ちはありません。
それはまぎれもなく彼の歴史のうちの重要な一部分であり
曹操という人間を考えるうえで除外することのできない要素だからです。




悲劇の源はどこにあったろう。
それは曹操という一個の人間の回路に深く織り込められたものだったろうか。
その日、徐州に血の河が流れた。

彼は曹家の期待を一身に受けて生れた、長男だった。一代で巨万の富を築いた彼の祖父は宦官。父親は曹家に養子入りし、待望の跡継ぎをもうけたのだった。彼は家族に慈しまれ、何不自由なくスクスクと育った。
彼がものごころついたころ、何か変だと思った。それは微かなものだったので最初は気にもとめなかったが、しばらくしてはっきりとわかった。『家』という閉鎖的な空間を一歩出ると世界が一変すること。貧しさ。飢え。荒れた心。疲れきった目。弱いものがさらに弱いものから奪う世の中。邑人は少年を蔑みの目で見た。卑しい宦官の孫。腐れ者。人々は彼を陰でこう呼んだ。少年は初めて差別というものを知った。

信じていた学友が裏で彼を腐れ者と呼んでいたことを知ったとき、彼は口惜しさのあまり父親の前で涙をこぼした。父親はどうしていいかわからないという表情をして、「心配せんでいい」と言った。「心配せんでいい。世間がどう言おうと、うちには財力がある。それは生涯お前を守ってくれるものなのだから」
既にすれ違っていることを少年は悟ったが、どう言っていいのかわからなかった。

彼は邑の不良たちと交わり、放埓な日々を送った。酒を覚え女を覚え、賭け事に興じた。そしてがむしゃらに勉強した。書物とみればかたっぱしから読み、自らも書いた。その姿はまるでひたすらに何かを探し求めているかのようだった。やがて彼の瞳に不思議な光が宿るようになった。何者とも相容れない、それは一瞬ゾッとするような種類の光だった。

父親はほとんど彼のためだけに生きていた。息子に箔をつけてやるために、大金をはたいて身分を買った。息子の名を売るために賄賂をばらまいた。それが巧を奏すと無邪気に喜んだ。そんな父親を彼は冷笑した。
彼は官職につくと恐ろしいまでの厳罰主義をとった。そのおかげで周辺の治安は回復したが、人々は彼の瞳の光に射すくめられた。彼の厳然な態度は、まるで自分の『家』を振り切ろうとするかのようだった。やがて私兵を持つようになると、彼は家の財を惜しみなくそれに注ぎ込んだ。家族や分家が不安がり父親が止めるのも聞かなかった。

彼はたびたび理想を語ったが、父親には語らなかった。彼は時折哀しみにさいなまれたが、父親には気付かせなかった。父親が純粋に自分を想っていることは知っていた。父親は彼の内なる世界を知らなかった。語りたかった。気付いてほしかった。二人の言語はことごとくすれ違った。彼はどう言っていいのかわからなかった。少年時代から少しも進歩していなかった。

彼はみるみるうちに頭角を現した。持ち前の判断力とバイタリティで新しい制度をどんどん取り入れ、州を治める君主になると厳しく公正な良政をしいた。政務については潔癖すぎるほどだった。他人を寄せ付けぬ雰囲気はしだいに和らぎ、理想を語るときの表情は生き生きとして豊かだった。

彼はふと思い出した。故郷に残してきた家族のこと。家族同然の使用人のこと。飼っていた動物たちのこと。家族らは戦乱で故郷を離れ、今では別の土地に疎開して暮らしていた。音信が途絶えてからもう何年も経っていた。
今なら・・・と彼は思った。今なら、ひょっとしたら、親父ともちゃんと向き合えるかもしれない。俺はもうあの頃の俺とは違う。変にかまえたりせずに今ならきっと・・・。それは畏れとはにかみを含んだ期待だった。父親との関わりにおいて彼は幼いままなのだ。モシ ソレデモ ダメダッタラ ドウシヨウ?
彼は自分の本拠地に家族を呼び寄せることにした。

その日、徐州に血の河が流れた。

彼はにわかにはその知らせを信じることができなかった。
彼の家族が徐州牧の陶謙の一味に惨殺されたというのだ。
彼が部下を率いて現場に駆けつけたとき、惨状は朝日に晒されていた。
彼の小さな弟は逃げるところを後ろから斬り殺されていた。
いつも彼を励ましてくれた兄弟同然の使用人は首を落とされていた。
離れでは妹が犯された上で殺されていた。
父親は厠で胸をえぐられ死んでいた。
そこにあったのはどれも懐かしい面影ばかり
死顔は恐怖にゆがみ、生きているものは一人もなかった。

部下たちは彼が慟哭するかと思ったが、振り返った彼の顔は泣いてはいなかった。
がらんどうの表情。限りなく忌まわしく、人間の顔とは思えない。あの印象的な瞳の光すら消えていた。
低く乾いた声で彼はつぶやいた。
「復讐だ・・・徐州をおとす」


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