理想・・・期待・・・希望・・・はにかみ・・・畏れ・・・期待・・・
すべては消し飛んだ。
彼はもう人間ではないかのようだった。
『家』の亡霊。復讐の悪鬼。
鎧の上に喪服をまとった、不気味な白い軍団。彼らは徐州を踏みにじっていった。たちまち十余城を攻め落とし、何の関係もない邑人たちを手当たり次第に殺していった。
「皆殺しにしろ!ひとりものがすな!」
彼は陣頭に立ってそう叫んだ。死体はことごとく河に投げ込まれた。水は血で真っ赤に染まり、果ては死体で塞き止められた。
彼は強大な権力を持った傷ついた子供
人々に絶望を感染させる
本来彼は無差別殺人をするようなタイプではなかった。
常に冷静にものごとを判断し、最も合理的な方法をとった。
倫理的な面からでなく、実利的な面からむやみな殺人を嫌った。
厳しくても公正な態度は人々の信頼を集めた。
それが今や彼は、完全に感情に躍らされていた。本拠地を空にして全軍で遠征し虐殺を続ければ、いずれ自らが破綻することは目に見えていた。それさえも気付かないほどに、彼の瞳は曇っていた。
二度に渡る酷い遠征は、部下達を憔悴させた。「こんなはずじゃなかった・・・」大半の者は胸の内につぶやいた。
主君は人が変わってしまった・・・こんな事をするために彼についてきたのではない・・・それとも・・・
「それともこれが主君の本性だったのだろうか?」
裏切りは慎重に進められた。彼のいない本拠地の留守をあずかる城の中で。チャンスを伺う者同志が結託し、疑問を感じる者を説き伏せ、計画が練られた。他国の主に密書を送り兵を確保しそして・・・
彼らは叛旗をひるがえした!!
本拠地が謀叛によって占領されたことを知ると、彼は愕然とした。その首謀者の中に孟卓の名があったからだ。出征に際し、「自分が戻らなかったら妻子を頼む」と言い残した親友だった。彼はうろたえた。そんなにうろたえたのは生れて初めてだった。そして不安げに辺りを見渡した。
(俺はいったい何をしているのだろう・・・?)
彼はやっと本来の彼の瞳で周りを見た。底知れぬ恐怖に震えが来た。とにかく撤退することが先決だった。
全軍撤退!!
曹操軍の去った後には、何も残らなかった。おびただしい数の死体以外は。
本来の自分に立ち戻った彼の頭脳は冴えていた。しばらくは苦しい状態があったが、長くは続かなかった。一年で本拠地を奪還し、ついで帝を擁立。遷都を果たし屯田制を施行した。数年のうちに勢力は拡大し、ついに徐州をも制圧した。殺された家族の仇だった陶謙は既に病死していたが・・・。
だが、徐州での虐殺は彼に激しい罪悪感を与えた。何の罪も無い領民を殺したのは愚かだったと今では認めていた。あの時はなんの疑問も感じずに女子供までその手にかけたのに、今ではその記憶は悪夢となって夜な夜な現われ、彼を苦しめた。彼は家族のことを思い出すことができなくなった。朝日に晒された家族の死の光景と、自分が引き起こした徐州の死の光景とがイメージの中でオーバーラップし、発狂しそうになるからだ。少年時代の家族の記憶、平穏だった頃の記憶までもがそれと共に封印された。そうして彼は二重の意味で家族を失った。
彼には振り返る余裕などなかった。とにかく真剣に、ひたすらに仕事をした。そうするしか自分を救う道はなかった。彼の苦しみを誰も知らなかった。彼も誰かにわかってもらおうなどとは思わなかった。既にその資格を失っていた。彼には理想があった。それは誰にも譲れない彼の中の聖域だった。それは、言わばユートピアのようなものだった。現状とは程遠い、しかし彼は純粋にそのために仕事をした。一歩でも近づくように・・・
河北との関係が煮詰まり決戦が近づくと、彼を糾弾する檄文が敵の手によってばらまかれた。それが届けられた時彼は頭痛で寝込んでいたが、手に取ると興味深そうに読み耽った。そこには思い付く限りの彼の悪口が書かれていたが、巧みな煽動文だった。彼は怒るのも忘れて感心した。内容とは裏腹のものだった。
糾弾は彼の父、祖父にまで溯っていた。
『・・・曹操の祖父は宦官であり、父はそこに養子入りしたどこの馬の骨ともわからぬ輩である。操はそれに贅肉のようにくっついている余分なものである。・・・』
「腐れ者・・・か・・・」と彼はひとりごちた。「久しぶりの響きだな・・・」
そうして本当に久しぶりに、彼は父親のことを思い出した。
その夜彼は家族の夢を見た。もう何年も見なかった、思い出すことすらしなかった家族の夢。
故郷の家は平穏で日差しはあたたかく、邸内は懐かしい人々で和やかににぎわっている。
小さな弟妹がパタパタと廊下を走っていく。母親が笑いながらそれをたしなめる。中庭で使用人が鳥たちに餌をやっている。父親はそれを眺めている。・・・
彼が育まれ、反抗した富める家。
ただいまと言って帰りたいと彼は思う。でも自分の手を見て躊躇する。あそこに帰れるのは少年時代の自分だけ。今の面変わりした自分を見ても彼らは気付いてはくれまい。そう思い物陰で足踏みしている。すると父親が彼を見て言った。
「おや、操、やっと思い出してくれたんだね」
彼は急に溢れ出る涙をこらえることができなかった。それは真っ赤な血の涙だった。
「お父さん・・・俺は・・・」
父親は微笑んでいる。
「俺はダメなんだ・・・!俺はダメなんだ・・・!」
涙はどんどん流れ落ちて足下に血溜りをつくる。
「俺はもうそこには帰れないんだよ・・・」
血溜りがいくつもできる。父親はオズオズと微笑んでいる。
「あなたには聞こえない・・・届かない・・・いくら叫んでも・・・!」
喉に血の味がこみあげる。
「いくら殺しても・・・・・!!」
血溜りは溢れ流れ河となり、父親と辺りのものを押し流しドロドロに溶かしたが
それでも彼は泣き止むことができなかった。
目覚めたとき、彼は夢の内容を覚えてはいなかった。
それどころか、自分が何者で、今いる場所がどこかということすら忘れていた。
ただ喉に残る血の味だけを感じていた。
家族のことを思い出すということは、自分が犯した殺戮の記憶と向き合うということだ。
だがそれは記憶よりも言葉よりも先にやってきた。
彼は泣いた。
それが怒りにも懺悔にも変えることのできない純粋な哀しみだったので
側近に気付かれぬよう声を殺して泣いた。