建安十五年。
曹操が赤壁で孫権らに大敗を喫してから二年目の春。
曹操の本拠地は、すっかり許都から業へと移行していた。
南方から帰還した後、曹操は遠征で疲弊した国力の回復をはかった。
戦災者を救済する布告を出し、水軍を整備し、新たな屯田を開く。
業城に銅雀台を築くのもその一環である。天下の人々にその健在ぶりを示す必要があった。
荀文若は主として許都での政務に従事しているため、以前のように頻繁に主君曹操の側にいるというわけではない。
献策は書簡で行うことがほとんどだ。
遠征に次ぐ遠征で北へ南へと走りまわる主君のいない間、都の留守を守る。
それが荀文若の役目だった。
ある朝のことだ。荀文若は目覚めると、部屋の隅の書棚の目をやった。
「おや、どうしたんだい奉孝」
荀文若は書棚に向かって話しかけた。
たまたまその場面を目にした人がいたならば、荀文若はまだ寝ぼけていると思うかもしれない。
奉孝とは、三年前の建安十二年に亡くなった郭奉孝のことだ。
荀文若は、死者に話しかけたことになる。
「朝からお出ましなど、珍しいね。いつだって、陽が落ちてからしか現れないというのに。ははあ、今日は孟徳様がこの許都に到着なさる。それでかな?」
荀文若は、クククと咽喉の奥で笑った。
「逢いたいか。逢いたいよなあ」
それから、唄うように。
「奉孝は孟徳さまに逢いたい。孟徳様も奉孝に逢いたい……」
荀文若の目には蒼白く光る郭奉孝の亡霊が見えていた。
一通の書簡に、それは宿っていた。
郭奉孝亡き後、曹孟徳が個人的に荀文若に宛てた手紙だ。そこには愛する部下を失った曹孟徳の悲痛な想いが切々と綴られている。
君子怪力乱心を語らずという。だが、見えるものは仕方がない。
最初こそ驚いたが、今となっては数日現れないとむしろ寂しさを感じるほどだ。
郭奉孝の亡霊は、何もしゃべらないし、何の害も及ぼさない。
ただ現れる。それだけだ。
早馬が、主君の到着を知らせてきた。
空は蒼々と澄んでいる。上々の天気だ。
「曹公のご到着。開門、開門――」
堅固な城門が、兵士たちによってゆっくりと開かれる。
荀文若は真っ先に立って、自らの主君を出迎えた。
「おかえりなさいませ、孟徳様」
「ただいま」
鎧姿の曹操は馬上からまぶしそうに荀文若の顔を見た。
曹操の背後には虎痴将軍率いる親衛隊百騎が続き、いかめしい表情で主君を見守っている。
「ああ、降りなくても結構です。どうかそのまま中へお進みください」
と言った時にはもう、曹操は馬から降りていた。
「久しぶりだなあ、文若。元気にしておったか」
いきなり抱きついてくる。
戦塵のにおいに混じって、曹操のにおいと言うべきものが鼻腔をくすぐる。
それはよく遊んでよく眠る、子供特有のにおいにかなり近いものだ。
「と言っても」
小柄な主君の身体を広い胸にしかと受け止めながら、荀文若が言った。
「わりと最近逢いましたよね。業で」
パッと顔を離し荀文若を見あげると、曹操は愉快そうに笑いだした。
「ハハハ、そういえばそうだったな、ハハハハハハ……」
宮中に参内した曹操は、帝に拝謁し、新年の祝辞を述べ祭祀を行う。
それだけで一日のほとんどは終わった。
後は、お決まりの宴である。
宴では、曹操が自作の楽府を披露するのが恒例となっていた。
宴たけなわとなった頃、曹操は立ち上がった。
「最近作った新曲がある。ここいらで皆さんに聴いてもらいたいと思う」
演台に上がり、楽坐にかまえて琴を奏ではじめる
その調べに乗せて、曹操は朗々と唄いだした。
酒にむかいてまさに歌うべし
人生いくばくぞ
たとえば朝露のごとし
去り行く日のはなはだ多し
熱き情はたかぶるままに
つらき憂いは忘れ難し
何を以て憂いを解かん
ただよき酒あるのみ
青青たるきみが衿
悠悠たる我が心
ただ君が為のゆえに
沈吟して今に至れり
青々とした書生たちの襟を
私ははるばると慕いてやまず
ただ君があればこそ
想いにふけりて今に至ることができたのだ……
歌の半ばから、荀文若はピンときた。
これは人材を求める唄だ。優秀な人材を渇望する曹操の切なる想いが込められている。
そしてその人材とは……。
荀文若の脳裏に、ひとりの青年の顔が思い浮かんだ。
優秀な人材という言葉には似つかわしくない、けだるい面差しの、擦れた瞳をした……。
荀文若はブンブンと首を振った。あの方が郭奉孝を強く惜しんでいるのは間違いないが、唄にそのような未練を込める主君ではないだろう。もとより、主君は常に新しい人材を求めていた。それを改めて唄に詠んだというだけのことだ。
唄が終わり、拍手喝采を浴びて曹操は自分の席に戻った。それから杯を持つと、酒をなみなみと注いでから、その酒を一滴もこぼすことなくひょい、ひょい、ひょいとやってきて、荀文若の横に座った。
「身の軽いことですなあ」
「席替えじゃ。わしは文若の隣がよい」
曹操はニコと笑って言った。
そうやって、人を無造作に喜ばせるのだ、このお方は。
調子の良いことよ、と思う裏で本気で喜んでいる自分がいる。荀文若はそれが悔しかった。
実際には、自分は一番ではない。二番目でもない。
自分は主君にそれほど好かれているわけではない。重宝にはされているが、好かれてはいない。
愛されているのは才能だけだ。
……それでいいのかもしれない。
特別な絆を求めてしまう自分が欲張りなのだ。
「人材を求める唄」
清々しい笑顔を作って、荀文若は曹操を見詰めた。
自分の美貌を充分自覚している荀文若は、そうやって微笑みかけると誰もがうっとりとなり、心に隙を作ることを知っていた。それが主君にも有効なのかどうか、ふと試したくなった。
「そうでしょう?」
「ああその通りじゃ。また一段と美しくなったな、文若」
「めっそうもありません」
ダメだ、素直すぎるこのお方は。心に隙を作る前に思ったことを口に出してしまう。
急に可笑しくなって、荀文若はフフッと笑った。
「なにを笑っておる。面白いことでもあったか」
「いえ、孟徳様が」
「面白いか?」
「面白うございます」
「それはよかった」
それから意味もなく二人で大笑いした。
笑いながら、荀文若は思った。
このお方は、わたしの寝室に奉孝が現れることなど知らないのだ。
「孟徳様、奉孝が」
荀文若の口から、ふっとその名がこぼれ落ちた。
「奉孝が?」
曹操が真顔に戻る。
しまった、と思った。
奉孝の霊が現れる。主君のしたためた書簡に、奉孝が宿っている。自分は、それを毎夜と見ている。
そんなことを彼に告げて、なんになるというのだ。それに、
……それに、二人を出逢わせたくはない……。
「奉孝がどうしたのだ?」
真っ直ぐな眼差しを曹操は向けてくる。真っ直ぐで、真剣な。
「いえ、奉孝のような人材は、なかなか見つからないものですね」
曹操は引き続き荀文若をじっと見詰めてから、腑に落ちなさそうに視線を外した。
おそらく、ごまかしたことは悟られただろう。
曹操は、一息に杯の酒を乾した。
そして先程までとはガラリと変って、政務について考えている時の鋭い顔つきになった。
「そのことについてずっと考えておる」
「唄からそのお気持ちがにじみ出ておりました」
「人材だ。もっと人材が必要だ。優れた人材を余すところなく集めることのできる仕組みを考えなければならん」
「現在の登用施策にご不満が?」
そう言うと、曹操はしばらく黙り込んだ。
黙って酒を注ぎ、また一息にあおる。
「名のあるものに才もあるとは限らんからな」
厳しい表情で一点を見詰め、沈んだ声でそれだけをつぶやいた。
宴は夜更けまで続き、荀文若が床に付いた時にはもう夜明けが近かった。
奉孝の亡霊は相変わらず書棚に立っていたが、かなり酔いの回っていた荀文若はその顔を見る間もなく眠ってしまった。
そうして意識が途絶えた次の瞬間にはもう目を覚ました。起こされたのだ。
「文若、朝だぞ起きろ。今日は二人で市街に視察に行くぞ」
意外な声に驚いて跳ね起きると、そこに庶民のいでたちをした曹操が立っていた。
「孟徳様……!」
荀文若は叫んだ。心臓が早鐘を打っていた。
「ハハハ、寝癖がついておるぞ文若」
悪童のように笑う曹操。その後ろには、奉孝が……郭奉孝の霊が強い光を放っているのだ。
「孟徳様、後ろを見て、振り返ってください。彼がいる……」
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