「操・・・お父上は気の毒したな・・・」
よりにもよって何でこんなことを口走ってしまうのだろうと華佗は思った。
曹操は徐州牧の陶謙(とうけん)の一味に父親をはじめとする家族を皆殺しにされているのだ。そしてその報復戦として全軍で徐州に攻め込み、領民もろとも虐殺してまわった末に州全土を壊滅させた。たった三年前の話だ。
曹操は哀しげに微笑んだ。
「すまん曹操。わしは口下手だ。昔っからそうだ。だから・・・」
「ちがう」
曹操は華佗の言葉を遮って言った。
「嬉しかったんだ。いまそのことを言ってくれる者はだれもいない」

華佗は十五歳の頃の曹操の姿を思い浮かべながら、いま目の前にいる中年男の姿をしみじみと見た。
面影は、もちろんある。
華佗より頭ひとつ分も背が低く、相変わらず心配になるほど痩せている。少年時代ふっくらと丸みを帯びていた頬はすっかりこけて男らしい輪郭となり、顎と口元には品よくたくわえられた髭が。醜くもないかわりに特徴もない顔立ちは、街ですれ違っても彼と気付くかどうかが怪しい。一言でいうと、印象の薄い顔なのだ。しかし切れ長の眼(唯一の特徴といえる)はハツラツとして、人を惹きつける何かがあった。これは少年時代と変わらない。そして、この声。昔日のボーイソプラノの名残のカケラもない。

「とりあえずわしの部屋に来てもらっていいかね?お疲れだろうが、つもる話もしたいし」
「ああ、もちろんいいとも」
「ではわたくしは職務に戻らせていただきます」
荀文若は軽く頭を下げて言った。
「文若、後を頼む。少し時間がほしい」
曹操は華佗をうながしながら、荀文若の方を振り向いて言った。かしこまりました、と文若。

入るなり、ああ曹操らしい部屋だと華佗は思った。仄かにかおる香はとても落ち着く種類のものだし、部屋全体はシックで上品な配色に抑えられている。家具も内装も余計な装飾はただのひとつもなく、ところどころに繕った跡がうかがえる。そして壁面の棚にはおびただしい数の書籍が。埃がかぶらないように本棚には透ける麻布がかけられている。ついたてには彼の自筆の書が施されていた。『我有嘉賓 鼓瑟吹笙』 詩経の一節だ。
「シックだ」と華佗は言った。「品が良い。とても落ち着く」
曹操は嬉しそうに笑った。少年の頃と変わらない、無邪気で自慢気な笑顔だ。

二人が部屋に入っていくばくもしないうちに、廊下を小走りに駆けてくる履音が聞こえた。そして先程の荀青年の美しい声音が。ただし、今度は少しあわてている。
「孟徳さま、先に発見した塢の元老が参っております。是非曹公に接見したいと」
「文若、印は渡してある。それにその話は先日決着がついたばかりではないか」
「しかし曹公本人でないと聞かぬと頑として言い張るものですから」
「わかった。すぐいく。待っておれ」
曹操は立ち上がると、華佗に向かって悪いな、と言った。
「急用らしい。すまんがそこらの本でも読んでくつろいでいてくれ。すぐに食事を持たす」
「かまわんよ。時間はいくらでもある」
「・・・そうだ、ひとっ風呂浴びるといい。すぐに湯治係を手配するから待っていてくれ」
「それはありがたいな」
曹操は華佗にちらりと笑みを送ると、そのまま部屋を出て荀文若を従え廊下をスタスタと大股に歩き去った。
(風を切って・・・)
と華佗は形容詞をつけてみた。(確かに多忙というのは本当らしい)
卓上に目を遣ると、そこには詩の草稿がちらばっていた。

奈何此征夫
安得去四方
戎馬不解鞍
鎧甲不離傍

・・・兵士を思いやる詩だ。

旅の垢を落し食事を終えた華佗は、曹操の部屋で寝台に腰を下ろしてウトウトしていた。あれから随分経つがまだ曹操は現れない。しかし曹操の部屋は非常に居心地が良かったので待つのは少しも苦にならなかった。寝台の傍らに置いてある読みさしの本や、几帳面に折りたたまれた布団や、涼しげな藤細工の枕を見ていると華佗は不思議な気分になった。ひとりの男がここで生活しているという当たり前のことに、どこかしら奇異な感じを受けたのだ。多分曹操があまりに大きな権力を持っているからだろう。どんなに強大な力を持つ英雄も奸雄も、結局はただのひとりの男に過ぎない。

華佗のまどろみを覚ましたのは、廊下を走ってくる複数の履音だった。背筋に寒いものを感じて華佗がそっと廊下を覗いてみると、何のことはない。曹操と荀文若をはじめとする数人の側近がこちらに向かって走ってきていた。曹操を先頭にしてこの国のトップクラスの朝臣たちが、裾をからげ全速力でバタバタと廊下を走ってくる。ちょっと不思議な光景だ。
「悪い悪い!華佗、待たせて悪かった!あれから次々と難題をふっかけられてな。どうしても執務を離れることができんかったのじゃ」
言いながら曹操は華佗の前まで来ると、中腰になってフウフウと息をついた。
「わしもトシかな・・・?このくらいの距離で息が切れることはなかったんだが」
「何も走ってこなくても・・・」
あきれ顔で華佗が言う。
「いや、待ちきれんかった!もうとっくに準備が整ったとの報告を受けたのでな」
「準備って?」
「ふふふ・・・」
曹操は中腰の状態から華佗を見上げて悪戯っぽく笑った。
「来れば解る。さ、時間がない。華佗、わしについてきてくれ」

華佗が曹操らについて回廊を歩いていると、行く手からゆるゆると歩いてくる一人の青年と出会った。一応官衣を着ていることは着ているが、思わず華佗が「今時の若いもんは・・・」と言いたくなるようなラフな着こなしと風体をしている。青年はいかにもタルそうに欠伸をしながら、
「ったく・・・主公が走ったからってみんなしてぞろぞろと付いて走っていくこたあないんですよ。どーせ折り返してくるんですから。主公ひとりに勝手に走らせときゃあいいんです」と言った。
「おお奉孝、今宵は出席してくれるな?華佗、彼は郭嘉 字を奉孝といって、我軍の軍祭酒をつとめてもらっている。よかったぞ。またおぬしにフケられるかと思ってヒヤヒヤしておった」
曹操は華佗と郭奉孝の顔を交互に見ながら嬉しそうにはしゃいで言った。
「どうぞよろしく。お若いのに軍祭酒とは余程目を掛けられているんですなあ」
華佗が挨拶すると、郭奉孝はうっすらと笑って小首を傾げ、
「どーも。ふーん、年寄のわりには背が高いんですね」と言った。

カチン。
(曹操のやつ、こんな若僧まで配下にしているのか・・・?)
「いったいどこに向かっているのだ?」
我慢しきれずに華佗が聞くと、曹操は「広間だ」と応えた。そして片目をつむって華佗を見ながら、
「実は今宵は家族サーヴィスを約束していたのさ」と言った。





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