三十八年間の冬が明ける。
凍て付いた指先に、ようやく小さな花が咲く。
愛しい、愛しい、愛しい、小さな花。
目が覚める寸前、おぼろなまどろみの端っこにひっかかりながら、郭嘉はそんな夢を見た。
帳を透かして、光の束が窓から射し込んでいる。
あれ? ボク、もう目を開いてる?
チリン♪
「…………」
むくり、と郭嘉は牀の上に起き上がった。
そのまましばらく、ぼんやりとする。
いつも起き抜けに襲われる、あの絶望的なけだるさがない。重い鎧のような息苦しさもなく、空気が爽やかだ。何年ぶりだろう、こんな朝を迎えたのは。
深呼吸。
チリン、チリン、チリン、チリン、
鈴の音が聞こえる。可愛らしい小さな音色が、同じ調子で繰り返している。そういえば、夢の中でも聞こえていた。郭嘉のほんの耳もとで、それは鳴っていた。
「……なにやってんの」
あくびをしながら、郭嘉は鈴の持ち主に聞いた。
そこにいるのは、例の珍獣少女、小温である。郭嘉の横にうずくまり、小温はなにやら奇怪な行動をとっている。背中を丸め、顔に当てた手をせわしなく動かしながら、もぞもぞもぞもぞ、揺れている。そのたびに、組み紐の髪飾りにつけた金色の丸い鈴が、チリン、チリン、チリン、チリン、軽やかな音色を響かせる。口から覗かせた小さな赤い舌が、手元でひらひら踊っているのも見える。
「顔を洗っているんですぅ〜」
その手を休ませることなく、小温が言った。
けりっ。
「はぅっ、な、なんで蹴りを入れるですか!」
夜具からにょきっととび出した郭嘉の脚にどつかれて、小温はへちょっと牀の上に突っ伏し、それから素早く防御体制に身構えた。
「いや、脚が勝手に」
郭嘉はまたあくびをし、ボリボリと頭を掻いた。
「顔を舐めて洗うのか。やっぱり珍獣決定だな」
「起きたら顔を洗うのは毎朝のたしなみですぅ〜しょうぐんさまは洗わないんですか、きゃっ、きたないですねぇ〜!」
けりっけりっけりっけりっ。
「はうっはうっはうっはうっ! 連打はやめてほしいのですっ」
「このボクを不潔呼ばわりするとは笑止千万! 確かに面倒で半年ばかり風呂に入らなかったことはあるが、ボクはきたなくなんかないぞ。唾液で顔を洗うほうがよっぽどきたならしいわ」
「易水ではみんなこうやって顔を洗うですよぅ〜、……多分」
「やめい! 易水の人々に悪い。勝手にネタで県民歌を作られてあまつさえそれが全国的にヒットした御当地の方々の身にもなってみろ」
「はぅ……。な、なんのことですか」
「質問するな!」
ギラリ。
郭嘉は暗黒面の形相で一喝し、小温を睨みつけた。
「はぅ」
「それから、いい加減ボクをしょうぐんさまと呼ぶのはやめろ。思い出したくもないものを思い出すからやめてくれと苦情が来そうだから」
小温は口を閉ざし、コクコクと頷いた。
「わかったか」
コクン。
「ふう。おかげで朝から消耗した」
そう言って郭嘉はバッと蒲団を自分のほうに引っ張り上げ、その中にすっぽりともぐりこんだ。
「ど、どうするですか」
「寝なおす!!」
こんもりともりあがった蒲団の中から、キッパリと響く声。
沈黙。
更に沈黙。
「……あ、」
小温は恐る恐る蒲団のこんもりに近付いた。
「あのぅ〜」
ちろっと端をめくり、郭嘉の髪の毛が見えている、その穴蔵の中に顔をつっこんで覗きこみ、小声で、
「だったらなんて呼べばいいですか」
「奉孝」
穴蔵の中から、声が返ってきた。
「ボクのことは、奉孝と呼べ」
小温はゴソゴソと、もっと奥まで頭をもぐりこませ、ひそひそ声で、
「奉孝、二度寝はよくありませんよ」
けりっ。
「言われた通りしたのになんでまた蹴るですか!!」
「奉孝さまだ」
郭嘉は蒲団を思い切り蹴り上げ、再びむくりと起き上がる。
「はうっ ふとんがふっとん……」
「黙れ」
「ハイ」
郭嘉はふーっと長い息を吐くと、枕もとの卓に置いてある水差しの水を杯に注いで、一口飲んだ。
「くそっ、目が冴えて眠れなくなってしまった」
「いいじゃないですか」
ギロッ
郭嘉が睨むと、とっさに枕を盾にして防御している小温の姿。
バーカ、と悪態ついて郭嘉は立ち上がり、ふらり、と窓の前に行く。
帳を開けると、サッと眩しい光が部屋に滑り込んだ。
昨日は雪がちらついていたというのに、暖かな陽射し。こんな日には、城壁の上にのぼりたいと郭嘉は思った。もっと遠くまで見渡せたなら。冬枯れた庭の景色ではもの足りない。
風が吹いて、郭嘉の羽織っていた袍が、肩からスルリとすべり落ちた。
すっかり肉の落ちた、どこかいびつで、疲れたような郭嘉の輪郭が、光に呑まれそうになる。
小温はハッとして、大事なことを思い出した。
この人は、病人なんだ。
「奉孝……」
「ん?」
無表情の郭嘉が振り向く。
「さま、奉孝さま、そこは冷えるですよ。風に当たってないで、早くこっちに戻ってくるですよ」
小温はタタタッと郭嘉に駆け寄り、床に落ちた袍を拾い上げた。そしてせいいっぱい背伸びをして、もう一度それを郭嘉の背中にふわりと着せかけた。
「平気さ。今日はへんに暖かいもの。それよりも小温、見てごらん、ほら、そこ」
郭嘉は両手で袍の衿を押さえ、軽く顎をしゃくった。
桟のわき、たくまった帳の上。そこには、小さな虹ができていた。
光の気まぐれでこぼれ落ちた七色の虹は、風で帳が揺れてもおかまいなしに、じっと同じ場所にとどまっている。
「はぅ……」
「きれいだな」
「きれいですね」
ひととき、二人は黙って虹を眺めた。
と、そのとき。
「ほ・う・こ・う〜♪」
窓の下から聞こえてきたのは、『○○ちゃん、遊びましょー』的なノリの声(ただしおっさん)。
「出た、お待ちかね」
郭嘉は苦笑した。
苦笑するのも道理で、そこに現れた男は曹操だった。
いや、曹操だから無条件に苦笑するというわけでもないが。
(ったく、それが君主の登場の仕方ですか)
郭嘉がそう思うのも無理はない。曹操は、頭に黒い頬被りをして、コソコソと壁を伝うように窓の下から現れたのだから。
「主公……。こそ泥じゃないんですから、君主なんですから、もっと堂々としたらどうなんですか」
格子窓を開き、顔を出した郭嘉があきれたように言う。
「仕方なかろう! 側近と書記官をまいて来たのじゃ。厠に行くと偽ってな」
「それで頬被りを?」
「こうすれば、よもやわしとはわかるまい」
わかる。一発でわかる。むしろ遠目にもわかる。
心で厳しくつっこむ郭嘉である。
曹操の立っている場所は室内より一段低く、曹操はうんと背伸びして、ほとんど窓枠にぶらさがっている状態だ。
郭嘉が曹操の腕をとって引っ張りあげようとすると、曹操は自信満々に言った。
「大丈夫じゃ。このくらい簡単に跳び越えられる。ちょっとそこをどけ」
曹操は窓から離れ、十歩後ろにさがった。助走をつけて、
タンッ!
しなやかな脚力で跳躍! 軽やかに窓枠をくぐり抜け、着地……
ひらり、ずるっ、
「あ……っ」
ガリッ
「〜〜……っ」
ずるっずるずるずるずるっっ
くるんっ
「……うわ!」
どっしん。
……するはずだった。
「ひぃ〜、失敗じゃ」
ものの見事にずり落ち床に尻もちをついた曹操は、腰に手を当て、いてててて、と声を漏らした。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄った郭嘉が曹操の顔を覗き込む。真剣、心配顔になって、じっと曹操の目を見詰める。
「……だっ」
なぜか曹操、とっさに視線をそらす。
「大丈夫じゃ! 大事ない! 武人のわしとしたことが、これしきのことで失敗するなどふがいない! ハハハハハハ!」
「よかった……。もう、やんちゃもほどほどにしてくださいね。ボクの心臓に悪いんですから」
「……すまん!」
郭嘉のその言葉にガーンとなった曹操は、しょんぼりとうな垂れた。
「反省、したんですか?」
クスッと郭嘉は笑い、意地悪な口調で言う。
「ウン」
コクンと頷く曹操。
ただし、頬被りは付けたままである。
ふってわいた突然の成り行きに、ぽかーんと口を開けて見ていたのは小温だ。
窓から落っこちてきた頬被りの男。小温の姿はしばらく男の眼中になかったが、ふいに顔を挙げたかと思うと、男は小温の顔を見た。
「にゃっ!」
奇声をあげ、小温はピッと四肢を緊張させた。
頼りなさそうな風貌に反して、男の眼光は異様なほどに鋭い。動物的な本能から、小温は警戒態勢をとった。すなわち、全身の体毛が逆立つ。
この男はヤバイと野性が教えるのだ。
「奉孝、なんだこの猫は」
男が言った。
ぽん。
上記は、郭嘉が手を打った音である。
「そうだ、そうだ、そうですよ! 猫でした。猫だったんですよ、この珍獣は! あーすっきりした。さすがは主公、いや、ありがとうございます!!」
「なぜに感謝されるのかわからんが……」
曹操は立ち上がり、開け放してあった窓を閉めた。
「思い出した。そなた、小温だな。奉孝の温め役」
「はー、よく覚えてますねぇ」
「まあ、人事に関してはだいたい把握しておる」
「人事、ねえ……」
脱力した感じにへらへらと笑いながら、郭嘉が呟く。
「それより奉孝、無理して立っていないか? 横になっていなくていいのか?」
曹操が心配そうに訊ねた。
「あ、今日は具合がいいんス。そういう主公こそ、徹夜明けなんじゃないスか」
まあな、と曹操は言った。
「ついつい、客人の話が面白くてな。語り明かしてしまった」
「主公らしいス」
「奉孝!」
「……はい?」
呼び声とともに、曹操はくるりと郭嘉に向き直った。
やにわに両手を広げたかと思うと、そのまま寄り掛かるように、曹操は郭嘉に身体を近付ける。
そしてなにを思ったか、曹操は郭嘉の首に両手を絡め、抱き寄せた。
必然的に、曹操の顔が郭嘉の胸のところに来る。
「……?」
常人より少し高めの曹操の体温が、郭嘉の胸でじんわりととけた。
曹操はその体勢のまま、掬い上げるように郭嘉の両眼を見詰めた。
思いつめたような眼差しで、焼け付くような眼光で、じいっと、見詰め続ける。
頬被りが愛らしい。
……ええと。
見詰められ、見詰め返す。
ただそれだけの時が過ぎた。しかも、互いの鼻と鼻が触れ合いそうな至近距離である。
曹操は真顔だ。まるで中天から太陽に見詰められたように、郭嘉は身動き取れなくなった。
やがて、さすがに間を持てあました郭嘉が、これは何らかの行動を起こすべきではあるまいかと思いはじめた頃。
にぱっ。
曹操が、笑顔を見せた。
「あ、アハ……」
つられて郭嘉の顔も緩む。
「わしの笑顔は不自然ではないな?」
にこやかな笑顔の曹操が、にこやかに問う。
「あ、はい、ばっちりス。『曹操の暴を恐れず、ただ曹操の笑いを恐れる』という諺もあるくらいで、完璧にチャーミング素敵な笑顔っス」
「よしっ」
曹操はパッと身体を離し、窓を開け、窓枠に片脚をかけた。
「仮眠をとらずともがんばれそうじゃ。おおい、そこの扉の陰に隠れておる医者、奉孝を頼んだぞ!」
そう言い放つと、曹操は、今度こそ軽やかに、見事な身のこなしでひらりと窓から飛び降りた。
「じゃあな! また夕方、来れたら来る」
しゅるんと頬被りをほどき、空に放す。
それはうまいこと風に運ばれて窓から部屋に入り、郭嘉の手のなかに納まった。
走り去る曹操の影を見送っていると、待ち受けたように、もうひとつの大きな影が柱の向こうから現れ、曹操の小柄な影にスッと寄り添った。
あれは、許チョか。
「ったく……」
もはや口癖になってしまったその呟き。
「すげえ人だよ、ったく……」
郭嘉は手の中の頬被りを握りしめた。
窓を閉めて振り返ると、そこには薬湯を持って立っている主治医の姿。
「や、待たせたねぇ」
へらっと笑って、郭嘉は主治医に言った。
「……はぅ」
小温は、幼児が父親の太腿に隠れるような感じで、ピタリと郭嘉の後ろにくっついていた。
つんつん。
曹操の姿が見えなくなるまで、ひとこともしゃべらずつっ立っていた小温だったが、ふいに思い出したかのように、郭嘉の袖を引っ張った。
「ん? なんだ? 小温」
郭嘉は小温のほうを振り返った。
「奉孝さま、今の男の人って、完全に、絶対に、熱烈に」
「んん?」
郭嘉が初めて見る、深刻そうな、極めて真面目な表情で小温は言った。
「奉孝さまを愛しているですね……」
チリン♪