華佗が曹操少年と別れたのはその半年後のこと。
曹操が父親の曹嵩(そうすう)に付き従って都・洛陽に移住することになったのである。
城門の付近で華佗は都に向かう曹家一行を見送った。物騒な世の中である。一家の乗った車におびただしい数の家財と召し使い、それに護衛の私兵が加わって一行はものものしい行列となった。
華佗は挨拶をするでもなくただ遠くからそれを見送っていた。
ふと、一行の歩みが止まった。そして護衛に囲まれた車の中から、少年が一人、ひらりと飛び降りた。
曹操だ。
曹操はまっしぐらに華佗のもとに駆けてきた。そしてためらいもせずに、細い腕を回して華佗に抱きついた。
「・・・操・・・・・・」
「華佗、曹操を忘れるな」
曹操は身体を離し颯とした表情で華佗を見詰めた。
「曹孟徳を忘れるな・・・!」
曹操はもらったばかりの字(あざな)を誇らしげに唱えると、不敵な、それでいて無邪気な笑顔を華佗に送った。そしてすぐにきびすを返し、あっという間に走り去った。振り返り様に「さらばだ華佗。また会おう!」と高い声(十五になるというのに、まだ曹操は声変わりを迎えていなかった)で言い放ちながら・・・。
(曹操よ。抜き身の刃のように純粋な、そして恐ろしい少年よ。言われなくても、おまえのことはとても忘れられそうにないよ・・・)
抱きついた曹操の華奢な身体の感触は、いつまでも華佗の身にまとわりついて離れることがなかった。
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これまでにいくつの死に絶えた邑を通り過ぎてきたことだろう。
あれから二十六年。
華佗は新たな都、許に向かっていた。
帝を戴いた曹操がその政治中枢を一手に握る、漢帝国の首都へ。
曹操。
華佗は、世の中の全てを見下していたあの痩せっぽちの少年のことを思い出す。中国大陸のどこにいても、彼の噂は嫌が応でも耳に入ってきた。都を落ち、反董卓連合軍を起し、当時暴政を極めていた董卓(とうたく)に真向から戦いを挑んだこと。それに敗退するも、青州をたいらげ一大勢力を築いたこと。私怨により徐州を壊滅させたこと。呂布(りょふ)を破るや、帝を迎え都を自らの本拠地に移したこと。
だが華佗が思い浮かべる曹操の姿はいつだって十五歳になったばかり。思い出の中で少年は歳をとらない。
「方々で華佗先生のお噂を聞く。その養生の術で多くの人々の命を救ったとか。懐かしさに居ても立ってもいられない。逢いに行きたいが、多忙で政務を離れることができない。もしお近くにお寄りのさいには、是非許都を訪ねてきてほしい。必要なら使いの者を遣します。操はいつでも先生のことを待っております」
華佗が曹操からもらった手紙の内容である。懐かしい肉太のおおらかな書体。少年曹操はよく自作の書を華佗に見せてくれた。あの頃に比べるとはるかに上達している。しかし間違いない。これは曹操自身が書いたものだ。
許都へ。華佗は曹操に会いにゆく。
許都周辺のいたるところに兵士の放置遺体が折り重なるようにして転がっていた。ここいらは激戦区だった場所だ。馬の屍骸。野営の跡。「曹」の旗を掲げたまま身体中に矢を浴びてこときれている兵士。そのすぐ側にボロボロになった「呂」の旗も見える。両軍相まみれて、残っているのは累々と連なる死体、死体、死体のやま。そして、行く先々で出くわす死に絶えた邑。疫病。盗賊。飢饉と搾取により全員が餓死した邑も。
ほんの少しでも彼らに生命が残っていたらいいのに、と華佗は思う。そうしたら手を尽すこともできるのに。しかし彼らは完全に死んでいた。死んで、風化している。
許都が近付くにつれ、奇妙な現象があった。ここに来るまでに曹操の評判は必ずしも良いものではなかった。
「曹操だって新興勢力の野心家に違いない。いつ化けの皮が剥れて第二の董卓になるかわかったものではないわ」
「しょせんは卑しい宦官の養い子。大した器ではあるまいよ」
「聞けば先の徐州での虐殺は、朝廷の命によるものではなく己の私怨で行ったそうではないか。そんな人物が英雄などであるはずがない。せいぜいが乱世の奸雄というところだろう」
そんな具合にだ。
しかし許都が近付くにつれ、どうも曹操の評判が良くなっていくのだ。城門付近で泊めてくれた農夫の一家は快く華佗を迎え入れてくれた上に、「まあまあ、えらいお医者の先生で・・・」と言いながらなけなしの食料で心尽くしの馳走を振舞ってくれた。「実は曹公に会いにゆくのです」と華佗が打ち明けると、にこにこしながら、「それは良いですなあ。曹公は実によい方です。よく気の付く方です。何よりも我々農民を大事にしてくださる。あの方がお上についてから暮らしぶりも随分と楽になりました」と言った。
華佗はこそばゆい気分になった。曹操というとどうしても、あのこまっしゃくれた悪ガキをイメージしてしまうのだ。曹操のやつ、本当に善政を敷いているのだろうか・・・?
城門をくぐるとそれはますます顕著になった。郊外とはうってかわって都は人々で賑わっていた。目抜き通りには商人の掛け声が響き渡り、老若男女が入り混じって俗っぽい雑踏をつくりだしている。旅の途中ついぞ見かけることのなかった人々の笑顔が、ここには溢れている。
「旦那、あんたも曹公に仕官のクチかい?」
華佗が宮廷の手前でウロウロしていると、警備兵に声を掛けられた。華佗はぎょっとした。この男、鼻が無い。罪人か?しかし肉刑は廃止され、ついぞ行われていなかったはずだが・・・。
「そ、その鼻は曹公にやられたのか」
思わず華佗が聞くと、みるみるうちに男の顔に怒気が現れた。
「とんでもないことを言っちゃなんねえ。やい、爺い、曹公を侮辱したらただじゃおかんぞ。これは洛陽にいたとき役人に削ぎ落とされたんだ。曹公はこんなわしを公平に雇ってくださったんだ。おめえ、何にもわかっちゃいないな」
「・・・遠方より到着したばかりなのでな・・・」
華佗はホーッと息をついた。
「実はその曹公に招かれてやってきたのだが・・・わしは華佗というもので、ここに曹公からの書簡もある。どうすれば宮中に入れるのか教えて・・・」
「ええっ、あんたさま華佗先生か!?」
華佗が言い終える前に男は大声をかぶせた。
「えれえこった!とんだ失礼をしてしまった!すまんこってす。あんたさまが曹公の人生の師匠のかの有名な華佗さまだなんてちっとも気付かなかったものですから。おおーい、皆の衆、華佗先生の御到着だぞーッ」
華佗は激しく面食らって呆然と立ちすくんだ。(人生の師匠・・・!?なんだそりゃ)
とたんにあちこちから警備兵たちがわらわらと華佗のもとに集まってきた。そして手取り足取り彼を門の中へと導いていく。「ささ、どーぞ華佗先生ずずいと中へ!」「お目に掛れて光栄です」などと口々に言いながら。「おいらはちょっくら曹公に知らせてくるべ!」さっきの鼻の無い男はそう言うと素晴らしい俊足で宮の奥へと駆けていった。華佗の目は白黒しっぱなしである。
華佗が案内された先の回廊に、ひとりの美丈夫が出迎えに来ていた。すらりと背が高く、ゆったりとした着物を上品に着こなしている。まだ青年と言ってもいいくらいの年頃だ。華佗の姿をみとめると美丈夫はにこりと笑って、
「華佗先生ですね。お目に掛れる日を心待ちにしておりました。はじめまして、わたしは荀ケ(じゅんいく)字を文若と申します。曹公のもとで司馬をつとめています。どうぞ、私室で曹公がお待ちかねですよ」と容姿に似合った爽やかな声音で言った。
(荀文若、あの聖賢と名高い名門の・・・世の中にこれほど美しい男がいたとは・・・)
華佗が荀文若に見とれていると、その背後から「待ちかねたぞ華佗」という声が響いた。低い男の声。低くて乾いている。そして中年男性がひとり、華佗の方に向かって歩いてきた。「やあ、久しぶり・・・」
「・・・曹操・・・」