阿蚕はいつもひとりぼっちだった。
でも、ひとりぼっちということに気がついていないので、寂しくはなかった。
というよりは、阿蚕にはひとりぼっちでないというのがどういう状態かわからないのだった。だから、寂しくなりようがなかったのだ。
両親は阿蚕をかわいがった。
兄弟や、親戚や、たくさんの客人が阿蚕を抱き上げ、頬擦りをし、やわらかな髪を撫でた。それでも、阿蚕はひとりぼっちだった。
ひとりぼっちの世界はとても心地がいいのだ。
いつからか身体と一体になってしまったかのような桃色の毛布にくるまって、その子宮のようなあたたかで肌触りが良くていい匂いのする場所で、阿蚕は全能だった。阿蚕の世界に『他者』はいない。だから、すべてのことは阿蚕の思いのままだ。世界は阿蚕で、阿蚕は世界だ。阿蚕は成長しない。阿蚕は言葉を覚えない。全能の世界から外へ出て行くことを阿蚕の細胞は拒んだ。
そんな阿蚕は、もちろん成人することなく短い一生を終える予定だった。
阿蚕を呼び醒ましたものはなんだったろう。
それは人ではなく、雨音のようなものだったかもしれない。
とにかく、ある朝、初めて阿蚕は自分の脚で『外界』へと出ていった。
雨粒が髪の毛を伝い、睫の先で大きくなった。地面はすぐにぬかるんで、阿蚕の小さな足に泥がしつこく吸い付いてきた。背中を伝う雨粒が冷たくて、濡れた袖が腕に絡みついて気持ちが悪かったけれど、それでも阿蚕はどんどん歩いた。引きずっている桃色の毛布がだんだん重くなってきて、だんだん本当にうんと力いっぱい引っぱらないといけないくらい重くなってきて、あるとき阿蚕は気がついた。桃色の毛布は、変貌してしまっていた。
阿蚕はショックを受け、それから、底が抜けたように怖くなった。
桃色の毛布は濡れて起毛がダマになり、地面に近いところから泥を吸って黒く変色していた。一番大問題なのは、あの心地いい肌触りが、跡形もなく失われていたことだ。いつも自分をやわらかく包み込んでくれた桃色の毛布は、いつの間にか得体の知れない気持ちの悪いものになってしまっていた。
阿蚕はどうしていいかわからなかった。大きな樹のうろの中で、できるだけ身体を小さく折りたたんで震えていた。怖くて怖くてしようがなかった。ひどく理不尽な感じがして、なにかに八つ当たりしたかった。そこで初めて、阿蚕は自分のほかにだれもいないことに気がついた。八つ当たりすべき相手がいないのだ。
ボクハ、ヒトリボッチナンダ
阿蚕の世界に『寂しい』が生まれた。
阿蚕を見つけたのは、荀家の御曹子、荀イクだった。阿蚕は、うろを覗き込んだ荀イクの顔を見るなり、しがみついて大声で泣きじゃくった。
「なにがそんなに哀しいの? もうだいじょうぶだよ阿蚕」
阿蚕はすべてが哀しかった。とりわけ、桃色の毛布が自分を裏切ったことが哀しかった。汚れてしまうことは、阿蚕にとって裏切りと同じだった。純粋な、それは産声と同じ泣き声だった。
ひとりぼっちの世界、即ち全能の世界から外に出て、阿蚕は成長した。
会話を覚え、読み書きを覚え、やがて兵法と戦略に強い関心を抱くようになる。
阿蚕は奉孝と呼ばれるようになった。郭嘉、奉孝である。
郭嘉は、自分の中の『寂しさ』を客観視することができた。
『寂しさ』だけではなく、自分の中に現れる気分や感情の流れを、冷静に分析することができた。幼少時の発育の過程が人と少し違っているせいかもしれない。『寂しさ』が生まれた瞬間をはっきりと覚えているわけではなかったが、彼はそれらの感情を完全に自分から切り離して眺めることができるのだった。
とりわけ『寂しさ』は、眺めるだけではなく、手の上で転がしたり、頬擦りしたり、抱きしめたりできる対象だった。『寂しさ』が現れると、郭嘉はそれをいとおしむように抱き寄せる。郭嘉の中で、『寂しさ』はあるかたちを持っているのだった。
『寂しさ』は、甲冑を着込んだ小柄な男のようなかたちをしていた。