その日も曹操は華佗の診療所に入り浸っていた。昨日洗髪したばかりの様子で、きれいに梳いた髪を頭のてっぺんにきっちりと結い上げていた。いつもぼさぼさに振り乱しているから、たまにそうしているといかにも『育ちの良いお坊ちゃん』という雰囲気になる。華佗の書斎で漁ってきた書物を診療室に持ち込んで朝からずっと読んでいる。どうやら今日は読書の日らしい。周囲は患者のうめき声やら急患やらでバタバタと騒々しいのに、一度も顔を上げることなく一心に読み耽っている。すごい集中力だ。
一巻読み終えると、曹操は「ホーッ」と長い溜息をついた。頬はほんのり上気して赤みを帯び、瞳は新しい知識を得た歓びにキラキラと輝いている。そして華佗の方をじいっと見て、きまってそわそわしだす。たった今読んだばかりの本の内容についてしゃべりたくてたまらないのだ。彼は華佗の手が空くのをいまかいまかと待っている。そしてタイミングをとらえると、すかさず「ねえねえ、この本なんだけどさあ」と興味深かった個所を指差しながら華佗のもとにいそいそと持って行って話し掛ける。擦れてない。
「花嫁泥棒・・・」
ふと思い出して華佗が言った。
「おまえ、花嫁泥棒をしたってのは本当なのかい」
「したよ、何度か」
それがどうしたの?とでも言いたげに曹操が応えた。
「なんでそんなことを・・・」
あきれた表情で華佗が聞く。
「なんでって・・・ゲームだよ。スリリングだろ。邸内の間取り図を見て計画立てるのも楽しいけど、何てったって現場で上手く切り抜けて、大人が右往左往するのを見るのほど面白いことはないや。胸が空くね。組んだ相手が間抜けでヒヤッとすることもあったけど」
「おまえは他人の迷惑というものを考えないのかい?自分が楽しけりゃそれでいいのか」
「盗んだ花嫁はちゃんと面倒を見てる。人道に劣ることはやってない」
曹操は自信たっぷりに言う。
「充分人道に劣るよ・・・」
もはや華佗は溜息まじりだ。やれやれ、この少年は倫理というものを教わっていないのか?
「いいかい曹操。おまえにとってはただのゲームでも、花嫁にとっては一生の問題だ。おまえの気まぐれで花嫁は一生をだいなしにしてしまうんだぞ。そのことをわかっているのか?」
「でも彼女たちは別に結婚したくなかったって言っているぞ。夫になるのは親が決めた顔も知らない男だから未練はないって。むしろ三食昼寝付きで感謝されてるくらいだ。どこが悪いんだ?」
「花婿はプライドを傷付けられ、双方の家族じゅうが大迷惑を被り、下手したら責任を問われて死ぬものがでる」
「ハハン、あーんなやつら!」
「そこだ。曹操おまえ、周囲の大人たちはみんなバカで自分より劣っていると思っていないか?」
「華佗は同レヴェルだろ」
曹操は切れ長の目を光らせてニヤリと笑った。
「曹操、世の中の自分以外の人間はみんなバカだ、みんな劣っているというのは、愚か者の考え方だよ。本当は弱い人間の考えることだ」
曹操の顔から表情が消えた。うつむいて何かをじっと考えている。そして少し膨れっ面をすると、そのまま何も言わずにトボトボと部屋を出ていってしまった。(脈あり)と華佗は思った。いまの言葉は曹操少年には相当こたえたようだ。
少しして華佗が休憩室を覗くと、曹操は窓辺で外の景色を眺めがらぼんやりとしていた。外は良いお天気で、澄み渡った秋空から心地よい微風が吹いてくる。
何かを思い付いたようにふと曹操は顔を上げた。そして立ち上がり鳥籠の側までいくと、籠の扉を開けて雷鳳を抱き出した。雷鳳は翼を広げ「クゥー」と鳴く。曹操はその殆ど癒えた翼の傷痕をしげしげと見詰めてから、おもむろに雷鳳を放り投げた。それこそ無造作に、ポーンと。
雷鳳はもんどりうって床に叩きつけられた。反射的に数度翼をばたつかせたが、放物線を描いて重力のままに落ちたのだ。「クィッ!」という絶叫のような鳴声を上げ、床の上でなお翼をばたつかせ、もがく。しかしいくらはばたいてみても飛び立つことはできない。
「曹操・・・!手荒なことを・・・!」
華佗は雷鳳のもとに駆け寄り、叫んだ。曹操はポカンとしている。
「だって雷鳳もそろそろ飛ぶ練習をしないと・・・」
(しまった)と華佗は思った。(言っていなかった・・・)
「曹操、雷鳳はもう飛ぶことはできないんだよ・・・。翼の大元の筋が切れていたんだ。傷は癒やすことができても、一度切れた筋は繋がらない。どうしようもないんだ。すまない。最初に飼主であるきみに言っておくべきだったのに」
「・・・ダメなの?練習しても?」
「・・・すまない」
とたんに見開かれた曹操の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。すぐにしゃくりあげ、鳴咽となる。
「ヒック・・・」
泣きながら歩いてくると、曹操は華佗が抱いている雷鳳の頭に唇を寄せ、何か囁いた。
「放り投げたりしてごめんね」
確かにそう言ったのだ。
次の瞬間、華佗は凍りついた。声を上げることも、息を呑むことすらできなかった。
曹操は携えていた刀をスラリと抜くと、雷鳳の胸を一突きにしたのだ。
血はたいして飛び散らなかった。しかしもたげていた鷹の頭は一瞬にしてだらんとぶら下がった。即死だ。
「な・・・曹操・・・なんてことをするんだ・・・!」
華佗は思わず叫んだ。
曹操は雷鳳の屍骸を抱き寄せた。そしてやさしく抱き締めた。足もとにポタポタと血が滴る。
「だって先生、飛べない鷹なんて鷹といえますか?」
曹操は真っ赤な目に涙をいっぱいに溜めたまま華佗を見上げて言った。
(恐ろしい・・・)
華佗は初めてこの少年のことを心底恐ろしいと思った。
雷鳳を殺したことがではない。鷹狩の鷹が飛べなくなったら処分するのはむしろ飼主の義務であり、そのこと自体に問題はない。しかしそれはあまりにも瞬間の出来事だったのだ。ほんの微かなためらいも迷いもそこには含まれてはいなかった。そしてその時の曹操の顔には哀しみ、ちいさな友を愛しむがゆえの哀しみしかなかった。純粋な愛情ゆえの迷いのなさ。
見事だ、と華佗は思った。恐怖はその見事さゆえ。泣きながら愛鳥の屍骸を抱いて立つ少年の姿に、華佗は空恐ろしいものを感じずにはいられなかったのである。