抱いてきた。
引き締まっているが、女の身体。雷姫姐さん。意識の端で曹操は呟いたが、声にはならなかった。
薬を欲しがって暴れる曹操の身体を、雷姫は渾身の力で抱きとめた。曹操は歯を喰いしばった。身体中の傷が軋んだ音を立てて疼きだす。それが少しも不快ではない。痛みは、自分と外界をつなぐ唯一の橋のように思える。乾きにも似た禁断症状のほうがはるかにつらい。
雷姫は、一晩中曹操を抱いていた。
どうしてこのひとは、自分を救おうとしてくれるのだろう。
苦痛がいくらかやわらいだ明け方、曹操はふと思った。
雷姫の着物には、袖や背中にいくつもの破れ目ができ、血が滲んでいた。曹操がもがいて引っ掻いた傷だ。よく見ると、顔には蒼あざもあった。曹操は混乱した。彼女がそんなにまでして自分を救おうとする理由が何ひとつ思い当たらない。愛想を尽かされるのが当たり前なのだ。
「少しはおさまったかい」
雷姫はそう言って身体を離した。
皮膚に残る雷姫の感触に、云いようのない戸惑いを覚えた。
その日から、曹操はとりつかれたように武芸の鍛錬をした。
根城の剣客や、玻睛が連れてきた荒くれ者が剣の相手をしてくれる。
闘っている間は、自傷の衝動を忘れていた。
ある日、玻睛本人が手合わせを申し出た。
曹操は戸惑いを隠せなかった。玻睛の眸は、淡い水色だ。
「俺の両の目は光を失ったが、この腕がなかなか剣を忘れてくれなくてね」
玻睛はにやりと笑うと、おもむろに自らの左手首を剣先で撫でた。
曹操の胸に衝撃が走った。いったい、玻睛は、なにを?
玻睛の手首から、赤い血が滴る。玻睛はうつむいて、口の中でなにかを数えはじめた。
滴り落ちる血の雫を数えているのだ。
「孟徳よ、本気でかかってこい。でなければ、俺はここでおまえを殺すことになる」
真剣だった。白い火花が散った。玻睛の身のこなしは、獣のようになめらかだ。
曹操は必死で受け止め、身をかわした。曹操の素早い攻撃を、玻睛はなんなく防いだ。頬に風を感じた。脇をすり抜け、振り返りざま小手を狙う。払われる。たて続けに、甲高い金属音が響く。間合をとっては何度も向かっていったが、そのたびに弾き返された。朝陽が中天にさしかかるまで、打ち合いは続いた。しまいには、息の上がった曹操の手から玻睛が剣を叩き落とした。曹操は地面にへたりこんだ。お互いに浅傷を負っていたが、玻睛は立って剣を構えている。盲目の男に負けたという気はしなかった。本当だったら、ここでとどめを刺されるのだと思うと、蒼天に投げ出されたような開放感に溺れそうになった。それでも、気がついたら立ち上がっていた。
「悪くない」
玻睛が言った。
「その細っこい腕にしては、だ」
「玻睛さん、最初につけた傷の理由は」
「ああ」
玻睛はこともなげに、まだ濡れている左手首の傷を指先で撫でた。
「なに、ちょっとした自己催眠さ。雫を数えて自分を暗示にかけるんだ。邪道だが、目が見えんのでな」
身体の芯まで剣術が染み込んでいるからこそできる芸当なのだろう。
一瞬、曹操は玻睛になにもかも打ち明けてしまいたい気持ちにかられた。だが、言葉にできない。
張譲(ちょうじょう)の舘の前を通りかかったとき、妙な気分になって、塀をのり越えた。
悪名高い大宦官の舘である。
目的はなかった。あの程度の高さなら越えられそうだ、と思っただけだ。
庭の桃が花を咲かせていた。もう、春なのか。
少し危なかった。曹操はたちまち警備兵にみつかり、取り囲まれた。迷わず、戟を持った兵の懐に飛び込んだ。戟は至近距離だと威力をなくす。慌てて剣を抜こうとした兵から戟をもぎとった。いっせいに突いてきた槍をかわし、戟を振り回しながら駆け去り、ひらりと土塀をのり越えた。上で矢を払い落としたとき、庭でじっと自分を見詰める張譲と目が合った。
なぜだかおかしくて、笑いながら走った。追手は来なかった。張譲が追わせなかったのだろう。張譲も笑っていたのだ。曹家のおぼっちゃんはしようがないなあ、というふうに笑っていた。戟を繁みに捨て、なおも走った。走り続けていないと、自傷の衝動に捉えられそうだった。
ふと恋しくなって、家に帰った。恋しいのは人ではなく、匂いのようなものだ。
すぐに、萩が迎えてくれた。恋しかったのは萩の匂いだということに曹操は気がついた。
「おぼっちゃま、なんでも張譲の舘に忍び込んだのだとか。旦那さまがカンカンですよ」
萩が苦笑して言った。
「もう知れわたっているな」
「朝廷はその話題でもちきりだそうです」
「親父が事後処理に奔走していることだろう」
「まったくぅ〜」
萩は、両手で頭を包み込むようにして曹操の髪をワシャワシャと荒っぽく撫でた。
「不良なんですからぁ〜」
「フフッ」
曹操は笑顔をこぼし、萩の小柄な身体をめいっぱい抱き寄せた。
「ちょっとちょっと、おぼっちゃま、そこまで見境なくしちゃったんですか」
「萩の胸は、懐かしい匂いがする」
「そりゃあ、孟徳さまが赤ん坊のころからこの胸に抱いてきたんですからね!」
母の匂いだ。母の匂いだと思っていたものは、本当は萩の匂いだったのだろうか。
「ねえ萩、また髪を整えてくれる。橋玄先生に会いに行く」
「・・・・・・わかりました」
それは旦那さまもよろこびます、という言葉を、萩はなんとなく言いよどんだ。年がいもなく身体が火照って困った。曹操の抱擁には、老獪な男を感じさせるものがある。容貌とは裏腹のものだった。
正装した曹操の姿に、萩は目を細める。同年代の男の子と比べると成長が遅れていて、父親の曹嵩は心配しているようだが、萩はそのことについてはまったく心配していない。男の子は、気がついたら大人になっているものだ。曹操がいつどのような変身をとげるか、萩は楽しみに待っていた。ずっとそのままでいてほしいという思いも、心のどこかにはある。大人になったら、曹操は自分などの決して手の届かない場所に飛んでいってしまうだろうから。女の直感で、萩はそのことをずっと前から予感していた。
「いってらっしゃいませ」
萩はほほえみ、曹操を見送る。
正装した曹操の後姿は、いつもの印象よりもずっと大人びて見えた。
橋玄の舘にはすぐに通されたが、居室の手前で突然中から怒鳴りつけられた。
「馬鹿者! 身を慎めと言ったであろうが、この姦賊めが」
橋玄の声だ。張譲の舘に乱入したことを言っているのだろう。叱られた。
それにしても、姦賊という言葉はいかにも自分にしっくりくる。曹操は苦笑いした。
「先生、姦賊にはお目通り願えませんか」
返事は返ってこなかった。
「では、曹操はこれにて失礼します。さようなら先生」
あっさり立ち去ろうとした。
橋玄は最初から自分をかいかぶっていた。これまでの自分の素行を知って失望したとしても、なんら不思議なことはない。それでも、寂しさのようなものに曹操は襲われた。ここでひとつの繋がりを絶ってしまうこと。もしかしたら、二度とは取り返しのつかないこと。俺は姦賊か? そう、俺は姦賊だ。違いない。
「にゃあ〜ん」
えらくふにゃふにゃした声音に呼び止められて、曹操は立ち止まった。
呼び止められた? いいや、ただの鳴き声だ。白い、ちいさなけものの鳴き声。足もとに絡みついて、しきりに身体をこすりつけてくる。名前を呼ぼうとしたが、そういえば橋玄はこの猫に名をつけていなかった。マオと呼んでいた。自分を、「ヒト」と呼ぶようなものだ。
「おおい」
橋玄の声が聞こえた。
「おおい、孟徳よ」
「・・・・・・なんですか」
「そいつを抱いてきてくれんかの。似たもの同士で」