砂塵。
褐色の地平が盛り上がる。
キンと張り詰めて高い高い蒼天が、にわかに揺らめく。空いっぱいに広がる、崩れ落ちそうな、振動。
(あれはなんだろう・・・・・・)
雷鳴。いや、人間の叫び声。戦車の地響き。馬の蹄の音。すべていっしょくたに、ひとつの大きなうねりとなって轟き、押し寄せる。
オーオーーオーオーーオー・・・・・・
混沌ではない。
その一軍は、確かに洗練された秩序を持って動いている。
楔型に配列された戦車団。戦車を取り囲む歩兵。両翼から包み込むように、俊足の騎馬隊。
敵とぶつかる。蹴散らしていく。水袋のように、人間が弾け飛ぶ。血しぶき。戦車どうしが激突する。歩兵が肉迫し、やがて敵の戦車の旗が次々と、紅蓮の旗に挿げ替えられていく。戦車戦から白兵戦に、そして逃げ惑う敵を狩る一方的な戦いとなる。両翼から廻り込んだ騎兵が敵の退路を封じる。すべてがあらかじめ決定されたことのように展開する。
(怖い。怖い。怖い。なんだこれは・・・・・・)
ドドン。軍鼓が響く。そこに、軍を動かしているものがある。飾り気のない、しかしひときわ目を引く紅い旗には『曹』の一文字がある。巨大な軍鼓を載せ、四頭の牛に引かせた重戦車に、指揮官らしき男の姿があった。掲げた旗と同じ、血に染めたような紅蓮の陣羽織を身に纏っている。小柄で細身ながら引き締まった精悍な顔立ちの指揮官は、炯々と光る眸で戦況を見詰め、機に応じて軍鼓を打ち鳴らし、配下の者に着々と伝令を与える。
(あれは・・・・・・、あの人は・・・・・・)
「ふふふ。思った通りに事が運んだ。この戦、勝ったぞ」
指揮官は不敵な笑みを浮かべた。
(・・・・・・孟徳さん・・・・・・)
彼は彩華の知っている曹操とは違った。
余分なものがいっさい削ぎ落とされたような直線的な輪郭に、少年が持つあの中性的な雰囲気を見出すことはできない。口元と顎には漆黒の鬚がたくわえられ、剃刀のような鋭い双眸には不敵な自信が漲っている。背中は成熟した男のそれであり、彩華の愛する不安定な無防備さは失われている。
(でも)
どういうわけか浮遊している彩華の意識は、見たこともない戦の光景のなかで、落ち着きを取り戻していた。自分でも不思議なくらい冴えた気分で、ひとりの男を見守っている。人間の視点ではない。一人の顔をじっと見詰めつつ、同時に大地の全貌を見渡すことができる。無惨な戦いや兵士の死体も、最初の恐怖がおさまってしまうと、ただそこにあるもの、通り過ぎていくものとしてしか感じられなかった。自分は死んだのかしらと彩華は思った。風景や人々が、自分とはまったく無関係に通り過ぎていく。死とは、そういうものではないのかしらと。
(でも)
でも。あの男が曹操だ。自分が知っている少年が成長した姿なのだ。そのことがはっきりとわかった。少年が変貌してしまった部分もあれば、まったく変わっていない部分もあった。洗練された身体の動きや、存在の影からにじみ出てくるものは、一目見てわかるくらい、彩華の知っている曹操だった。
曹操が天をあおいだ。目が合ったかと思った。そんなことは起こり得なかったが、一瞬そう思った。
風景が脈打つように歪み、熱いものが駆け抜けていった。
なにかが、弾けた。
パチン・・・・・・!
「はっ・・・・・・」
落下して重いものにぶち当たったかのような、ガン、という衝撃とともに彩華は目を覚ました。
彼女は幾度か深い息をついて身を起こし、ゆっくりと辺りを見廻した。夜露の湿った匂いがした。寝室はすっかり濃紺の闇に沈み込み、帳が夜風を孕んで大きくゆるやかに膨らんでいた。ひとつだけ消え残った灯が、風に吹かれて踊るようにヒラヒラと揺れている。寝台傍の卓の上にある食事は、手付かずのまますっかり冷めてしまっている。
「だれか、いるの・・・・・・」
彩華は呟いた。夢の光景が残像となって目の前に重なっていた。戦など生れてから一度も見たことがないのに、どうしてあんなにも詳細な戦の夢を見たのか、まったく理解できなかった。
(孟徳さんがいた)
固いものがつかえた感じがして、彩華は胸を押さえた。頭の芯が痺れて、闇がざわざわと蠢いているように見えた。
「きっとわたし、まだ完全に目が覚めていないんだわ。飲まず食わずでうたた寝なんかしたから、無理もないわ」
声に出してそう言い、何度もまばたきをした。だが視界に重なった光景を完全に取り払うことはできない。そこには赤い陣羽織を纏った指揮官が、すっくと立っている。彼は、爛々と光る眸で、どこかを見ている。決して彩華を見てはいない。もっと、ずっと遠くを見据えている。
「孟徳さん・・・・・・」
彩華は彼を抱き締めようと両腕を差し伸ばした。次の瞬間、彼女は己の肩を抱いている自分に気付いた。目を閉じたまま、しばらく泣いた。
ゆっくりと瞼を開けたとき、格子窓を背に、月の光を浴びて佇む人影が彼女の目に映った。
「あなたは、誰・・・・・・?」
***
曹洪と曹仁を伴い、数ヶ月ぶりに舘に帰ってきた曹操を、ある者は笑顔で、ある者はけげんそうな表情で出迎えた。
郷里から連れてきた古くからの使用人は、曹操の短い髪を見ると、「孟徳お坊ちゃまは相変わらずですなあ。また我々には計り知れないことを考えておいでなのでしょう」と言って苦笑した。
「そう思うか?」
曹操はつかつかとその者に近寄り、方頬で微笑って見せた。
「櫛が通らずヤケんなって切った。それだけのことよ」
そして足元にいる曹仁の脇を両手で持って、使用人の目の高さまで抱き上げた。
「叔父さんたちがおいでなのだろう。どこにいる? この子たちを返したいのだが」
曹操は子供たちを叔父のもとに連れて行き、挨拶をした。自室に向かおうとすると、曹洪が客間から顔だけ覗かせて、彼の背中に呼び掛けた。
「兄上、宴には必ずおいでくださいね。久しぶりに一族が集まったのですから」
曹操は振り向き、「ああ」と言って少しだけ笑って見せた。曹洪はひどく嬉しそうだった。
長いこと留守だったにもかかわらず、曹操の部屋はきちんと整頓され、埃もきれいに払われてあった。寝台の布団も干してからそう間が経っていない。陽射しをいっぱい受けたいい匂いがしている。いつでも帰って来ていいよ、という雰囲気がそこにはあった。
「萩(しゅう)のおかげだな。いつでも気持ちの良い状態にしておいてくれる・・・・・・」
萩とは、曹操付きの女中の名だ。曹操が生れる前からずっと曹家に仕えている、四十過ぎの小さな可愛らしい女性だ。
曹操は萩になにかあげたくなった。なにがいいだろう。彼女が欲しがるもの。やはり綺麗なものがいいだろうな。・・・・・・などと考えているとき、見覚えのないものが目に入って、曹操はちょっと不快になった。かなり近い距離からでも、なんなく全身を映せるくらいの大きさの姿見。それが、燭台の傍の空間に、いかにもわざとらしく据え置かれていた。
(あんなものを頼んだ覚えはないぞ)
近寄って見れば見るほど、ムラムラと怒りが込み上げてきた。職人の手でピカピカに磨き上げられた銅板。縁には飾り細工が施されている。ただでさえ高価な鏡の、これだけ特大のものとなれば、当然馬鹿みたいに金がかかる。そんなものがどうして自分の部屋にあるのか。
「親父か・・・・・・」
曹操は苦々しく呟いた。
どうせ、今のすさんだ自分の姿をよく見てみろ、とでも言いたいのだろう。
「つまらん・・・・・・」
言いながら、曹操は指先で鏡の表面をなぞった。
面白くなさそうな表情をした、不健康に痩せた髪の短い少年が映っていた。
曹操はくるりと顔を背け、すぐに大声で呼ばわった。
「おーい、誰かいないか。こいつはいらん。さっさと俺の部屋から持って出ていってくれ」
「せっかくの父の贈り物を無下にする気か」
数ヶ月ぶりに耳にする声。曹操はけだるそうに振り向いた。
父の曹嵩がゆっくりと近寄ってきた。
「お父さん、お久しぶりです」
曹操は薄い笑みを浮かべた。曹嵩の表情は曇った。息子のこの微笑が苦手なのだ。理想的な男子のあるべき姿からかけ離れてしまった息子の姿を、曹嵩はじっと見詰めた。曹操は視線を外さず、同じ微笑で見詰めかえす。曹嵩はにわかに緊張している自分に気付く。
(この眼が苦手なのだこの眼が・・・・・・。顔は笑っているが、眼は少しも笑っていない。醒めきったあからさまな拒絶の眼でこの父を見おる。これの母と同じ・・・・・・)
目を背けたかったが、それでは自分が負けのような気がして、曹嵩は視線を外さずに眉根をひそめ、目を細めた。見たくないものは、息子の眼と、それから救いようのない・・・・・・。
「まったく・・・・・・。なんという無様ななりをしておる。孔子の教えを忘れたか。いや、無視するか。おぬし、知っていて、無視するのか」
「孔子の教えの真意を知りとうございました。髪はまた伸びます。なんの害もございません」
曹操は静かな口調で応えた。
「フン・・・・・・。操、おぬしに何を言っても、ああ言えばこう言うじゃ。自分の姿を見てなんとも思わぬか。情け無いとは思わぬのか? 曹家の嫡子ともあろうものが、こんな・・・・・・」
曹嵩はキッと鏡面を指差した。
「・・・・・・」
曹操は無表情だった。つまらない、と思った。
つまらない。つまらない。ああつまらない。くだらない。こんな鏡・・・・・・。
「父上、わたしにはこんな大仰な鏡は必要ありません」
「いいや、必要なのじゃ!」
曹嵩は怒鳴った。そして、次の言葉が出てこなかった。息子の眼が、一瞬だけ拒絶を解いて、なにかを語ったように思えたからだった。勢い、自分の手が息子の髪に触れていた。曹操はすぐに眉をひそめ顔を背けた。曹嵩は手を引っ込め、溜息をついた。
「操」
「なんでしょう父上」
「ン・・・・・・。操、おまえ、橋玄(きょうげん)先生に会え」
「橋玄先生に?」
「うむ。おぬしも名前は知っておろう。九卿を歴任し現在司徒をつとめる、峻厳なことで名高い偉い先生じゃ」
「橋玄先生が、わたしごときに会ってくださると・・・・・・?」
「おまえに興味があるそうだ」
「・・・・・・まことですか?」
曹操は初めて眸に興味の光を宿し、父の顔を覗き込んだ。
「本人がそう言っているのだ。是非おまえに会ってみたいと」
曹操は大きく息を吸い込んだ。信じられなかった。洛陽に来てからというもの、自分はろくな事をしていないというのに。
「日時は」
「まだ決まっておらん。その意向を伝えておいてくれとだけ言われた。操、おまえも政界に注目されつつあるということじゃ。鷹狩にうつつを抜かしたり、妾のところに入り浸っている場合ではないぞ。心しておけ」
「・・・・・・はい父上・・・・・・」
父と入れ替わりに、女中の萩が部屋に入ってきた。
「孟徳おぼっちゃま、お久しぶりでございます」
「ああ」
曹操は考えに耽っているようだった。その横顔を、萩は静かに覗き見た。曹操が生れたときから、萩は彼のことを知っている。ひとりで考え事をしている時の彼の横顔が好きだった。
「萩、聞いたか? 橋玄先生が俺に興味を持ったんだって。会いたいんだって」
曹操は振り向かずに呟くようにしゃべりかけた。
「存じております。おぼっちゃま、ようございましたね。旦那さまがたいそう自慢してらっしゃいました」
「親父が?」
「はい。それはそれは、たいへんなお喜びようで」
「そうか・・・・・・。そうだろうな」
曹操はつまらなさそうに呟くと、またしばらく黙り込んだ。そして突然、萩を振り向いて言った。
「ど、どうしよう・・・・・・俺こんな髪じゃとても橋玄先生に会いになんか行けねえよう」
「おまかせください、おぼっちゃま。鬢付け油で整えて帽子をかぶればいいんですよ。藍の透かし織りの上品な帽子にしましょう。どうぞおまかせください。路行く人が振り返るくらい素敵になりますから」
そう言って、萩は自信たっぷりに片目を瞑って見せた。