邸内のどの部屋も、人が去ってから百年も経ったかのようにガランとしていた。疎開で引っ越したさいに置いていった家具や調度も、根こそぎ盗賊にやられていた。粉々に砕けた陶器と踏み荒された跡だけが、白い砂にまみれて残っていた。
曹操は一部屋一部屋、なにか残っていないか見て回った。ほんのささいなものでいい、ここに家族が住んでいたという痕跡を見つけたかった。たとえば耳かき一本、枕ひとつでもいい。だがどんなに目を凝らし、がらくたをかき分けてみても、そこに生活の跡を見つけ出すことはできなかった。埃っぽい空気は、まるで彼を排斥しようとしているかのようだった。すえた匂いは懐かしい気配を跡形もなく消し去った。窓から射し込む光も、よそよそしいだけだった。
曹操は、やみくもに捜していた手を、突然止めた。彼はびりびりに破けた帳の端を握ったまま、凍ったように立ちすくんだ。廃虚の、がらんどうの空間に圧倒され、彼は負けを認めた。見捨てられた場所をいくら捜しても、思い出はころがっていない。
曹操はひとつ大きな息をつくと、意を決したように顔を上げ、最後の希望を胸に歩き出した。彼は迷うことなく入り組んだ回廊を抜け、最奥の一室へと入っていった。他と比べるとやや小ぢんまりとしたその部屋は、すこしだけ他の場所とは違っていた。ガランとして埃っぽく、なにも残っていないのは他と同じだ。だがなにかが違う。匂い。光の当たる角度。降り積もった埃のいろ。それらが微妙に醸し出す雰囲気なのだろうか。とにかく、そこに彼を排斥しようとする空気は潜んでいなかった。
むかし曹操が住んでいた頃から見捨てられた場所だった。だから印象が異なるのだ。
彼の母親の部屋だった。
例に漏れず、そこも無惨に盗賊に踏み荒された跡が残っていた。怒りが指先までみなぎるのを感じ、曹操は片っ端からその跡を消していった。母の部屋に、入り乱れた男たちの足跡を見るのは耐え難かった。
ひととおり片付けると、彼は格子窓のある部屋の隅に膝をかかえて坐りこんだ。そこは母がいつも腰掛けていた場所だった。
母のことを思い出したかったけれど、困らせたこと、泣かせたこと、辛い思いをさせたこと、そんな記憶しか蘇ってこない。曹操は、部下や友人や妻や子供たちに、一度も母親のことを語らなかった。母の思い出は深い記憶の底に沈殿し、夢に見ることすらめったにはなかった。友人もなく、父に見放されても意見することもなく、ただ家のために自分を殺してこの部屋でひっそりと暮らしていた母。彼女には、まるで初めから自我というものがないかのようだった。女が家のために自分を殺すのは美徳とされていたが、かといってだれも彼女を誉めるものはなかった。息子が不良だったから。一人息子が邑でしでかした不祥事は、先ず父のところに持ってこられる。それはあっという間に親戚中に広まり、最終的には母の悪口となって戻ってくる。彼女がなんの権限も持っていないとわかっているから、一番低い場所に水が流れ込むように、一番弱い立場にある彼女のところに人々のうっぷんがすべて流れ込んでくるのだ。その人々の醜さが耐えられず、覇気のない母の姿に苛立ち、少年曹操はますます無軌道に悪さを働く。すると、母親は更に狭い場所に追いやられる。悪循環だ。
悪循環の果てに待っていた、あまりにもあっけない死。曹操は母親のことを上手に思い出すことができない。
「さて・・・・・・」
曹操は立ち上がり、裾についた砂を払いながら無表情に呟いた。
「かえるとするかな」
その時。格子窓からひらりと入ってきた風に乗って、声が聞こえた。風の音だろうと思い、気にも止めず立ち去ろうとした瞬間、また聞こえた。風の音ではない。確かに、人の声だ。曹操は息を呑んだ。声は彼を呼んでいた。
主・・・・・・公・・・・・・
「奉孝・・・・・・」
曹操は胸を押さえた。激しく動悸がして、痛いくらいだった。耳がカッと熱くなった。
「うそだ。うそだ。そんなはずは・・・・・・」
曹操は駆け出した。つまづいて転びそうになりながら、声の聞こえてくる方に向かって全速力で走った。
奉孝のわけがない。そうだ、きっと夏侯惇だ。あいつが探しにきたんだ。あの二人はよく声が似ているから・・・・・・。
理性ではそう思っても、走るのを止められなかった。自分でも驚くくらい、身体が軽かった。門を出ると、風につつまれた。風に背中を押されて、十代の頃のように速く走れた。声は切れ切れに聞こえてきた。
主公、ボクは・・・・・・
ボクはいつだって主公のお傍にいるんですよ
なにかを思い出しかけるのだけど、その実体がわからない。
大好きな人を傷付けてばかりだから、降り積もる雪にその顔を隠してしまう。
前だけを見て。
振り返らないで。
戦い続けて。
幾百万の数え切れない骸のなかに、あなたの死顔を見分けることができない。
「ななしちゃん・・・・・・」
曹操は、行き着いたどこかの家の塀にもたれかかり、肩で息をしながら呟いた。
「昔そう呼ばれていた・・・・・・。阿瞞と呼ばれるようになる前に」
ナナシチャンハ、カシコイネ・・・・・・。
操という名前をもらったのは、彼が十代にもなってからのことだ。それまでは『うそつきちゃん』という意味の、阿瞞という幼名で呼ばれていた。ある程度大きくなるまで、子供にちゃんとした名前をつけないという風習がこの地方にはあった。子供が悪霊に目を付けられないようにと、わざと卑しい意味の幼名をつけるのである。曹家の場合は、宦官が養子をとることが許されてから間もなかったこともあり、男子が生れたこと自体を隠しがちだった。曹操は幼い頃、奥の間でひっそりと大切に育てられ、名前を与えられなかった。両親や召し使いたちは、幼い彼を「ななしちゃん」と呼んだ。
「なんでそんなことを思い出したのかな。ずっと忘れていたのに。奉孝・・・・・・」
もう声は聞こえない。曹操は不思議なことに気がついた。郭嘉のことと連動して、母のことを思い出す。記憶の底の底に封印していた情景に、郭嘉を想うことで、微かな光が当たるのだ。
郭嘉の声は幻聴かもしれない、と曹操は思った。だが彼は、そのことに微塵の不安も感じなかった。聞こえるはずのない声が聞こえたことに、焦りや動揺を覚えなかった。とても自然なこととして受け入れることができた。もしかしたらこれは自分にとって必要なことなのかも知れない、とさえ思った。
(奉孝、おまえ、俺をどこかに導こうとしている・・・・・・?)
ふいに胸に迫るほどの懐かしさを覚え、曹操は顔を上げた。手に馴染む、土塀の感触。
(ああ、ここは・・・・・・)
曹操は土塀についた手を、ゆっくりと側面に添わせて動かした。胸の高さに、落書きを見つけた。刃の切っ先で彫り込まれた、翼を広げはばたく鳥の絵。その下、腰の高さにもうひとつ。鳥の絵よりもずっと拙い。兄弟のような子供の人影が手をつなぎ、二人で空を見上げている。その顔の先に鳥がいる。
「雷鳳・・・・・・」
曹操は目を細め、呟いた。
落書きの鳥は、昔飼っていた鷹の雷鳳。それを見上げているのは、少年曹操と幼い夏侯惇。鳥は曹操が、下の二人は夏侯惇が描いたものだ。長年風雨にさらされて消えかけてはいたけれど、曹操はそれを刻み込んだときのことを、はっきりと胸に蘇らせることができた。
傷付いた雷鳳を救いたかった。
なによりも、ちいさな夏侯惇を哀しませたくなかった。
だから曹操は、雷鳳をここに連れてきた。
そこで、ひとりの医師と知り合った。
「ふふ」
曹操は落書きをそっと指で撫でながら、微笑した。
「懐かしい。ああ、懐かしいな。華佗・・・・・・」
背後に駆け寄る蹄の音に振り向くと、慌てて馬からおりる虎痴将軍の姿があった。真っ赤に上気して、なにか言いたげな目をしていたけれど、彼は黙って立ち主君の姿を見詰めた。
「虎痴よ。よくここがわかったな」
そう言うとともに、曹操の雰囲気がさっきまでとガラリと変わった。鳳眼に鋭い光が走り、君主の顔になる。虎痴将軍はザッと跪き、手を組み合わせた。
「しゅ、主公、オレ、口下手で、うまく言えないんです。でも、いま、言わせてもらいます。主公・・・・・・」
それだけ言うのに必死の形相の虎痴将軍が可愛くて、曹操は思わずハハと笑った。虎痴将軍はかまわず続ける。
「お願いですから、独りでふらっと出かけんでください! オレ、いつでもしっかり主公を守りたいって、お、思ってるのに、主公が勝手にいなくなったら、オレ、どうしていいかわからんです。主公、オレ、うっとおしいですか」
「とんでもない」
曹操は即座に言い、髭に指先を当てながら少し考えた。
「ん・・・・・・。すまん。ふらりと出かけるのは、少年時代からのわしの癖なんだ。以後は控える。おまえのことは頼りにしている。うっとおしいなんて、とんでもない。・・・・・・」
ふっと、曹操の眼差しが変わった。彼は一瞬目を見張り、その後激しくまばたきした。そして芯から嬉しそうな表情になって、ぱっとしゃがんで虎痴将軍に向かい合った。曹操は虎痴将軍の肩をつかみ、顔をのぞき見た。
「おまえ、確か同郷だったよな。むかし一度、ここで会ったことがあるよな」
虎痴将軍はどぎまぎしながら、ますますかたくなり、真っ赤になって応えた。
「そうですよ。お忘れですか。前はここ、華佗先生の診療所でした。オレ、母親の薬を買いに来たんです。あんまり急いで来たものだから、銭持ってなくて。そしたら主公が横からひょいって、華佗先生に銀子を渡してくれたんです。ツレだからって。オレ、ガキだったけど、すごい感激して。あの後返しにいったんだけど、主公いなくて。華佗先生にことづけたんですよ」
曹操は吹き出した。
「それ、もらってないぞ。華佗め、すっかり忘れておったな。けしからん」
「あの・・・・・・」
曹操は地面に両手をついて激しく笑った。その話はおかしくてたまらない、というふうに、明るい声で快活に笑った。それなのに、彼の閉じた両目からは、ぱた、ぱた、と一粒ずつの涙が落ちた。
「主公、どうかされましたか・・・・・・」
虎痴将軍は理解不能に陥り、オズオズと主君の背中をさすった。
「嬉しいんだ。やっと故郷で知り合いに出会えた」
曹操は泣き笑いの顔で虎痴将軍を見上げて言った。