背筋をしゃんと伸ばし、並居る朝臣の間をすたすたと歩いていく。背景に沈み込んでしまいそうな質素な服装。威厳に欠けた貧相な体躯。しかし諸侯の目は一心に彼の姿に注がれている。そしてピリリと緊張している。
彼が壇上の席につくと諸侯はいっせいに頭を下げる。まるで波のような絹ずれの音が湧き立つ。壇上の曹操はゆったりとかまえ、鋭い眼光で群臣を見渡す。そして一度だけ深く息を吸い込み、落ち着いた口調で「さて」と言う。朝参のたびに毎朝ほぼかかさずに繰り返される光景だ。
昨年の北方遠征から帰還したおり、戦勝を挙げた曹操がまずしたことは何か。
前にこの遠征を諌めた者たちを集め、彼らに手厚く恩賞を与えたのである。
「わしの先の遠征は、幸運によって危険をのりきった。うまくいったのは、天が助けてくれたからこそだ。したがってこれを常例とするわけにはいかぬ。諸君の諌言は、万全の計である。そのために恩賞をとらすのだ。今後、発言をひかえたりしないでくれよ」
この公正さなのだ、と荀文若は思う。彼が曹孟徳に仕官した理由。まだ噂でしか曹操という人物を知らなかったころから、どこかしら惹かれるところがあったのは、この痛快なまでの公正さにある。若き日の曹操は、世間に認められていない分更になりふりかまわず果敢に不正と闘っていた。
賄賂。売官。穴だらけの法制度。家柄のみの人材登用。現状を見ようともしない暗愚な皇帝。いたずらに痛めつけられる民人たち。上奏しても上奏しても握りつぶされる公文書。
漢帝国・・・この腐った国と闘っていた。
いま、帝を擁護し建前上は曹操も朝臣のひとりである。しかし実権は完全に彼が握っていた。漢帝は傀儡にすぎない。皇帝になにができようかと曹操は思う。瓦礫のやまと化した都を遷都し、各地で頻発する反乱を鎮圧し、農政も税制も登用制度もすべて彼が一から築き上げたのだ。そもそもこの国をボロボロにしたのは暗愚な皇帝をはじめとする宮中の無能で腐った連中ではないか。
義憤。彼を突き動かしてきたものである。
彼の哀しみ。
郭奉孝が死んだのち、荀文若は一通の手紙を受け取っていた。
曹操が彼に個人的に宛てたものだ。
そこには郭奉孝への曹操の想いが切々と綴られていた。
「郭奉孝は四十に満たない年だったが、十一年間いっしょに苦労し、苦しみ悩みはすべて共にかぶった。また彼が道理に明るく、世の中の事態に対処してゆきづまることがないのを見たので、後事を彼に託そうと思っていた。突如彼を失おうとは思いもかけず、悲痛な思いに心をいたませている。今、上奏してその子を加増し一千戸に満たしてやった。しかし死者に対して何の益があろう。追憶の感情は深い。それに奉孝こそはわしを理解していた男なのだ。天下の人で理解してくれる者は少ない。このことでも残念至極なのだ。なんとしたことか。なんとしたことか」
これを読んだときの胸の痛みを、荀文若は忘れることができない。そして、今までに経験したことのない奇妙な感覚。胸の中にできた空洞がどんどん膨らんでゆき、そこにいくつもの小石が入ってくるような。
哀しみと呼ぶにはざらついたその感情が『嫉妬』であることに、彼はそのとき気付かなかった。
未だ、気付いていない。