丞相府が移ったことで、漢帝国の政治中枢は業に移行した。
許は帝の住まう都だが、業は曹操の本拠地である。
業では今、銅雀台(どうじゃくだい)の建設が急ピッチで進められている。銅雀台、曹一族の居となる豪奢な殿郭のことである。
曹操は忙しい。赤壁の敗戦は、曹操の権威を失墜させた。おそらく戦後二年ほどが曹操政権の最大の危機であり、ここ一番のがんばりどころであった。孫権の攻勢が予想される淮南(わいなん)の人心を安定させ、持久戦の体制をかためるべく、大規模な屯田が計画された。戦死者の遺族の救済策は着々と進められ、水軍は新たな編成に整えられた。
一見、曹操は立ち直ったかのようだった。彼の政治手腕と軍事采配は少しの衰えも見せなかったし、抜け目がなかった。赤壁の敗戦は些細なもの、曹公いまだ健在なりと、天下に見せ付ける必要があった。人々は彼を敬い、畏怖した。
しかし曹操の最も傍にあって彼を守る役目にある許チョは、夕刻、曹操が心が抜けたようになるのを認めざるを得なかった。曹操が許チョに翌日の行動予定を説明しているとき、言葉を終えぬまま突然黙り込み、眼差しがスウッと遠ざかることがある。彼の顔から表情という表情が死ぬ。竹簡を手に持ったまま、まるでぜんまいの切れたからくり人形のように、コトリと動かなくなる。
そういうとき許チョは心底恐ろしくなって、「主公! 主公! どうされたんですか!」と叫びながら主君の肩を揺さぶる。すると曹操はまばたきをして許チョの顔を見上げ、普段の彼からは想像もつかない、奇妙な表情をする。まるで夢から醒めたばかりの少女が気が付いたら知らない場所にいて、鏡に向かって「あなただれ?」とでも聞いているような表情だ。曹操はそして「あッ・・・・・・」と小さな声をあげると、眉間にしわを寄せしばらく考えてから、「どこまで話したっけ?」と許チョに尋ねる。許チョはとまどいを隠しきれない。
(だいじょうぶなのだろうか? 本当にこのお方は・・・・・・)
そして曹操は政務に忙殺されながらも、時折思い出したかのように獄舎を訪れ、華佗を拷問にかけるのだった。
ある日暮れ刻、マントを着込んだ人影がひとり、業の獄舎に入っていった。フードを目深にかぶり見るからに怪しいいでたちなのだが、番兵は一言二言囁き交わすと、その者をあっさりと獄門に通した。
怪しい人影は獄吏に案内され、マントをはためかせながら、スタスタとまっすぐに華佗の独房の前まで歩いてきた。
「こちらです」
獄吏が言うと、マントの人物はきびきびと返事した。
「ありがとう。話をしますから、しばらくさがっていてください」
「はっ」
獄吏は一礼し、さっとその場を離れる。
「・・・・・・?」
二人のやりとりを耳にした華佗は眉をひそめその方を見た。華佗の着物はあちこちが破れ、裂けた布地には赤黒い血が滲んでいる。曹操になぶられた痕だった。
マントの人物はうつむき、フードに手をかけてサラリと脱いだ。やわらかな黒髪につつまれた、中年女性の顔があらわれた。華佗は目を見張った。
「文梅さん・・・・・・いや、卞夫人・・・・・・!?」
「華佗先生、お久しぶりです」
卞文梅は黒目がちのくっきりとした瞳に凛とした笑みをたたえて言った。相変わらず、少しハスキーで聞くものをうっとりとさせるいい声をしている。
「卞夫人、貴女のような方が、なぜこんなところに・・・・・・。お、お一人で?」
華佗はとまどった。無理もない。卞文梅といえば、曹操の正室。何人いるかわからない曹操の愛妾たちを取り仕切って問題ひとつ起こさなかった、賢妻の誉れ高い曹家の第一夫人である。
卞文梅は格子の中に腕を差し入れ、華佗の手を取った。そして端が裂けてフサフサになっている彼の着物の袖を丁寧にめくり上げ、彼の腕に残る生々しい傷を見た。故意に刃物で皮膚を剥ぎ取られた、拷問の痕だった。卞文梅は懐から貝殻の薬入れを取り出すと、油薬を指にとり、その傷にぬりこんだ。
「夫人・・・・・・アッ・・・痛ッ・・・・・・」
華佗は痛みに顔をしかめた。
「少し染みるけど我慢してください。よくきく油薬です。化膿止めも配合してあります」
指を離すと、卞文梅はそう言って、薬入れを華佗の手に握らせた。
「あとは御自分でぬってください」
「夫人、なぜ・・・・・・」
「清潔な布もあるたけ持ってきました。獄吏に預けてますので必要なとき呼んでください。水瓶の水はこまめに変えるよう言ってあります。食事は朝夕、栄養のあるものを調理してお持ちします。布団も暖かいものを用意しました。他になにか必要なものはありますか?」
「夫人、なにがなんだかわからないです。曹操の命というわけでもなさそうですが」
卞文梅は華佗の目を見詰めて数度まばたきをした。曹操好みの肌の白さと、どこか少女っぽさを残す瞳。しかしその瞳には迷いがなく、強い意志とひたむきな情熱が秘められている。華佗の知る限り、曹操の愛する女たちは、皆これに似た強い眸を持っている。夫人は睫毛を伏せ、数度軽く首を横に振った。
「主人はこれからも先生を手痛い拷問にかけるでしょう。でも殺しはしない。なぜだかおわかりですか」
「なぜ」
華佗の心臓が一回強く脈打った。
「いま先生に死なれたら、あの人ダメになってしまう気がします。あの人の左腕の傷・・・・・・」
華佗は思わず声をひそめた。
「ご存知だったんですか・・・・・・」
「なぜ知らぬなどとお思いになるのですか。わたくしあの人の妻ですのよ?」
卞文梅は華佗を見据え、強い口調できっぱりと言った。華佗の顔付きが険しくなる。いったいこの女はなにを言わんとしているのだ? 卞文梅は心持ち首をかしげ、言葉を続ける。決して視線は外さない。
「先生が必要なんです」
「必要・・・・・・曹操に? そりゃ彼の頭痛をやわらげることが出来るのはわししかおらんが」
「それもあります。でもそれだけじゃないんです。先生、あの人がどれほど先生を慕っていたかご存知ですか? 初めて真実の自分を抱きしめてくれた人と言っていました。あの人が先生に宛てた手紙、全部で五十通ほど、結局出さずじまいで今も引き出しの奥に眠っています」
「・・・・・・え?」
一瞬、華佗にはその言葉の意味を理解することができなかった。曹操がわしを? 出さずじまいの手紙って。
「それ、どういうこ・・・・・・」
「まあ! おわかりにならないんですの。男の方って本当ににぶいこと」
頭ごなしに夫人に言われて、華佗は腹立たしいような恥かしいような思いにかられた。
(いきなりそんなこと言われたって、わかるわけないじゃないか。これだから女ってやつは・・・・・・)
夫人は華佗の言葉を待たずにしゃべりだす。
「わたくしにはわかります。この国のだれもが信じているあの人の姿は、あの人自身がつくりあげた虚像です。それでうまくいくはずでした。沖さんが死にさえしなければ。だって沖さんは、少年のころのあの人に本当に似ていました。いいえ、それだけではありません。あの人の腕のなかで朝を迎えるとき、まどろみが一瞬あの人の真実の姿を垣間見せてくれるとき、あの人、沖さんと同じ目をするんです。あの人からすべての虚像を取り去った姿が沖さんなのだとしたら? あの人が跡継に沖さんを選んだ理由、おわかりになるでしょう」
「な、ちょっ、待ってください。夫人、話が暴走してませんかな。いったいどういう脈絡でそういう話になるんです。だいたい言っている意味がわかりません」
華佗はムッとして言った。すると卞文梅は少し華佗に幻滅したような眼差しを向けた。
「・・・・・・」
卞文梅はひとつ溜息をつくと、ゆっくりとした口調でもう一度しゃべりだした。
「いいですか。あの人は、曹操はいつも知らずに演技しているんです。君主としての自分、執政者としての自分、軍人としての自分を。それはなにもあの人に限ったことじゃない、だれだってそうです。でもあの人の場合、内面があまりにやさしく繊細すぎるのです。虚像と実像がひどくかけ離れてしまったのです。真実の自分が何なのか、見えなくなってしまうほどに。あの人の真実の姿に一番近いのが沖さんでした。だからこそあの人は、沖さんに自分の理想を重ねて心の拠所にしていたのです。そこでなんとかバランスを保っていたのです。でもその沖さんを失ってしまった・・・・・・。それは、あの人の真実の拠所を失ってしまったということです。それなのに虚像はどんどん一人歩きして、あの人自身にももうどうしようもないところまできています。あの人はいま、ギリギリの崖っ縁に立っています。このままいったらあの人、精神が分裂してしまいます」
そして卞文梅はじいっと華佗の目を見た。これでわからないようなら処置無しね、といったあざけりがそこに含まれているような気がして、華佗はますます気分を害した。しかし急に彼はドキリとして思い当たった。これは嫉妬だ。自分はこの女に嫉妬しているのだ。そして実は彼女の言うことがよく解る。曹操の危うさ。虚像と実像の間で揺れ動き、傷付き苦しむ曹操。最初から、彼のそういうところに惹かれていた。
不安定で。鋭利で。残酷で。傷付きやすくて。純粋で。
「わし・・・・・・は・・・・・・」
華佗はうつむき、どもった。この女にはなにもかもお見通しだというのか?
自分のこの恋も、彼女にはとうに気付かれてしまっているというのだろうか?
こんな女にバレるようなへまを、自分はしたか?
いいや、そんなはずはない。そんなはずはないのだが・・・・・・。
「あの人が先生に向ける憎しみと愛は真実のもの。あの人は先生を痛め付けて、なぶって、それでやっと普段の正気を保っていられます。先生を傷付けると、同時にあの人も傷付くんです。だってあの人は本当に先生のことを慕っているのですからね」
「自傷行為・・・・・・」
華佗は低く呟いた。卞文梅はそのとき初めて彼から瞳を逸らした。そしてしばらく黙り込んでから、沈んだ声で言った。
「自分を傷付けるのは、生きるためです。そうでもしないと生きていられないんです。肉親を殺されたり愛児に先立たれたり、何度も耐えられませんそんなこと。わたくしだって、すべてが見えるわけではありません。でもいま先生に死なれたら、あの人きっと狂ってしまいます。なぜだか、それだけははっきりわかるんです」
「つまりわしは生け贄ですかな」
「お気の毒ですわ」
卞文梅は顔を上げ、またまっすぐに華佗を見た。
「既にここの獄吏たちは全員承知してます。食事係も手配しました。待遇は今よりずっと良くなるはずです。先生を死なせたりはしません。死なせるものですか。だから先生も生きる努力をなさって。どんなに辛くても痛くても、死んではなりません。耐えてください。沖さんを死なせたつぐないと思って、主人の拷問を受けてください」
卞文梅はそれだけ言うと、フードをかぶり立ち去った。技を極めた武術の達人のような切れのある身のこなしで、マントの裾を上手にさばきながら、彼女は足早に歩き去っていった。
華佗はしばらく茫然と立ちすくんでいたが、急に膝の力が抜けてその場にヘナヘナとへたり込んだ。虚無。なんの希望もない。なにも考えられない。
そして彼は放心したまま、一言、力無くぼそりと呟いた。
「くそ・・・・・・あ、あの女・・・・・・」