いつのまにこんなに増えたのだろう、と荀文若は思った。
宮中に遊ぶ子供たちのことである。
「まるで幼稚園ですな」
横を歩く陳長文はそう言って唇を歪めた。
まだ幼い諸侯の子供。曹操が処刑したものの遺児。戦火に追われて都に逃げ込んできた兄弟。中には曹操の実子も幾人か含まれている。もちろん彼らにはそれぞれの家族と邸宅が与えられているのだが、家にいるのは退屈らしくこうして宮中に集まり遊びまわっていることが多い。広くて安全で複雑に回廊の入り組んでいる宮中は、子供たちにとって絶好の遊び場らしい。
男の子ばかりのグループのなかに、一人だけ少女の姿が見えた。少女・・・?いや、あれは男の子だ。ただひときわ色が白く繊細で柔和。知らない者なら誰でも少女と見まごうであろう顔立ちをしていた。年の頃十二・三歳。グループのなかでも最年長のほうだ。下半身に軽い麻痺があるようで、ぎこちない走り方をする。グループ全体がさりげなく彼をかばいあっているように見える。
「ごきげんよう!長文殿」
ひとりの幼子が駆け寄ってきて、陳長文の太腿をはたいていった。間髪入れずにまたもう一人。そして次々と。
「ごきげんよう!長文殿」
「ごきげんよう!長文殿」
「ごきげんよう!長文殿」
最後に首謀者らしい少年が彼の目の前に立ち、手を組み合わせて正式な儀礼のポーズをとり「ごきげんよう。長文殿」と言ってにっこりと笑った。
「いいかげんにしなさい!郭奕(かくえき)、大人をからかうものじゃない」
郭奕少年は顔をクシャッとさせてウフフと笑い、走り去った。「わーい、陳長文が怒った」と口々に言いながら子供たちがいっせいに散っていく。「クックックッ」と傍らに立つ荀文若の失笑をかう。
「笑い事ではないですぞ文若!あれももうすぐ十になろうというのに、いつまでも子供子供していたのでは困る」
郭奕は昨年北方遠征に随行の途中に病死した謀臣、郭嘉―郭奉孝の遺児である。
郭奉孝と陳長文は犬猿の仲だったが、なぜか息子の郭奕は陳長文になついているようだ。
「いや、長文もなかなか父親ぶりが板に付いてきたではないか」
こらえきれぬという感じで笑いながら、荀文若が言った。生前の奉孝と長文の仲を知っているものだから、よけいに可笑しい。
「ばかを言うな文若。郭奕は孟徳様がひきとって養育しているのだ。わしがあれの父親であるものか」
この男、冗談が通じない。
「あなたを好いているのですよ」
突然陳長文の胸元で澄んだ高い声音が響いた。
見ると、先程不自由そうに脚を引きずっていた少女のような少年が、白い面を上げて二人を見ていた。
「おぼっちゃまそんな・・・」陳長文が顔を赤らめる。
「郭奕はあなたを好いているのです。長文はよい人です。わたしも好きですね」
少年はそう言って微笑んだ。その微笑というのが、なんというか、人間の内の善なる部分を引き出してくすぐるような笑顔だ。
「お、恐れ多くございまするっっ」落ち着け長文
陳長文は、深々と頭を下げた。
「大きな声よのう長文」
すかさず後方の少し離れた場所から独特の低く乾いた声がつっこみを入れた。見なくてもわかる。われらが君主、曹孟徳だ。
「父上!」
少年はまっすぐ彼の方を見て明るい声をあげた。
「曹沖(そうちゅう)、来い」
曹操は身をかがめ腕を広げた。曹沖少年は思うように動かぬ脚で懸命に駆けていく。曹操は彼の身体を抱きとめると、軽々とかかえ上げた。そして切れ長の眼にやさしい笑みをたたえて言った。
「速く走れるようになったな・・・。それに、また少し重くなったようじゃ」
曹沖―長子でないにもかかわらず曹操が跡継ぎにすると公言してはばからない少年だ。聡明で天才児の誉れ高く、誰からも慕われるやさしい心根を持っている。中でも使用人からの人気は絶大だ。本来なら処刑されるはずが、彼がこっそり根回ししたおかげで命を助けられたものは多い。父の曹操もそのことは知っていて、彼の知謀とやさしさをおおいにかっていた。目の中に入れても痛くない様子である。
曹沖が突然高熱を発し倒れたのは三年前のことだ。四日四晩苦しんだ末、熱は引いたが安心するのも束の間、今度は下半身が全く動かなくなっていた。名医・華佗(かだ)の鍼治療と血の滲むようなリハビリの末、走れるようにまでなったのである。三年・・・育ち盛りの少年にとっては長い歳月だ。
「稽古は毎日続けておるのか」と曹操は言った。歩行訓練のことである。
「はい。華佗先生は脚は使わなければ退化するだけだとおっしゃいました。今ではステップアップして、馬に乗る練習をしております」
「そうか。えらいな・・・。だが無理をするでないぞ。そなたは武芸なぞ出来ずともよいのだ。その頭脳だけで十二分なのだからな」
曹沖にとって、覇者・曹操はあくまでやさしい父親である。