「わたくしが不注意だったのです・・・。わたくしが庭木に夾竹桃を使ったばかりに」
庭師の李はがっくりと膝を落として告白を始めた。
「夾竹桃?」
いつのまにか彭と曹沖の後ろに立っていた華佗が、格子越しに李に話し掛けた。
「夾竹桃ならわしも薬草として使ったことがあるぞ。ここいらでは珍しい花をつける低木だ。西域から来た・・・確か原産は身毒(インド)だったかな。あれは強心剤として使うのだ。だが量を間違えると・・・」
「はい。あれは毒草なのです。西域からの供物に入っていた一株でした。毒草とわかっていながら異国の花の珍しさに深く考えもせずわたくしは・・・」
「だれかそれにあたったかな」
華佗はいぶかしんで聞いた。
「ウサギが・・・」
「ウサギ!?」
曹沖がヒョンな声を上げる。
「はい。皇室のお姫さまが可愛がっていたウサギがそれを食べて死んだのでございます。わたくしはその責任を問われました」
華佗は眉をひそめ、しばらく考えてから言った。
「それはちょっとおかしい。ウサギなどの草食動物は植物毒には我々人よりもずっと耐性があるから、大量に食すならともかく誤ってちょっとやそっと齧ったくらいでは死にまでは至らないはずだが」
「そう・・・なんでございますか」
李はすがるような目線を上げた。その目は涙で赤く潤んでいる。
「李おじさん、そのことについて詳しく聞かせてくれる」
曹沖は透き通った瞳に真摯な光を載せて李の顔を見詰めた。
李の話とはこういうことである。
お姫さまはそのウサギをたいそう可愛がり、ウサギもまたお姫さまに懐いていた。お姫さまは日頃からウサギを膝に乗せたり手ずから餌を与えたりした。ところがあるとき、何かの拍子にウサギがお姫さまの手を噛んで庭に逃げ出した。まさに脱兎の如しの脱兎で、大捜索にもかかわらずウサギは一昼夜捕まらなかった。そして翌朝ウサギは夾竹桃の木の下で泡を吹いた屍骸となって見つかった。辺りには喰い千切られた夾竹桃の葉が散らばっていた。
「おかしい・・・」
華佗と曹沖は声を揃えた。
「だってウサギはお姫さまによく懐いていたんでしょ? なんで突然手を噛んで逃げ出したりしたんだろう」
「さあ・・・? ただ皇后陛下はたいそうなご立腹で・・・。そんな毒の木を庭に使うなど非常識だ、もし誤って口にしたのがウサギではなく人間の子供だったらどうするつもりかと」
李は憂い顔に苦悶の色を浮かべた。
「それはそうかもしれないが、しかし庭木には毒のあるものは少なくない。問題は本当にそのウサギが夾竹桃の毒で死んだかどうかだな」
「調べられない・・・かな」
曹沖は華佗の顔を見た。華佗はほんのりと微笑んで曹沖の顔を見返した。それは頼もしい男らしい笑みだった。
翌々日、曹操は朝参会議の後仕事の合間を縫って本宅の曹沖の部屋に駆け付けた。我子の獄舎での一件について聞き付けたためである。
「曹沖!!」
曹操は一声呼ばわると、大股に息子の部屋に入ってきた。
「おや、父上。ごきげんよう。今日もよいお天気ですね」
寝台に上体を起こし書物を読んでいた曹沖は父の姿を見とめるとシラッと挨拶を言った。
「ちょっと顔を見せてみろ。そっち側のほっぺただ」
曹操は息子の顎をつかむとぐいと自分の方に向かせた。
「これはどういうことだ」
曹沖の左頬には華佗製の膏薬が貼られていた。しかし赤黒く腫れ上がったそれは見るも痛々しく、手を触れると少なからず熱を持っているのがわかった。
「ある女性に教えを受けたのです」
曹沖はわざと平静さを装って言った。
「だれだ、それは」
「言えません。名も無きものですから」
曹沖は父の手を振り解くと、正面を向いて瞼を閉じ涼しげな表情をつくった。それからにっこりと愛らしく笑って曹操を見て、「たいしたことではございません。これしきのこと、跡も残らないと華佗先生もおっしゃってましたし」と言った。
「さぞや痛かったろうに・・・。他人にぶたれたことなぞ、これまでに一度もなかったのだから」
曹操は真剣心配そうな眼差しで曹沖の顔を覗き見た。
「父上・・・ってさあ」
曹沖は大人びた表情に皮肉の色を込めて父を見上げた。瞳がキラリとかがやく。
「ぼくを甘やかすおつもり? 脚が立たぬからといって、ナメてもらっては困ります」
「こ・・・のォ」
曹操は困ったような笑みを浮かべる。
「なまいきこぼうずがあ!!」
「わっ!」
曹操はガバと曹沖に覆い被さると、少年の脇の下をくすぐった。
「キャッ・・・アハ・・・アハハハハ・・・やめてくださいよぉ。父上こそ、お子様じゃないんですから」
「だが本当に危ない所に一人で行ってはならんぞ」
曹操はおふざけを止めると曹沖の肩をそっと抱いて囁いた。
「ぼくは一人じゃ行けませんったら」
曹沖がはにかんで応える。
「曹操」
そのとき部屋の入口で声がした。華佗だ。きょうび曹操を呼び捨てにできるのは彼くらいしかいない。父子は揃って顔を上げ彼を見た。タイミングといい角度といいあまりにも二人がそっくりなので、華佗は苦笑した。
「取り込み中だったかな」
「いや。わしももうそろそろ仕事に戻らねばならんしな。どうぞ二人でよろしくやってくれ」
曹操はそう言うとさかさかと華佗とすれ違い退出した。
(あれ、あいつひょっとしてわしに遠慮した? まさかな)
華佗は曹操になにか一声掛けたかったが、適当な言葉が思い浮かばずただ黙って見送ることしかできなかった。
「父上のことは気にしないで下さい。お子様な方ですから。それよりも華佗先生、あのことで報告に来たのでしょう? どうでしたか、首尾は」
曹沖は背筋をぴしっとただし君主然とした態度で華佗に話し掛けた。
「そうだ、それそれ。首尾は・・・上々だ! とりなしてくれた宦官が話のわかる男でな。人ひとりの命がかかっているのだからと皇后陛下を説得してくれたんだ。で、許可を得て早速ウサギの屍骸を掘り起こして解剖してみた。朗報だ。結果はシロだった。ウサギの胃からも腸からも夾竹桃はカケラも出てこなかった。かわりに出てきたのが虫だ。寄生虫の類だがそいつが腸管を喰い破ったためにウサギが痛がって逃げ出したんだな。苦痛でそこらの葉をあたりかまわず喰い千切ったのがたまたま夾竹桃だったというわけだ。だから、ウサギの死因は寄生虫が体内で暴れたことによるショック死だ。めったに人にはとりつかん虫だが、念のため携わった人間には虫下しを飲むことをお勧めしといたよ」
華佗は少々興奮ぎみに一息でしゃべりきった。曹沖は安堵の色を見せ、それからふと目線を入口の方に移した。
「華佗先生、ちょっと後ろを振り返ってご覧なさい」
「え」
見ると、入口の扉の陰に曹操が張り付いて半分だけ顔を覗かせ、じっとりとこちらを伺い聞き耳を立てていた。
「あ゛。曹操、今の話聞いちゃった?」
華佗が冷汗をたらす。
「いーや。聞いとらん。わしゃなーんも聞いとらんぞ」
曹操はそう言うと扉から離れ、廊下を歩き去った。これみよがしの鼻歌が聞こえてくる。
(ウウム、見事なまでの白々しさ)
華佗は思わず感心した。
「あやつ・・・」
廊下を歩きつつ顎鬚をなでながら曹操は低く呟いた。
「フォローはさて必要ないかな?」
それから曹沖の獄舎通いが始まった。
曹沖が行くということは、もちろん華佗も一緒だ。
曹沖は罪人のひとりひとりに話を聞いて回った。曹沖は不思議な子供だ。その綺麗な瞳をぱちくりさせながら、先入観の全く無い表情で「おじさんはどうして捉まっちゃったの?」と尋ねられると、それまでかたくなに口を閉ざしていた荒んだ目をした罪人がぽろぽろと涙をこぼし告白を始める。そしてひとしきり話し終えると少しく穏やかな顔になり、諦めの眼差しでこの脚の不自由な少年を見上げる。
「子よ。やさしく綺麗な子よ。おまえのような慈しみの心がおまえの父に少しばかりでもあったならなあ。いったいだれに似たんだい」
曹沖は困ってしまう。曹操は自分には本当にやさしい父親なのだ。自分が特にやさしい訳でもない。立場の違いなのだ。だがそんなことを彼らに話して何になるというのだろう。困ったときは困った表情。疑問に思ったときは疑問の表情。曹沖は仮面を持たない。華佗は自分の腕の中で背筋をできるかぎりしゃんと伸ばそうとする少年の横顔にまぶしいものを感じた。もし曹沖が女性だったら、そして自分がもう少し若かったなら、間違いなく自分はこの子に恋をしていただろう。
罪人のなかには救いようのない者も多くいたが、例えばちょっとした間の悪さ、人間関係と情報伝達のまずさ、疲労から来る他愛のないミスなどが罪状の原因となっているものが少なくないことに曹沖少年は気が付いた。曹沖は彼らから細かく話を聞き竹簡に書き留めた。そして事件に関わる者を捜し出し彼らからも事情を聞いた。しばしば曹沖は護衛を付けて市街に出て関係者を集め現場を検証した。そしてまたこと細かに具体的な調書を取った。山のように積まれた竹簡を整理しながら、その者の罪状と刑罰と状況を慎重に照らし合わせた。十数人分の調書が選り分けられ、彼の手元に残った。
ある日、曹沖は曹操に公式な謁見を願い出た。「なにを改まって」曹操は笑ったが、内心では(きたか)と思っていた。曹沖の行動は曹操には筒抜けで、息子が市街に出るときはこっそりと私服の護衛を付けさせたりしていたのだ。
「なんだ。時間がない。手早く済ませろよ」
わざとそっけなさを装い曹操は宮中の書斎で息子に会った。入ってきたのは曹沖と彼の脚になっている華佗、それから両手いっぱいに書簡を抱え付き従う彭の三人。華佗に抱えられた曹沖の目の高さは曹操のそれよりも高い。曹操の背後には数人の書記官が控えている。
「本日は父上にお願いに上がりました。不自由の身ゆえあらかたの儀礼を省くことをお許しください」
曹沖は澄んだ声音でそう言うと、「あれを」と言って傍らの彭に目配せした。彭は腰を引き頭を下げると抱えていた書簡の束を曹操の前の卓上にうやうやしく差し出した。そして曹操がそれを手に取るのを見届けてから、曹沖は凛とした口ぶりで言った。
「この者たちは刑が重すぎます。減刑を御考慮願います」