「元譲・・・・・・、でかくなったな」
三年ぶりに彼に会ったとき、彼の部屋で一息ついて最初に言われたのがその言葉だった。
彼・・・・・・、六歳年上の俺の従兄。曹操、字は孟徳。俺の叔父夏侯嵩は、大宦官曹騰の跡継ぎとなるべく曹家に養子入りし、曹嵩となった。その長子が彼、曹操。だから、俺の従兄。
「そうかな。うん、そうかもな。孟徳兄は、落ち着いた感じになった」
「まあ、茶を飲め」
孟徳兄は微笑み、俺に茶を勧めた。俺は、少し緊張していた。
「うん・・・・・・」
俺は夏侯惇。字は元譲。十七歳。三年前、十四歳のとき、敬愛する師匠を侮辱した男をつい殺しちまった。で、いまは放浪の身。普段は本名を隠している。元譲と字で呼ばれるのも三年ぶりだ。
俺は茶をすすりながら、ちらちらと孟徳兄の姿を見た。
孟徳兄は二十三歳。頓丘の県令をしている。三年前、孟徳兄は孝廉に挙げられ役人になり、俺は放浪の旅に出た。腐敗した政治の中枢、都洛陽で、孟徳兄が悪をただすべく派手にやらかしているのは噂に聞いた。三年間、一度も会わなかった。へたに俺が姿を現して、彼に迷惑をかけるのがいやだったからだ。だから、隠れ家にいきなり彼が訪れたときは驚いた。たったひとり、馬に乗って孟徳兄はやってきた。そして、こう言った。
「三年経った。もうほとぼりも冷めただろう。頓丘の令になったんだ。俺のくにだ。誰にも文句は言わさん。遊びに来い」

孟徳兄はいったいどうやって俺の居場所をつきとめたんだろう。嬉しさや懐かしさに先立って、そのことばかり気になっていた。孟徳兄にそのことを聞くと、ふふと笑うだけで教えてくれなかった。それで俺は、ああ孟徳兄は変わっていないな、と思った。俺がまだ泣き虫のガキだった頃から、孟徳兄はいつも俺の知らないところでうまくやって、どうやったのか俺が聞いても、笑うだけでめったに教えてくれなかった。ガキ扱いするなと思って、ちょっと反発したこともある。

俺が茶を飲んでいる間、孟徳兄は黙って窓の外を見ていた。庭のそこここに解け残った雪が、陽光を受けてキラキラと輝いていた。表面は透き通り、ところどころ雫となって、ひっきりなしに落ちている。

昔から思っていたことだけど、俺と孟徳兄はちっとも似ていない。俺はこんなにも浅黒いのに、孟徳兄はちょっとハッとするくらい肌の色が白い。俺は棚の上のものを取ってやるのにいい具合の背丈だが、孟徳兄は、ちょうど俺が好きなあの娘と同じくらいの身長だ。俺はガタイが良くて、孟徳兄は細い。首筋などはすっきりし過ぎていて、どこか寂しげな雰囲気すら漂う。全体的に、孟徳兄の容貌は中性的だ。鬚がなかった頃は、本当に女の子と見間違えるくらいだったらしい。らしい、というのは、その頃俺にとって孟徳兄はあくまで頼れる兄貴だったから、そういう目で見たことがなかったのだ。
「元譲、元気そうでよかった。おまえの顔を見れてホッとしたよ」
そう言って俺を見た孟徳兄は、あれ? と思うほどほっそりとして、格子窓から射し込む陽射しにとけてしまいそうだった。そう感じるのは多分、俺が大きくなったせいだろう。郷里で毎日のように孟徳兄につきまとっていた頃、俺はいつでも彼を見上げていたのだから。

「俺も、孟徳兄に会えて嬉しい。俺、いま三十人ほど食わせてやってんだ。毎日武芸の稽古に励んでるし、孟徳兄に言われた通り、学問だっておろそかにしていない。俺、自分で言うのもなんだけど、この三年間で成長したと思う。俺、強いぜ。孟徳兄、この機会に手合わせ頼んでもいいか?」
「望むところだ」
孟徳兄は頼もしい笑みを浮かべ、俺の頭を撫でた。そして彼独特の低く乾いた声で言った。
「元譲はいい子」
やっぱり、ガキ扱いしてやがる。


その後すぐに来客があって、その日の手合わせはなしになった。いや、翌朝起る事件で、結局手合わせどころではなくなるのだが。とにかく俺は客室の寝台に寝転がり、久しぶりに会った孟徳兄のことを考えていた。
不思議なことに、手合わせが先延ばしになって、俺はホッとしていた。ホッとして初めて、自分が孟徳兄と手合わせするのを恐れているということに、俺は気が付いた。自分から言い出したことなのに俺は恐れていた。彼に負けることをではなく、彼に勝ってしまうことを。

武術において、身体の大きさが勝敗を決するものでないということは、よくわかっている。俺の背丈が孟徳兄を追い越してからも、俺は数えるほどしか彼に勝てなかった。孟徳兄のあざやかな剣さばきは俺の憧れだったし、目標だった。それなのに今はなぜか、簡単に彼に勝ててしまいそうな気がして、それが怖い。あの華奢な身体をなぎ倒してしまいそうな気がして、怖い。考えるまいとしても、どうしてもその場面を想像してしまう。そして、それが裏切られることを願っている。彼に気持ちよく打ち負かされることを、俺は切望している。こんな思い、武人として不純だ。
その夜、俺は孟徳兄の部屋で一緒に眠った。起きてしゃべっている間はまだよかったけれど、彼が眠ってしまうと、また同じ思いがどうしようもなく俺の胸の中を支配しだした。布団からのぞく彼の細い首筋を見詰めながら、どうかこの小さな身体に俺を倒すほどの強さが秘められていますようにと、俺は祈るように願った。同時に、そんな自分の不純さを恥じ入り、軽い自己嫌悪に陥った。ひどく複雑な気分だった。


翌朝、ほとんど理不尽なくらい早い時刻に、また来客があった。孟徳兄は俺を起こさないようにそっと寝台を抜け出し、身支度を整え部屋を出ていった。でも俺は寝たふりをしていただけで、実は昨夜から一睡もできていなかったのだ。こんな早朝にいきなり訪ねてくるなんて、どんな客だろうと俺は思った。そういえば昨日来た客も、偉そうな上にうさんくさい嫌な奴等だった。今来たのも、同じ連中かもしれない。奴等、ひょっとして、孟徳兄を脅しているんじゃないだろうか・・・・・・。

杞憂だろうとは思いつつ気になったので、俺は剣を持って部屋を出、話し声の聞こえてくる方に向かった。
廊下から部屋の中に見える人影は、五人だった。思った通り、昨日来たのと同じ奴がいて、しかも人数が増えている。孟徳兄の姿は帳の陰になって見えない。俺はいやな気分になった。五人のうち三人までが、いかにも用心棒といった感じのごつい巨漢だ。あとの二人はずるずるの着物を着て、ゴテゴテしているだけの趣味の悪い冠をかぶっている。五人とも、腰に大仰な刀剣を携えている。そんな奴等が、円陣を組むようにして孟徳兄一人に詰め寄っている。やはり無礼を通り越して、これはもはや脅しだ。
「お引き取り願う」
孟徳兄の、決然として落ち着いた声が聞こえた。するとそれに被せるように、ずるずる着物の一人が嫌みったらしく言った。
「ものわかりの悪いぼうやだ。おい、県令さん。ここいらにはここいらの者のやり方ってのがあってね。暗黙の規則や裏の繋がりってのもあるもんだ。県令さんはよそ者だ。覚えておけよ。くれぐれも突然の災難には気をつけることだ」
「わたしには脅しも賄賂も効かぬ。お引き取り願う。ここはわたしの家だ。不平があるなら役所で聞こう」
「そうか。そういうつもりですかい。・・・・・・わかった。それなら、こっちにも考えがある」

奴等が孟徳兄に指一本でも触れたら飛び込んでいってやろうと思い、俺は廊下に潜み身構えていた。
奴等は突然部屋から出てきた。下手に威嚇するのは賢明ではないと考え、俺は何気ない通り掛かりをよそおった。うかつだった。まさか、奴等が俺を狙ってくるとは思わなかった。
ずるずる着物とすれ違ったとき、やつ、少しふらついて、「失礼」とか言って俺にぶつかってきた。しまったと思ったときにはもう遅かった。

俺の脇腹に、冷たい痛みが走った。その瞬間、俺は奇妙にも冷静に、「しまった」と思った。しまった、孟徳兄に迷惑をかける。そう思った。腹に深く突き刺さった短刀が引き抜かれる前に、俺はやつの腕を掴んだ。やつはぶつかるふりをして、袖の中に隠し持っていた短刀で俺の脇腹を刺したのだ。俺と孟徳兄が親しい間柄なのを知っての腹いせだろう。やつにとって計算外だったのは、俺がとっさにその腕を掴んで、なかなか放さなかったということだ。
「放せ、小僧・・・・・・」
男は俺をナメていた。動揺を隠そうとするその言い方でわかる。俺は男を睨みつけ、掴んだ腕をギリギリと締め上げた。刺された脇腹から、鮮血がどくどくと溢れ出した。他の四人が、いっせいに俺に飛び掛かろうとしたその時、背後ですさまじい絶叫が響いた。

アーーーー!!

俺は最初、それが孟徳兄の叫び声だということがわからなかった。人の声とも思えなかった。まるで獣の哭声のようだった。闇に吸い込まれるような、胸の底が凍り付くような、そんな声だった。
次の瞬間、俺を刺した男は腕を掴まれたまま、まるで布がほどけるように、俺の足元に崩れ落ちた。俺は息が詰まり、なにも考えられなくなった。傷は深いらしく、下半身が痺れ、立っていられなくなった。視野が狭まり、そのなかに白い光が舞うように閃いた。孟徳兄は携えていた細身の剣を抜くと、先ず俺を刺した男の胸を一突きにした。そして、襲い掛かった巨漢の頚動脈をなめらかに切断し、続いて逃げようとした男の背中を串刺しにした。剣を引き抜くより先に左右から襲い掛かってきた男をスルリとかわし、その流れの中で落ちていた剣を拾い上げると、一方の男の額をサッと横に切り裂き、振り返り様にもう一方の男の胸を正確に心臓めがけて貫いた。
純粋に人を殺すことを目的とした動きに無駄はなく、剣舞のような綺麗な軌跡が一巡する間に、五人の男が声もなく死体になった。
返り血を浴びて振り返った孟徳兄の顔には、不思議な冴えと静けさが張り詰めていた。その顔と共に、俺の意識は遠のいた。脈打つような痛みと息苦しさが、渦を巻いて暗闇に呑まれていった。孟徳兄の剣さばきは、俺の目の奥に白い残像を残した。


俺は昔、泣き虫だった。
阿瞞にいちゃん(あの頃、俺は孟徳兄のことをそう呼んでいた)の姿が見えないと言っては泣き、宝物を友達にとられたと言っては泣き、暗闇が怖いと言っては泣いた。俺を泣かすことに一番容赦がないのが阿瞞にいちゃんで、俺を泣き止ませるのが一番上手いのも阿瞞にいちゃんだった。
俺が泣いていると、阿瞞にいちゃんは詳しく事情を聞いて、決まって嘘みたいに上手な解決法を見つけ出してくれた。よく苛められたけれど、最後には必ず俺をなだめて、楽しい気分にさせる方法を阿瞞にいちゃんは知っていた。俺が一番哀しかったのは、阿瞞にいちゃんが俺がつきまとうのをうるさがって、いつの間にかいなくなってしまうことだった。俺はオイオイ泣きながら、いつまでも阿瞞にいちゃんを探しまわり、それがどんなに酷い仕打ちであるかを大人たちに訴えて歩いた。
阿瞞にいちゃんの母親、つまり俺の叔母さまが急な病で亡くなったとき、阿瞞にいちゃんはふっと家を出たきり、一ヶ月ほど帰ってこなかった。俺が泣いた最長記録は、多分あの時だったと思う。叔母さまが死んだことも、阿瞞にいちゃんが帰ってこないことも、大人たちが妙に冷めた態度でいることも、なにもかもが哀しかった。一ヶ月経って、流石に涙も涸れたかと思った頃、阿瞞にいちゃんはふらりと帰ってきた。ホッとした俺はまたひとしきり泣きじゃくり、阿瞞にいちゃんは「ごめん」と言って俺をなだめた。

阿瞞にいちゃんにこそ泣く権利があったのだということに、なぜ気が付かなかったのだろう。


気が付くと、夕刻だった。目覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなかった。脇腹に感じる鋭い痛みで、少しずつ朝の出来事を思い出した。意識がはっきりしてくると、痛みで全身が火照っているのがわかった。息苦しさは、まだ少し残っていた。天井に潜む暗がりをただぼんやりと眺めていた。身体が重くて動かせなかった。ひどく寝汗をかいていた。血と汗の臭いが混じり合いじっとりと俺を包んで、澱んでいた。
(孟徳兄、孟徳兄は・・・・・・)
俺がなにか言おうとすると、孟徳兄の顔が俺の視界に入った。彼はひんやりとしたきれいな布で俺の額の汗を拭い、
「元譲、命は助かるから安心しろ。でも重傷だから、しばらくじっとしていろな。無理にしゃべらなくていいから」
と囁くように言った。そして低く沈んだ声で、「すまん」と付け加えた。
あやまらないでくれ、と俺は言いたかった。
あやまらないでくれ。
あやまらないでくれ。
あやまらないで・・・・・・。

それから起き上がれるくらいに傷が癒えるまでの十数日間、俺が見ていたのは、孟徳兄が俺の目の中に焼き付けた白い残像だった。彼が描いた優美な軌跡は、幾度も幾度も繰り返し俺の脳裏で閃いて、暗闇に白く冷たい光の跡を残した。そしてその度に、どうでもいいような死体が積み上がっていった。俺には白い光がとても哀しそうに見えた。綺麗で、無表情で、哀しそうだった。俺はそれを抱きしめてやりたかった。抱きしめて、もういいよと言ってやりたかった。もういいよ。俺はどこも傷付いてなどいないから。俺はもう充分守ってもらったから。これからは、俺がおまえを守ってやりたいのだから・・・・・・。


ふと目覚めると、枕辺に孟徳兄の姿があった。彼は椅子に座ったままうな垂れて眠っていた。部屋は静けさに満たされ、俺たち以外にはなんの気配もしなかった。ただ規則正しい孟徳兄の寝息だけが、ひっそりと繰り返し響いていた。寝台傍に寄せた卓の上には、孟徳兄がさっき俺に食べさせてくれた粥の椀が載っていた。俺は右手を持ち上げて、そっと彼の頭を撫でてみた。傷が痛んだけれど、たいしたことはなかった。掌から柔らかな髪の感触と体温が伝わってきた。孟徳兄はすぐに目覚めて、俺を見て微笑んだ。あどけない笑顔だった。
「この傷が癒えたら、手合わせ頼んでもいいか?」
俺は内緒話をするみたいに聞いてみた。
「望むところだ」
孟徳兄はふふと笑って言った。
いつもと変わらない、ほっそりとした、でも頼もしい孟徳兄の姿だった。


了.





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