幽雪 ―ゆうせつ―



 いちばん古い記憶は、なにかがとめどなく冷えていく感覚だった。
 ドライアイスがしゅうしゅう解けていく白いゆげを見たような気もした。
 でもそれがなんだったのか今ではわからない。


 二番目に古い記憶は、葬式だった。
 県北から嫁いできたという曾祖母が死んだのだ。
 うちは本家だったこともあり、普段顔をあわさない親類縁者がぞくぞくと集まってきた。ぼくはまだ四歳だったので、それはみな初めて見る人たちだった。むこうはそうでもないらしく、
「たけちゃんおおきくなったねえ」とか、
「あかちゃんのころ一度だけ抱っこしたことあるのよ」
 とか言われたけれど、もちろんぜんぜん覚えていなかった。

 その時ぼくの興味は曾祖母の死でも大人の親戚でもなく、三歳年上の従兄弟の仁くんにあった。
 父親に連れられてうちの玄関を訪れた仁くんは、少しもはにかんだりせずにまっすぐぼくを見て、
「たけちゃん久しぶり。ぼくのこと覚えてる」
 とはきはきした声で言った。でもやはり、ぼくは覚えていなかった。仁くんは詰襟の黒い学生服を着ていた。

 ぼくはまだ死というものを理解していなかったので葬式は哀しくなかった。
 鼻の穴に綿を詰められた曾祖母の死顔を見せられても、なんだかよくわからなかった。疑問にも思わなかった。ただ、ああそういうものなのか、と思っただけだ。

 あの頃のことを思い出すとき、情景はいつも少しだけ暗く、曇っていたような気がする。記憶のなかに自分自身の姿を見つけることもある。

 ぼくと仁くんは家の庭や近所を走りまわって遊んだ。
 季節は冬の終りで、吐く息は白く、野良犬はコンクリートの上をチャカッチャカッチャカッという爪音をたてて走った。車道から見るうちは黒と白の二色しかなく、長机の受付にはしきりに黒い服を着た大人が出入りして、その傍にはプラスチックの花輪が立てられていた。自分の家とは思えなかった。

「ひいばあちゃんに二人で会ったときのこと、覚えてるか」
 と仁くんは言った。
 ぼくはぶんぶんぶんと首を横に振った。
「雪が降っていたんだ」
 仁くんは花輪をぐるりと一周してぼくの目の前に立った。
「おれ、遊びに来とったん。たけちゃん雪を見るのは初めてだっただろ。あの時はたくさん降った。たけちゃんはおとなしく降る雪を見ていた」

 とめどなくとめどなく空から落ちてくる白い点。雪。ぼくはその言葉の意味がわかった。思い出としてではなく、ただ情景が目に浮かんだ。

「たけちゃんはじっと見てた。そしたらひいばあちゃん、慌てて抱き上げてさ、たけちゃんの顔を雪から逸らせた。降る雪見たらおえんって」

 やれ、危ねえとこじゃった。降る雪見たらおえん。降る雪に魅入られたら気ぃ狂うけん。特にちいせえ幼子はそうじゃ。仁もよう覚えとかれえよ。積もっちまったもんはまだええ。まだ安全じゃ。じゃけんど、降る雪はじいっと見るもんじゃねえ。せえで気ぃ狂ったもんを、ばあちゃんはよう知っとるけん。

 曾祖母のしわくちゃな顔とゴツゴツした手。天井の木目に澱んでいた暗がりと、そこにぶら下がり微かに揺れていた円い蛍光灯。ぼくはいつも曾祖母を見上げていた。いちばん古い記憶とは、本当はそれなのだろうか。だがそこに時間の観念はなく、思い出はまるで頭上にボウと浮かび上がる気体のように思える。曾祖母は押し入れの中で寝起きする風変わりな人だったそうだ。

「迷信だな」
 仁くんはにやりと笑って言った。


 それからぼくたちは納屋に住み着いた猫の親子を見に行った。いつもは母と一緒に見に行くのだが、その日は仁くんと二人きり。ぼくははしゃいで、仁くんの手をぐいぐい引っ張っていった。ところが、母猫は先月産んだばかりの五匹の仔猫を喰い殺していた。

 はじめは鼠かなにかをくわえているのかと思った。でもそれは間違いなく仔猫だった。
 母猫は既に三匹喰い殺していたのだけれど、見ている間に残りの二匹もガツガツとたいらげてしまった。彼女の口のまわりの毛は仔猫の血で真っ赤に染まっていた。母猫はそしてキラリと眼を光らせて一度だけこちらを振り向くと、タタタッと素早い足取りで納屋から逃げ出してしまった。
 ぼくはサイレンのような声を張り上げて泣いた。仁くんもしばらく茫然とその場に立ちつくした。しかし彼はふと歩き出し、仔猫の下に敷かれていた、仔猫たちの血と肉の飛び散った布切れを手に取ると、納屋の外に持ち出した。そして裏庭の地面に穴を掘って埋め、かぶせた土の上に大きめの石を数個重ねて置いた。
「お墓だ」
 仁くんはそう言い、真剣な目でぼくを見た。
「このことは二人だけの秘密にしよう」
 そしてぼくたちは指切りげんまんした。


 友達と共有できる秘密をひとつ持った分、ぼくは成長した。
 県外の家に帰った仁くんと会う機会はそれからなかなか巡ってこなかったが、ぼくはあの仔猫の墓におそなえものを欠かさなかった。
 仁くんと再会したのはそれからちょうど一年後、曾祖母の一周忌の時のことだった。

「やあ、久しぶり。たけちゃん、ぼくのこと覚えてる」
 相変わらず、仁くんははきはきとした口調で言った。
「うん。覚えとるよ仁くん」
 ぼくは嬉しさをこらえきれず、ピョンピョン跳びはねながら言った。そして一番に、ぼくは彼を裏庭に連れていった。仔猫の墓にはミニカーとカッパエビセンとアメをおそなえしてある。春にはレンゲソウを、夏にはナツグミを、秋にはキンモクセイをおそなえした。
「たけちゃんはしっかりしとるなあ」
 仁くんは感心してぼくの頭を撫でた。ぼくは得意満々で、
「ちゃんとだれにも言わんかったよ」
 と言って胸を張った。
 ぼくたちは二人並んで、仔猫の墓に手を合わせて一心にお祈りした。これはだれも知らない、ぼくたちだけの秘密だ。

 その日の午過ぎから、雪が降りだした。
 最初はちらちらと風花程度だったけれど、次第に細かく、本格的な雪になった。
「風邪ひくから家の中におりい」
 という母の言葉を無視し、ぼくたちは外に遊びに出た。しばらく走りまわった後、本当に降りが激しくなってきたので、納屋の中に避難し、そこから降る雪を見ていた。

「降る雪を見たらおえん」
 ふと思い出してぼくは言った。
「なんでかなあ」
「気ぃ狂うゆうとった。ひいばあちゃんが子供のころ、村に降る雪をじいっと見詰めすぎて発狂した子がおったんだと。でもそんな話ほかに聞いたことないから、迷信じゃろ思うとった。おれ一度なんでってひいばあちゃんに聞いてみたんよ。そしたら、どうしようもないからだって」
 仁くんは降る雪を見ている。
「どうしようもないって」
 ぼくは仁くんの横顔を見て尋ねた。
「人間にはどうしようもないことってたくさんある。でも普段はそれを考えないようにしている。降る雪は人にそれを思い出させる。だって雪が降るのは、人間にはどうしようもないことだろ。だから降る雪を見詰めすぎると、人はそれに堪えられなくなって発狂するんだ」
 仁くんは降る雪を見ている。まじろぎもせずに、ただまっすぐに。
「ようわからん・・・・・・」
 ぼくはだんだん不安になってきた。仁くんはそう言いながらなぜ、降る雪から目を逸らさないのだろう。
「仁くん」
 返事はない。
 彼は降る雪を見ている。完全な無表情で、一心に、見詰めている。
 雪はあとからあとから落ちてくる。
 あまりにまんべんなく落ちてくるものだから、まるで止まっているように見える。
「仁くん、仁くん・・・・・・仁くん・・・・・・! いやだ、いやだようっ、仁くんこっち向いて・・・・・・!」

「なんだよ」
 仁くんはきょとんとした顔でくるりとぼくを振り向いた。
「仁くん・・・・・・ぼくはきみが、ぼくはひいばあちゃんが言ったとおりきみの気が狂うのかと思ったんだ」
 ぼくは半分泣きべそをかきながら言った。すると仁くんはカラカラと笑った。
「子供っておもしれえの。すぐ本気にする」
 それでもぼくはとても不安で、いつまでも仁くんの身体のどこかを触っていないと落ち着かなかった。

 雪はいっこうにやむ気配を見せず、ぼくたちは家に帰って双方の親にしこたま叱られた。
 それからほどなく、仁くんは父親の車に乗せられて家に帰っていった。


 座敷では親族たちが古いアルバムをめくっていた。セピア色に古ぼけた写真には、ドレスを着て洋風の立派な椅子に座っている若い女の人が写っていた。ぼくは好奇心から覗き込み、「これだれ」と聞いた。
「昨年亡くなった、たけちゃんのひいおばあちゃんだよ。若い頃はこんなに美人だったんだねえ」
 と親戚のおばちゃんが教えてくれた。それでぼくはなにかが解りかけたような気がして、恐ろしくなって、すぐに二階の子供部屋に駆け上がった。
 死んだひいばあちゃん。死んだ仔猫。写真の若いひいばあちゃん。雪。どうしようもないこと。
 窓の外の闇夜に、雪は輝きながら降りしきっていた。
 ぼくは膝をかかえ、目を閉じた。すると閉じた目の中に雪は降った。

 硬いものになってしまった曾祖母の皮膚が、頭のなかでぼくに触れてくる。いくら消そうとしても、くり返し触れてくる。そしてぼくの体温を奪う。母と父と仁くんと仔猫とぼくと、好きなもののすべてが、冷たくなっていく。雪が暗黒に渦を巻いて落ちていくのを、だれも止めることはできない。

 親戚たちが挨拶を言いかわし、帰っていく気配がした。お吸い物のだしのいい匂いが流れてきた。食器の触れ合う音と笑い声。お弁当、たけちゃんの分とっといたわよ、と母の明るい声。ぼくの目の中で、雪はいつまでも降りやまない。



 人はだれしもいつかは死ぬと初めて知った夜。










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