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夏の鬼 「川戸さん、川戸さんではありませんか」 勤め先からの帰り途、私の名前を呼ぶ声に振り返ると、そこに一匹の鬼が立っていた。 背が高く、上品な背広を着ている。髪はサラリーマンふうの七三分けで、鬼のあかしたる角は、額の真ん中、眉間のすこし上あたりから白いやつが一本まっすぐにのびている。目には瞳がなく薄黄色く濁っている。すこしくたびれているが上等の革靴を履いている。なかなか立派な男の鬼だ。 鬼は、人懐っこい笑みを浮かべて私に話しかけてきた。 「お久しぶりです。筑波ですよ。ほら、小学校のとき同じクラスだった」 「筑波さん……ですか」 私は記憶を辿ってみたが、どう考えても彼のことに思い当たらないのだった。さほど仲が良くなくて名前を覚えていないにしろ、クラスメイトに鬼がいたら印象に残っていてもよさそうなものだが、いっこうに覚えがない。かといって、私の名前をすんなりと言い当てたことや、いかにも屈託のない様子を見るに、鬼の言うことがまるきり嘘や勘違いであるとも思えなかった。 「申し訳ありませんが、僕はあなたのことを覚えていないようです」 私は正直にこたえた。 すると鬼はひどく気落ちした様子になった。しかしすぐに、あなたが覚えていないのはちっとも気に病むことではないのです、とでも言いたげに、ひっそりと微笑んで、 「そうですか。仕方がないのです。私はクラスの中では目立たない存在でしたから」 とつぶやいた。 私は鬼のことが気の毒になってしまった。 「いかがですか。僕の家はすぐそこですから、ゆっくり飲み物でも飲みながらお話ししては。そのうちに、あなたのことも思い出すかもしれない」 「え、いいのですか」 「ええ、いいですよ」 そうして私は、いとも無防備に鬼を家に招いてしまった。アパートの部屋の重い扉を開け、ぱちんと蛍光灯を点け、どうぞ、と鬼を招きいれた。 「どうぞ、ちらかっていますけど」 「おじゃまします」 鬼は玄関に脱いだ革の靴をきちんと揃えて上がってきた。 窓から、蝉の声にまじって小学校のチャイムの音がかすかに聞こえてきた。 「おや?」と鬼は言った。 「もしやあの音色は、我々の母校から響いてくるのでは」 「ええ、そうですよ」と私は言った。 「そう、貝ノ原小学校のチャイムの音です。いつもなら聞こえないのですが、風向きによってはたまに聞こえてきます。あんなに遠く離れていても、風は音を運んでくるものなのですね」 「ふうん……」 鬼は音の流れてくる方角に顔を傾けて、静かに耳を澄ました。たっぷりと時間をかけて耳を澄ました。その表情は無心だった。 「失礼、お名前はなんとおっしゃいましたっけ」 「筑波です」 鬼は白い歯を見せた。口の両端から、二本の牙がにょきりとはみ出した。片方の牙が、先から五ミリほど欠けている。 「筑波さんは、ずっと鬼だったんですか」 「ええ」 「つまり、生まれたときから。ほら、生まれたときは人でも、成人してから鬼化する場合もあるっていうじゃありませんか」 「私は生まれたときから鬼でした」 「そうですか」 空は熟れ過ぎた柿色に染まっていた。風はぬるく、けだるい匂いを運んでくる。 「蒸し暑いですね。クーラーをいれましょうか」 「いいえ、せっかくですが遠慮しておきます。私は少々暑くても、窓を開けて外の風を感じているほうを好むので」 もっとも、と鬼は付け足した。 「もっとも、川戸さんが暑いのでしたら話は別です。クーラーをつけてもいいんですよ」 ずいぶん細やかな気遣いをする鬼だ。 「いいえ、わたしもいいんです。ここ十日ほどで、だいぶ暑さも緩みました。ことに夕方はしのぎやすいですね」 「もう、夏も終わりですね」 「ビールか麦茶しかありませんが、どちらにしましょう」 「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、麦茶をいただけますでしょうか」 バカ丁寧なしゃべり方をする鬼もいたものだ。冷蔵庫を閉めるときにふと目があった。瞳のない濁った目が、こちらを見てはにかむように微笑んでいる。私は初めて、鬼に対して恐怖のようなものを感じた。 風がやみ、蝉がいっせいに鳴きやんだ。夕闇が迫っている。 私は頻繁にビールを口に運んだ。何を話していいかわからなかったのだ。ビールの泡に混じって、黴臭いようなアルミの味がした。鬼は座卓を挟んで私と向かいあっている。正座した脚を一度もくずさない。実にうまそうに麦茶を飲んで、小さな溜息をひとつついた。鬼は沈黙を持て余したりはしていなかった。私だけが、置いてけぼりをくったようにそわそわしている。 「筑波さん」 「はい」 「やっぱり、その、思い出せないんです、どうしても」 「いいんですよ」 「いや、そうじゃなくて。……そうじゃなくてやっぱり、どう考えても、あなたが同じクラスにいたという気がしないんです。筑波さん、その、失礼ですが、思い違いではありませんか……きっと、人違いをされているんですよ。僕は、小学校のときあなたと同じクラスだったことはないはずです。一度も」 「いいえ」 鬼は落ち着いた口調で言い切った。 「私とあなたは同じクラスでした。小学校三年と四年のときです。貝ノ原小学校三年C組と、四年C組で、私とあなたは同級生だったんですよ」 「でも……」 「逆上がりの特訓をしてくれました」 「え」 「逆上がりです。鉄棒の。体育の時間、逆上がりができなかったのは私だけだったんです。川戸くんは、放課後こっそり私を呼んで特訓してくれたんです。背中を使って押し上げてくれて、それがなんだかとっても気持ちよかったんです。特訓と言ってもスパルタ式というのではなくて、背中を使って何度も押し上げてくれたんです。それで、あるとき突然に、一回転したんです。それから川戸くんは、こんどは自分一人でやってみて、もうできるよって笑って、やってみたら、できたんです」 そのとき、私の中にひとつの風景が像を結んだ。放課後。鉄棒。長い影。 私の背中に、心地よい重みがのしかかっている。体操服がうまい具合に摩擦して、バランスがとれている。背中全体から温もりが伝わってくる。私は握ったおだんごを手から離すように、慎重に背中を押し上げる。きれいな流れにのせてやれるように、空に解き放つ。 「そんなことがあったんですか」 「思い出しましたか」 「さあ、どうだか……」 いまいち、判然としなかった。 確かに、私の脳裏にフィルムのように像を結んだが、はたしてこれは本当に私の記憶だろうか。夕方の校庭や、チャイムの音や、背中の温もりや、石灰の匂い、いつかどこで拾ってきた懐かしい記憶の断片を組み合わせて、万華鏡のように思い出を捏造していないという自信はなかった。 第一、このフィルムに鬼は登場しない。背中だけだ。 「卒業写真……」 ふと思いついて、私はつぶやいた。 「そうだ、卒業写真という手があった。小学校の卒業アルバムを見れば、はっきりさせることができるじゃないですか。あなたが本当に同級生なら写真が載っているはずだし、実際にその頃の顔を見れば、僕もきっと思い出すに違いない」 「でも、それは、やめておいたほうがいいのではないでしょうか」 鬼はにわかに緊張した面持ちになって言った。 「なぜですか。見られたら困るようなことでもあるんですか」 「いえ、そういうわけでは……」 くちごもったということは、やはり鬼は嘘を言っているのかもしれない。私の何かにつけこもうとして、親しげなふりをしているのかもしれない。そうだとしたら危ないところだ。卒業アルバムさえ見つかれば、それもはっきりする。何かある前に気がついてよかった。 私は本棚を捜し始めた。本棚にないことがわかると、次は引き出しを端からあさった。もともと整理整頓が行き届いているわけではないので、やみくもに捜すしかなかった。 「おかしいな。どこかにあったはずなんだが。引っ越したときに置いて来てしまったんだろうか」 「無駄ですよ」 背後で鬼がささやいた。 「無駄ってどういうことですか。だってあなたが……!」 思わず怒鳴り声をあげて振り向いた私だったが、その声は何かに吸い取られるように尻すぼまりに消え入り途切れた。 鬼が、いまにも泣きだしそうな顔をしていたからだ。 「どうしたんですか。どうしたんですか。そんなにもつらいことだったんですか」 私の中に鬼がいとおしいような想いがわき起こり、それが「だまされるな」というもう一人の自分の声を揺るがせ、どうにももどかしく、かなしいような気持ちになって、私は鬼の影にすがり寄った。 「すみません。無駄なんて言い方して……いいえ、あやまらないでください。川戸くんは悪くない、卒業アルバムを見ようというのは当然の思いつきです。平気なはずなんです。私は、鬼だから……」 私は鬼の背中にそっと掌を当てた。背広越しなのに、まるで地肌を撫でているような生々しい感触が伝わってきた。広くてなだらかな筋肉が、こたえるように上下に動いた。人間よりもひとつひとつの突起が大きくてゴツゴツした背骨が当たった。あの小さな温かな背中が、こんなにも立派に鬼らしく成長したのか。 「鬼は、写真には写らないんです」 鬼は強がりのような笑顔を向けた。 「だから、卒業アルバムのどこにも、私は載っていないんです。私がいたはずの場所に、ひとり分の空間があいているだけなんです」 「ごめんね」 私は腕を肩にまわして鬼のたくましい背中を抱き寄せた。 「ごめんね。筑波くん、ごめんね」 それでも私は、鬼の言うことは嘘かもしれないと思っていた。 嘘かもしれない。ぜんぶ嘘だ。最初から嘘。嘘が光を受けて、金色の野原のように広々と波打っている。 嘘の野原の中に、またひとつの風景が像を結んだ。 鬼ごっこ。 「そうだ、よくみんなで鬼ごっこをしたよね」 「鬼はいつも私でした」 私は子供の頃のことを思い出した。そこには一箇所、歪んで真空のようになっている場所があって、息苦しくなった私は、瞼の裏の模様をジグソーパズルのように嵌めこんでみた。すると、そこに頭に小さな角をはやした見覚えのある男の子が現れた。男の子は十数えた後見えなくなったみんなを捜して、不安げに辺りをうかがっている。私は背丈よりも高く繁ったススキ野に隠れ、息をひそめている。遠ざかる男の子の角と髪の毛が、ススキの穂の間からひらひらと見え隠れして…… 真空からひとつ風景が生まれると、歪は連鎖反応を起こしてひとりでにいくつもの像を結んでいった。教室にひとり居残って、算数をしているあの子の額に、幼くてまだやわらかそうな角がちょこんとはえている。飛び込み台にしゃがみこんで、照り返しのきついプールの水面をまじろぎもせずに見詰めているあの子にも、よく見れば小さな角がはえている。 夏の終わりの公園で、私たちは並んでブランコをこいでいた。 筑波くんは、うつむいて、じっと黙っている。空に一番星がきらきらとかがやいていて、公園には二人のほかにだれもいない。ブランコの鎖が軋む音が、きい、きい、とくりかえし響いている。 きい、きい、と薄闇の中にブランコの音だけが。 「川戸くんは優しいね」 あわく響く可愛らしい声で、筑波くんがぽつりとつぶやいた。 そして、瞳のない目をゆっくりとまばたきさせた。 「ひとつだけ、お願いがあります」 そろそろ失礼します、と立ち上がりかけた鬼に、私は思い切って言ってみた。 「なんでしょう」 「角に、触らせてはもらえないでしょうか」 「おやすいごようです」 鬼は、私が触りやすいように姿勢を低くした。 私は鬼の額からはえた一本の角を両手でつつみこんだ。なめらかで、硬くて、見た目で思ったよりもしっとりとしていた。嘘の野原が、その一点から果てしなく内側に広がっているのが見えた。目を細めたりしなくても、遥か遠くまでくっきりと見渡すことができた。 私はながいこと角に触っていた。鬼はじっと目を瞑ってただうつむいていた。ようやく手を離して、私は「ありがとう」とつぶやいた。鬼は顔を挙げて、「どういたしまして」と言った。やわらかな声だった。 外はもう暗くなっていた。 「すっかり長居してしまって申し訳ありませんでした。実に、有意義な時間でした。とても楽しかった」 最後まで、鬼の言葉使いは丁寧だった。 「いいえ、僕も久しぶりに昔のことを思い出して楽しかったです」 「さようなら」 「さようなら、またお会いしましょう」 私は部屋の窓から鬼を見送った。塀の角を曲がって姿が見えなくなっても、アスファルトを踏みしめる足音が、しゅく、しゅく、しゅく、と聞こえていた。辺りは真っ暗闇だった。月がないせいだろうか、ひどく暗い。風にのって、小学校のチャイムの音が聞こえてきた。チャイム? 今、いったい何時なのだろう。 しゅく、しゅく、しゅく、という鬼の足音が、暗闇の中をゆっくりと遠ざかっていった。 |