「勇気づけの人間関係講座@岡工」第一回
勇気づけの原理
<はじめに>
「勇気づけ」という言葉はもともと日本語になくて、英語のencouragementエンカレッジメントから来ています。動詞のencourage(勇気づける)は日常用語で、「選挙へ行くようにエンカレッジした」とか、「お風呂に入るようにエンカレッジした」というふうに、人に「何々するように勧めること」をエンカレッジと言います。
ちょっとやりにくいことを頑張ってやってくださいというような、日本語で、「励ます」「強く勧める」というよりもっと軽い言葉です。
「勇気」は世間で言われるような“すごいこと”にチャレンジすることではなくて、「元気」「正気」「勇気」の「気」で、人間の活力、エネルギー、生きていくために必要な原動力という感じです。
ですから勇気づけの本来の意味は、元気をつけてあげること、エネルギーを注入してあげることです。ある言葉をかけたり、あることをして、相手がより元気になるように、相手の持っているエネルギーが上がるようにする働きかけを勇気づけと言います。ここで一般向けには別紙を参照に主に技術的なお話をしますが、ここはプロ向けですから、違うお話になります。スライドをご覧ください。
<勇気づけの3つの要素>
勇気づけを別々の3つの要素(視点)に分けて考えてみましょう。
1)自分(私)の感覚として
2)相手の感覚として
3)コミュニケーション構造として
1)自分の感覚
自分が勇気づけているかどうかの感覚は自分でわかります。
2)相手の感覚
相手の感覚は、たずねればある程度の情報は得られます。つまり、直接的には知ることができなくても、間接的に知ることはできます。自分の今の言い方で相手がどう感じたかをたずねてみるのは、勇気づけを学ぶ際に、とても大切な操作です。
相手にたずねないで、ただ「勇気づけしているぞ」という自分の感覚だけに頼っていると、相手がひどく勇気をくじかれていても気がつきません。
勇気づけの初級テクニック「ありがとう」「嬉しい」「お願い口調」「Iメッセージ」などを学んで、「こう言えば勇気づけになるはずだ」と図式どおりにふるまって、勇気づけした気になっていることがあります。でも、もしかしたら相手は、勇気を激しくくじかれているかもしれないです。
相手にたずねるのはいいが、かといって一々たずねるのは大変で、相手も気を悪くするかもしれません。
>相手の反応を観察する
そこで、せめて相手の反応を丁寧に観察します。自分が何か言った結果、相手がどのように行動するかを見届ければ、自分が言ったことが勇気づけになったかどうか、わかることが多いです。
相手の感覚はたずねれば言ってくれるとはいえ、この情報の正確度は、それほど高くないかもしれないのです。つまり、相手は本当のことを言うとは限らないし、また自分が相手の言うことを正確に理解しているとは限らないからです。相手の反応を観察することを加えれば、もうちょっと正確度は上がるかもしれません。
しかしながら、自分には常に統覚(認知)バイアスがあるので、ノン・バーバル(非言語的)な情報の解釈は、まったくパラノイア(妄想)的であるかもしれません。
また、仮に情報の正確度が高くて、相手が「今のあなたの言い方で勇気づけられました」と言ったとしても、その言い方が別の人に対しても勇気づけになるかどうかはわかりません。ある人に対して成功しても、その言い方が一般的な勇気づけの公式になるわけではありません。別のある人はその同じ言い方で勇気をくじかれるかもしれません。別の人どころか、同じ相手でも状況しだいでは勇気をくじかれることだってあるかもしれません。
>勇気づけに一般公式はない
つまり、勇気づけに本当は一般公式はないのです。しかし、困ることはありません。自分と相手が同じ文化を共有していれば、文化が一定の様式を与えてくれます。
ある日本人女性が、アメリカ人の男性と恋愛関係に陥りました。彼は仕事がうまくゆかなくて、そのことを彼女にこぼしました。彼女は彼を慰めようとして、"I love
you!" と言いました。それを聞いて彼はとても怒りました。彼女には勇気づけ感覚があったけど、彼には勇気くじかれ感覚が起こったということです。
後日、彼女は野田先生に相談しました。「そんな場合どう言えばいいの?」。先生は、「"I am
sorry!" と言うのが普通じゃないか」と答えました。彼も、「そう言ってもらえたら、嬉しかった」と言いました。しかし彼女は、「でも、私は何も悪いことをしていないから、彼に謝る必要なんかないと思う」と言いました。
これは笑い話です。"I am
sorry!" というのは、相手に謝る場合にも使いますが、「お気の毒に」とか「大変ね」とかいうような意味でも使います。彼女はそのことを知らなかったのです。これは「文化の違い」の例になると思います。
3)コミュニケーションの構造
>甘やかしの場合
私は「相手を勇気づけた」と感じていて、相手からも「あなたに勇気づけられました」という言葉や反応が返ってきているのに、実際は勇気くじき的であったということもありえます。いわゆる《甘やかし》がそうです。これは、その場では相手の気分は良くなりますが、長期的に見ると、相手は次第に勇気を失う方向に動いていってしまう、そんなコミュニケーション構造があります。
>勇気づけは
勇気づけというのは、決して相手の気分を良くしてあげることではなくて、「ライフタスクを建設的に解決する気になるよう援助すること」です。
気分が良くなっても、自分の課題から逃げ出すようでは、コミュニケーション構造は勇気くじき的です。
これは怖ろしいことです。われわれはコミュニケーション構造そのものを観察することができないままに、自分の感覚と相手からの反応だけを頼りに生きているのです。
長期間観察していると、結果的にどんなコミュニケーション構造だったかがあとでわかるのですが、そのときにはもう手遅れだったということになりかねません。「子育てを間違った」と気がついたときには遅かったというようなことです。
>コミュニケーション構造
コミュニケーション構造には、そのとき語られている「言葉」や「ノン・バーバル・メッセージ」も含みますが、それらが乗っかっている「文脈」も含みます。
<文と文脈>
>「文」「文章(言語)」「文脈」
「そのとき語られている言葉」のことを「文」と呼び、「文の連続」を「文章」あるいは「言語」と呼びます。文章を言語と呼ぶのは、ちょっと変ですが、便宜的にそう取り決めます。
文の働きは、「文脈」を知らないとわかりません。例えば、「偉いね。頑張ったね」という文も文脈によって働きを変えます。
試験で良い点を取った子どもに、母親が「偉いね。頑張ったね」と言うと、子どもは勇気づけられるかもしれません。妻がごちそうを用意して待っていて、帰って来た夫が、「偉いね。頑張ったね」と言うと、多くの場合、妻は勇気をくじかれます。
このように、同じ文に対して受け手の感覚が違ってしまうのは、親子の場合と夫婦の場合で、コミュニケーションの基本的な文脈が違うからです。
子どもが勇気づけられるかもしれないのは、子どもが「親子関係を縦の関係でよい」と考えているからで、妻が勇気をくじかれるのは、妻は「夫婦関係を横の関係でなければならない」と考えているからです。
「縦の関係」とか「横の関係」とかいう言葉は、コミュニケーションの基本的な文脈のあり方を表す言葉です。それは、「偉いね。頑張ったね」というような、コミュニケーションの中で使われている言葉ではなくて、コミュニケーションを外から見て、そのあり方を評価している言葉です。このような言葉を「メタ言語」と言うことにします。
>アドラー心理学の専門用語はメタ言語
そうなると、アドラー心理学の術語は、ほとんどがメタ言語です。
「勇気づけ」もその1つです。だから、「今の言い方は勇気づけになっているかな?」などと言えるのです。「今の言い方」というのは、何であれ、「文」のことで、これについて、「勇気づけ」というメタ言語でもって、そのあり方を評価しています。
「横の関係」も、「その言い方は横の関係だ」というように、1つの文だけではなくて、その人が作り出す文章の一般的傾向を評価しようとしていますからメタ言語です。
ところが、「その言い方は可愛いね」と言うときの「可愛い」とか、「命令するのはやめてください」と言うときの「命令」とかは、コミュニケーションを評価する言葉みたいでメタ言語のように見えますが、これらは、複数の文すなわち文章の間に成り立つ文脈を評価していなくて、1つの文を評価しているだけですから、メタ言語とは言わない。
「その言い方は“命令口調”だ」とか「その言い方は“I(私)メッセージ”だ」とかの言い方も、1つの文のあり方を評価しているだけですから、メタ言語ではないです。
<ライフスタイルと勇気づけ>
>ライフスタイル
「その人が作り出す文章の一般的傾向」とは何だろうか。これが「ライフスタイル」です。アドラーによれば、ライフスタイルは「自叙伝の文体」のことですから。
メタ言語とは、「ライフスタイルを評価する言葉」のことです。「勇気づけ」とか「横の関係」とかいうのは、実は「ライフスタイルのあり方」に付けられた名前です。
>勇気づけの判定は
ある人のある文が勇気づけであるかどうかを、どうして判定するでしょうか。
「ありがとう」と言っているとか、「お願い口調」であるとかの、個々の文を評価する方法ではありません。個々の文ではなくて、その人の作る文章全般に関係しています。
これは途方もなく重要なことです。「ありがとう」だの「嬉しい」だの「Iメッセージ」だの「お願い口調」だのといった、個々の文の言い方をいくら学んでも、勇気づけは学べないということです。
「勇気づけ」というのは、文章のスタイル、言語のスタイル、つまりライフスタイルそのもののあり方に関係するメタ言語です。個々の文のあり方ではなくて、文章全体のあり方、さらにはライフスタイルのあり方であるとすると、子育て講座・PASSAGEで、「ありがとう」や「嬉しい」や「お願い口調」や「意見言葉」などの、個々の文の作り方を学ぶのは無意味なことになるのでしょうか?
イエスとノーと両方があります。もしそれらが、新しい文脈を作るために学ばれるのなら意味があります。そうではなくて、文脈を今までのままで置いておいて、ただ個々の文を入れ換えるだけならば、意味はありません。
>アドラー心理学の誤用
「アドラー心理学の誤用」というのは、縦の関係的な旧来の文脈を入れ換えないままで、ただ文の形をアドラー心理学ふうに変えるだけで、アドラー心理学的コミュニケーションが築けたと思い込むことです。
それは、例えば、英単語だけ学んで文法を学ばない人が、日本語の単語を英語に入れ換えて、それに日本語のテニヲハを付けて、「ミーはイングリッシュをマスターしたぞ」と言って、それを英語だと思い込んでいるようなものです。
「勇気づけ」ということを学ぶと、「あなたは私を勇気づけるべきだ」とか「あなたは私の勇気をくじくべきでない」とか主張する人がいます。これが第1段階のアドラー心理学の誤用です。正しくは、「勇気づけ」というのは、「私はあなたを勇気づけよう」とか「私はあなたの勇気をくじかないでおこう」という決心のことなのです。
また、例えば、「横の関係」ということを学ぶと、「あなたは私を支配すべきでない」とか「あなたは私に依存すべきでない」とか「あなたは私に協力すべきだ」と主張する人がいます。これも第1段階の誤用です。正しくは、「横の関係」というのは、「私はあなたを支配しないでおこう」とか「私はあなたに依存しないでおこう」とか「私はあなたに協力しよう」という決心のことなのです。
アドラー心理学を学んで、「あなたは~すべきだ」と言うのはいけないと頭では理解しても、身体はなかなかそうは動いてくれません。そこで、変えにくい身体はそのままにして、変えやすい言い方だけがとても巧妙になります。
例えば、「どうか私の勇気をくじかないでくださいませんか?」と『お願い』してみたり、「私はあなたに勇気をくじかれました」と『I-メッセージ』を使ってみたり、「素敵な勇気づけをありがとう」と『適切な行動に注目』してみたり、「ひょっとして、あなたの行動の目的は私の勇気をくじくことでしょうか?」と「正対」してみたりします。しかし、これらの行為が、「あなたは私を勇気づけるべきだ」という目的に向って使われている限り、結局は「あなたは私を勇気づけるべきだ」というメッセージと同じことでしかありません。しかも、言い方が工夫されただけ、いっそうタチが悪くなっています。これが第2段階の誤用です。
>文脈は文法
文脈というのは、英語の文法に当たるようなものです。ある人のコミュニケーションの文脈は、メタ言語の単語システムを使えば評価できます。
つまり、「横の関係」とか「勇気づけ」とか「責任」のような単語群で記述できるような文脈がアドラー心理学によるコミュニケーションの特徴であり、「支配」とか「依存」とか「自己嫌悪」とかの単語群で記述できる文脈が、従来の文化にもとづくコミュニケーション・システムです。
個人が信念体系として持っている個人的文化(つまりライフスタイル)が、その人が作り出すコミュニケーション(つまり文章の文脈)を作ります。
文化が鋳型で、文脈が鋳物です。文化と文脈とは、同じ形をしているので、文脈がメタ言語の単語群で記述できるということは、文化もメタ言語の単語群でもって記述できるということです。
│ アドラー心理学文化│伝統的な権威主義文化│
│ 横の関係│縦の関係|
│ 勇気づけ│過保護/放任│
│ 自己受容│自己嫌悪│
│ 世界への信頼│世界への疑惑│
文化についても、「横の関係、勇気づけ、自己受容、世界への信頼などで作られる信念のシステム全体」に注目して議論していかないといけません。
>パラダイム・シフト
そうすると、アドラー心理学を学ぶということは、従来の文化の文法システムを捨てて、アドラー心理学の文法システムに乗り換えるということになります。つまり、パラダイム・シフトです。スピリチュアルな言い方だと「回心」です。
「パラダイム」は一般には、「思考の枠組み」「ものの見方」のことを言います。
トーマス・クーン著『科学革命の構造』では、パラダイムというのは、「互いに共約不可能な解釈体系」のことです。
「共約可能」というのは、違う言葉で書かれている(解釈されている)ものが、実は同じ「構造」をしていることを言います。例えば、量子力学のシュレディンガーの方程式とハイゼンベルグのマトリックス力学は、同じことを違う数式で書いたものだそうで、だとすると共約可能です。アドラー心理学のある部分と交流分析のある部分が共約可能だと主張している論文もありますので、心理学でもそういうことはあるかもしれません。
権力闘争とゲーム、勇気づけとストローク、ライフスタイルと人生脚本、代替案、再決断……
「共約不可能」というのは、「構造が違う」ということです。天動説と地動説のように。アドラー心理学とフロイトの心理学は共約不可能ですので、相互にパラダイムです。
>学んでも身につかない人
アドラー心理学を学んでも身につかない人の特徴がいくつかあります。
学び始めた初期に、「私は今まで間違った生き方をしていた」と反省する人はアドラー心理学が身につく可能性が高いです。
「アドラー心理学を学んで、今まで私が考えていたことが正しいことがわかりました」という人はアドラー心理学が身につきません。
なぜなら、アドラー心理学は伝統的な文化に対するカウンターカルチャー(対抗文化)であり、伝統文化とは決して折り合えない部分を持っているので、それを学ぶためには、伝統文化によって育まれた信念体系、ライフスタイルを自己批判し、脱ぎ捨てる過程がどうしても必要になるからです。脱育児、脱教育、脱洗脳です。
>「勇気づけ」は「勇気づける」から派生
「勇気づけ」という言葉は、本来は「勇気づける」という動詞から派生した抽象名詞です。
「勇気づける」という動詞は「~するように勇気づける (encourage to do~)」という形で使いますが、「~」に入れることができるものとできないものとがあります。
例えば、共同体にとって利益になる「人を助けるように勇気づける」というのは可能ですが、共同体にとって有害な「殺人するように勇気づける」などというのは不可能です。
つまり、勇気づけとは、「共同体に貢献する行動を選択するように援助すること」を意味します。これが勇気づけの辞書的定義です。
>PLEASE
では、共同体に貢献する行動とはどんなものか。PLEASEという語呂合わせで次のような特質をまとめました。
Positive Purpose 肯定的目標
Logical Language 論理的言語
Effective Effort 効果的努力
Alternative Actions 代替案
Self Support 自助
Ecological Evolution 生態学的変革(人間は孤立できない、世界に組み込まれている)
勇気づける場合にも、最終的に達成されるべき目標が意識されていなければなりません。人間は、ときどき、目標のほうではなくて手段のほうだけを意識します。例えば、「ダイエットしよう」というのは手段で、ダイエットして痩せた先に何があるのかを明確に意識しないと、ある場合にはダイエットに失敗し、ある場合には拒食症になって骨と皮だけになってしまいます。学校の勉強もそうです。「1日に6時間勉強しよう」というのは手段です。その目的は何なんでしょう。「○○大学に入ろう」もまだ手段です。大学自体が人生の手段ですから。
明確にイメージできる目標が意識されていること。その目標は、現実的に達成可能であり、また達成できたことがちゃんとわかるようなものであること。
このことは、アドレリアン・カウンセリングでは「目標の設定」と言われますが、カウンセリング以外の場合でも、このような現実的・具体的な目標を掲げ、それについて当事者間で一致できていることが、効果的な勇気づけの基礎工事になります。
>目標の形式
さて、目標が意識されていても、それが「~はやめよう」という否定文の形をしていると、意欲を沸き立たせません。例えば学校で「遅刻をやめよう」とか「服装違反をやめよう」というキャンペーンを張ってもあまり勇気づけにならないし、家庭で「きょうだい喧嘩をやめよう」とか「無駄使いをやめよう」と躾けてもあまり効果がないでしょう。個人的にも「タバコをやめよう」とか「朝寝坊をやめよう」とかいうのはなかなか達成できません。
目標は、「~しよう」という肯定文の形をしているほうが、はるかに効果的です。例えば、「遅刻はやめよう」の代わりに「時間までに登校しよう」と、形だけを肯定文に変えただけでも、いくらかマシです。しかし形式だけの変換では、まだ否定文の気分が漂っています。
もう1つ工夫して、その目標が達成できるとワクワクするような感じにできると最高です。例えば、授業開始前に、みんなが参加したくなるようなこと、「早朝ゲーム」とか楽しい催しを工夫するとか。ワクワクするような肯定的目標さえデザインできれば成功したも同然ですし、逆に目標が否定的なままだと、いくら工夫をしても無駄かもしれません。目標を肯定的にするように、あらゆる工夫をする必要があります。
>まとめ
勇気づけのコツをまとめると、「具体的にイメージできて」「達成できたことが容易にわかり」「肯定的でワクワクするような目標を立てて」「それを当事者間で合意する」。
完