「自叙伝」目次


自叙伝07-07【定年退職】
 2002年3月に定年退職しました。退職間近の正月休みに、朝日新聞地元局のWebページに公開セミナーの案内を載せたところ、女性記者さんがわざわざ私を取材に来られました。その記事がちょうど退職の時期に、県内版に大きく載りました。

☆ 平成14年2月14日、朝日新聞岡山版から
 アドラーの理論生かし生徒指導/大森 浩 教諭
 県立岡山工業高校(岡山市北区伊福町)で生徒のカウンセリングを続けてきた大森 浩教諭(60)が今春、定年を迎える。学んだ精神医学者アドラーの理論を生かして、子どもたちを一人前の人として接することを説き、(彼が)主催する教育相談セミナーには、他校の教諭や不登校の子どもを持つ保護者ら校外の人も参加してきた。保護者らの要望で、4月からもセミナーを続けることになり、大森教諭は第2の人生に意欲を見せる。
 午前11時40分。「先生、入るよー」。昼休みが始まりしばらくしたころ、生徒たちが次々とやって来る岡山工業高校の教育相談室。生徒たちは漫画を読んだり、囲碁をしたり。45分間の休みを思い思いにくつろぐ。
 大森教諭は教育相談の担当となって15年。はじめのころ、心理学の本を読みあさって生徒たちの気持ちを知ろうとしたが、うまく相談に乗れるかどうか不安がつきまとっていた。そんなとき、出会ったのがフロイト、ユングと並ぶアドラーの心理学だった。
 「アドラーは、問題行動や症状の除去をカウンセリングの目標にしない。症状は相手を操作する道具で、対人関係が変われば症状はなくなる。不登校や乱暴する子どもたちも一人前の人間として尊敬し、信頼する。その過程で、問題行動や症状は改善する」。大森教諭は目から鱗が落ちた思いだった。
 92年に、日本アドラー心理学会認定のカウンセラーに。翌年、相談室内研修会を学校外の人にも開放し、アドラー心理学を学びたい人たちを対象にセミナーを始めた。初回は1人、今は養護教諭や不登校の子どもを持つ保護者ら30~40人が参加するようになった。
 授業の合間や放課後には、個別相談にも応じる。同校の生徒だけでなく、生徒の対応に悩む小、中学校の先生、保護者らが県外からも訪れる。大森教諭は「不登校の子どもを(今すぐ)学校に行かせるようにはできない。でも、家族が仲良く暮らせるためのアドバイスはできる。家族が仲良く暮らせるようになると、子どもが、良い環境で自分の人生の選択・決断ができる。これが解決につながる」と話す。
 セミナーは毎月第3土曜日午後2時から。今月は「カウンセリングの講義と実際」の題で、性格分析について学ぶ。「続けてほしい」と願う参加者4人が発起人となり、4月以降は同市北区伊島町3丁目の県生涯学習センターに場所を移して続ける。
 「もっと心理学に没頭し、勉強できることを楽しみにしているんです。公民館などで育児相談や講演ができないかな」。心は束の間、定年後の生活へ飛んでいった。

 退職前に教育委員会による手続の説明会が何度かありました。特に共済年金をもらう手続きが複雑でした。在職中の事務関係の用務はほとんど事務室がやってくださっていたので、ほんとに煩わしい手続ばかりでした。説明会での担当職員から、「これからは事務室は何もしてくれませんよ。自分ですべてやるんですよ」と念を押されました。そして、たくさんの資料や書類を持ち帰って、必要書類を市役所などへもらいに行って、コツコツと手続きを進めていきました。
 退職金は「おー!!」と驚くほどもらえました。亡き母がよく言っていました。「うちには財産も何もない。学校だけは出してあげるから、あとは実力で就職できて退職後の恩給(今は年金)がしっかりしている教員がいいよ」と。今さらながら母の先見の明に感謝しました。マイホーム購入に預貯金を使い果たしていたので、この退職金はありがたかったです。借金はなかったので、おかげで少々の蓄えができました。
 こうして、無事に38年間勤めて、2002年3月末をもってめでたく定年退職しました。もっと動揺するかと思いましたが、案外淡々と経過していきました。ただ、生徒たちとの別れはつらかったです。当時、コミック本「GTOグレイト・ティーチャー・オニヅカ」が大人気で、私も「ゲンキなティーチャー・オオモリ」を略してGTOを自称したりして、けっこう人気者だったのか、たくさんの生徒が携帯のメールアドレスを教えてくれました。
 母が生きていたら、これからはしっかり親孝行ができたのに、残念です。親孝行な人は、親の介護のために早期退職することもあるのに、うちの親は“子ども孝行”でした。井原市に“嫁いらず観音”というのがあって、「年老いて嫁の世話にならなくていい」というご利益があります。母も井原在住中にそこへお参りしていました。おかげで嫁さんばかりか息子にもほとんど手間をかけさせないで大往生を遂げました。
 4月中には部署ごとの送別会があり、5月の連休のころになってやっと、朝の出勤がない生活のありがたさを実感しました。職場で使っていたワープロ「文豪ミニ」を持ち帰って、2階の書斎に置きました。98年にwindows98を買ってからは、職場のワープロで作成した文書をDos形式でフロッピーに保存して自宅に持ち帰り、仕事の続きをしていました。退職してからは2階が職場です。ところが、車で持ち帰るとき、梱包しないでうっかり床に置いていたため、振動でフロッピードライブが壊れたようです。ロードはできるのにセーブができない。仕方なく中古のパソコンショップで6万円ほどのノートパソコンを買い求め、ワープロは暇をやりました。以来、わが家では2台のパソコンが活躍します。講演原稿を入力・編集するのには2階のオフラインのパソコンを使い、プリントアウトやメール、インターネットは1階のを使うという具合に。その後、Wi-Fiを設置して、家中どこでもオンラインになりました。
 ともにアドラー心理学を学んでいた児玉先生は、備前緑陽高校に転勤になりました。これまた不思議なご縁で、私が岡山工業へ来る前に勤めていた学校です。当時はただ「備前高校」という名でしたが、私が転勤するころ分離して新設された「備前東高校」が廃校になり、もとの備前高校に併合されて「備前緑陽高校」となりました。そこへ転勤され、しかもボート部の顧問になられました。