自叙伝07-06
【パソコン生活に入る】
1998年も印象深い年となりました。アドラー心理学会総会の会場は名古屋でありました。児玉先生とご一緒に総会に参加したのはこれが初めてです。合宿形式のため児玉先生は合宿に参加され、総会の会場に他の参加者とともに宿泊されました。私は名古屋駅のそばにホテルをとって、会場までは中央線の電車で通いました。高蔵寺の次の駅「定光寺」で下車(所要時間30分くらい)すると、そこは渓谷で、しばらく歩いて丘の上の会場に着きます。折しも九州の南を台風が北上中で、総会の期間中、雨が降り続きます。
アメリカからの招聘講師はジェーン・ネルセンさんというおば様で、この方は心理学のテストのために子どもを8人も作ったと(冗談をおっしゃいます。末っ子さんのエピソードが有名です。野田先生がどこかに書かれていましたが、8歳のお嬢さんのお話です。ネルセン家では家族会議で、「すべての子どもは8時半までに着替えをして朝食をすませること」というルールが決まりました。1週間は全員合格でした。ところが1週間+1日後に末っ子が8時2分に寝間着姿で食堂に現れました。ジェーン先生は、「あら、もう朝ご飯は終わりよ」と言いました。末っ子は「イヤだ」と言って、棚の高いところにあるスープか何か入ったお鍋を椅子に上がって取ります。先生は「駄目ですよ」とやさしくお鍋を元に戻します。末っ子はまた椅子に上がってお鍋を下ろします。先生は「駄目です」とやさしく戻す。これを45分繰り返しました。末っ子はとうとう諦めて、泣きながら朝食を食べないで学校へ行きました。それからまた1週間は全員合格でしたが、また1週間+1日目にその末っ子が8時2分に食堂へ来ました。先生は「朝ご飯は終わりました」とやさしく答えて、「あー、また45分か」と溜息をつきました。末っ子はお母さんの顔をじーっと見て、「この親は本気だ」と悟りました。
子どもは小さくても性根はしっかりしています。親を試すんです。学校でも新入生が教師を試すようなことはよくありましたし、私のように途中からアドラー心理学を学んで方針を変えたりすると、生徒は徹底的に教師を試してきます。初めのうちはつい乗ってしまって、1本やられることがたびたびありました。
この会で野田先生は、関西と関東でアドラー心理学理解の差ができたのは、アドラーネットによる論戦に関西地区の多くの人が参加して切磋琢磨したからだとおっしゃっていました。
アドラー心理学の技法の1つに「論理的結末」というのがあります。どんなのかというと、子どもが不適切な行動をしたときは叱らないで、今度同じようなことがあったらどうするかを冷静に話し合います。5歳以上から小学生の子どもに適用できます。それ以下だと、理屈がわからないから通用しません。中学生になると、これだけで子どもは親から挑戦を受けたととって反発されます。形式が2つあります。1つは「あなたがAをすればBになります」。もう1つは「あなたがAをすれば私はBをします」。どちらも親子で十分冷静に話し合って、双方がその結果を納得していれば実行可能です。
ところが特に後者が誤用=悪用(?)されたようです。手続きをきちんと踏まないで、「約束でしょ。こうしますよ」と論理的結末を実行することが即、罰になってしまったのです。招聘講師のネルセン先生も、その危険性を強く感じられていて、「もはや論理的結末を使う必要はない」と断言されました。ではどうするか。解決について冷静に話し合えばいいのです。それまで3つの結末を扱っていましたが、これ以後は「自然の結末」と「社会的結末」の2つでいけるようになりました。
論理的結末はそもそもカウンセリングで用いられる技法です。カウンセリングでは今でも使われています。現在の行動の将来における結末を予測して、それが望ましくない結末を迎えそうなとき、クライエントに態度決定を迫る「正対」という技法は論理的結末です。
アドラーネットを利用するかしないかで、関東と関西のレベルの差が出たとすれば、私も「いよいよワープロ通信(当時はまだワープロにモデムを付ければ通信ができた)を始めにゃいかん」と思い、高橋さと子さんや岸見先生に相談してみました。さと子さんはワープロ・文豪ミニにモデムを付けて使われていて、簡単にできると教えてくださいました。岸見先生は、びしっと、「いっそパソコンにしたらどう?」とおっしゃいました。
総会最終日には台風がどんどん北上してきて、休憩時間のたびに大分の木村欣一郎先生とホールのテレビを見てハラハラしていました。岡山あたりを通過しそうだとわかって、午後の日程が終了する少し前に、児玉先生と早退して名古屋駅へ向かいました。名古屋駅の地下街で一杯飲んで夕食をすませて新幹線に乗りました。岡山に着くと雨風がさらに激しくなっていました。帰宅してお風呂に入っているころ、わが家(岡山市中区)のあたりは風雨が最もひどかったです。それでも家がしっかりしているので安心して眠ることができました。西大寺の借家ではこうはいかなかったはずです。隙間風風は入るし、窓や戸はガタガタ揺れるし、屋根瓦は飛びそうでしたから。翌朝ニュースを見てびっくり。台風は岡山県東部を直撃し北上したそうです。ちょうどお風呂に入っているあのでした。津山の近くの吉井川に仔牛が流されて海まで漂流して助けられたそうです。この仔牛は一躍有名人(有名牛)になり“元気君”と名づけられました。
台風騒動が落ち着いたら、いよいよパソコンです。ちょうどwindows98が出た年で、まことにグッドタイミングでしたが、それでもしばらく迷い続けて、ついに年末押し迫って、馴染みの電気屋さんに注文しました。わが家にパソコン到来です。
アドラーネットは、当時まだホームページでの利用よりも「ニフティーマネージャー」というソフトのほうがよく使われていて、そのソフトは野田先生が貸してくださったのをインストールして使いました。その後はこのソフトは役目をWebに引き継いで使われなくなりました。アドラーネットにアクセスすると、このころ世の中はまだ安全で、全会員の名簿が載っていました。M先生はすでに登録されていてびっくりしました。「はや!」。彼女はすでに私を離れてどんどん先へ進まれていたのです。
こののパソコンを2007年7月まで使いました。元は十分取りました。その後、入力専用のセカンドパソコンとして中古品を2回買い換えるうち、しだいに欲が出て、2007年秋には、セカンド機もvista搭載の新品に買い替えました。その後またwindows7に換え、その機械はほぼ新品の状態で児玉先生に譲ってあげました。彼の自宅パソコンがウイルスにやられて、職場のでしか使えない状態だと聞いたので、彼の自宅とも交信したいのから、使っていただくようお願いしました。彼は快く私の申し出に応じてくださいました。「大森のものは児玉のもの」現象がここから始まりました。
外部からの講演依頼も途切れることなく続いていました。ピーク時には、同じ日の昼夜で、別の会場へ行くこともありました。午前中は授業をして、午後に県中央部の金川小学校で講演して、終わると新幹線で夜は福山市で講演という具合です。広島県の福山市の隣町・沼隈町の中学校では、11~2月と4か月連続の保護者向け講演会が企画されました。福山駅へ着くと、教頭の倉橋先生が車で迎えに来てくださっている。会場に着くと、その町の仕事を終えた保護者の方々が参集されいて、夜7時から9時まで講演を聞いてくださいました。終わると今度は別の若い先生が車で福山駅へ送ってくださいました。
尾道の小学校の職員研修には2年連続で呼ばれました。そこは伝統の古い学校で、林芙美子の住んでいた家が隣にありました。倉橋先生が尾道へ転勤されると、今度はそこの中学校で2年ほど続けて職員研修に招かれました。
退職する直前の2年間は勤務校の様子が少し変わりました。校長さんはそれまで同様に心理学にとても理解がありましたが、赤穂浪士の一人・大高源五と同姓の教頭が児玉先生と私の存在にまったく無理解でした。その教頭はいわゆる出世欲の塊=“ヒラメ”教師のようで、何ごともすべて県にお伺いを立てて動く人でした。カウンセリングなら県の教育センターでないといけないと信じきっています。そのため、私たちの相談室完全に無視されました。これまでは校長も教頭も児玉先生と私を高く評価してくださいました。この教頭は、それまでだと相談室へ依頼していたケースもすべて県の教育センターへ回されました。ただ、他の先生方は従来どおり相談室を信頼してくれて、私たちの仕事がなくなることはありませんでした。