自叙伝07-05【タレント並みの講師】
マイホーム生活がスタートした春、NHKの朝ドラの名作『ふたりっ子』が終盤を迎えていました。通天閣の歌姫オーロラ輝子が肝臓ガンで亡くなり、双子の姉・麗子に真美(まみ)&麗美(れみ)の双子ができていて、女流棋士の香子(きょうこ)がその地位を確固たるものにしていくくだりが放送中でした。
講演活動は、「アップルリーダー講習会」でご一緒した方の紹介で、西日本放送サービス会社が経営する学習塾主催の講演会に招かれました。塾の先生方が対象です。さすが企業でギャラが半端じゃない。しかも、会場までの移動や食事とかすべて社員の方が付きっきりでマネージしてくれます。私は車に乗せてもらって、1日に2講演をします。倉敷会場を終えるとそのまま車で津山会場へ移動して、また講演です。終わると自宅まで送り届けてもらう。翌日は岡山会場ということで、タレントさん並みです。
同じ企画が翌年は、小豆島会場と高松会場で、さらにその翌年は倉敷会場と四国は観音寺会場という具合に、瀬戸内エリアを行ったり来たりしました。この仕事は3年続きましたが、景気の後退のためか、4年目で依頼がなくなりました。そういえば、高松会場のときは岡工講座で常連の石村先生が見えました。会場の香川県民ホール大ホールでは有名なロックバンドのコンサートがあって、駐車場が満杯で、そのために車が置けないために、私たちの講演を断念した人が続出しました。この時期がは講演活動が最も充実していました。
【教育相談室長に】
本業のほうは、1997年度に私が教育相談室長になりました。どちらかというと、私は「長」を好まなくてカウンセラーとしての職人仕事が好きでした。できれば室長は避けたかったです。同室に同い年の、カウンセリングは一切しないけれど事務仕事は抜群の力量を発揮される同僚・Y先生がいらっしゃいました。その方がなればいいと願っていたら、ある日校長室に呼ばれました。校長は、「相談室のお2人が互いに室長を推薦し合っている」とおっしゃる。私は強く同僚を推薦しました。校長に「どうしてもあなたにしてもらいたい」と言われて、やむをえず引き受けました。それから退職までの5年間、相談室長を務めることになりました。
蓮昌寺のオープンカウンセリングの見学は続けていましたが、その後しばらくして、クライエントが減少し、見学者ばかりになっため、野田先生が「岡山の悩みは消滅した」と宣言されて、その幕を閉じることになりました。
前年にKぼんさんが日本カウンセリング学会で発表されたのに刺激されて、私もトライしました。まず野田先生に伺いを立てて、それからアドラーギルドの事例検討会でご指導いただきました。この件でも、野田先生をはじめ参加の方々から手取足取りのアドバイスをいただきました。発表台本に指導者として野田先生のお名前を出したためか、先生は微に入り細にわたり発表の仕方や発表内容のまとめ方を丁寧に教えてくださいました。「発表時間は10分で、あと5分の質疑応答です」と言うと、「この形式の発表は、原稿用紙に時間ちょうどで読める文章を書いて、ただそれを読めばいい。國分先生にどうぞよろしくお伝えください」とおっしゃいました。國分先生編集の『カウンセリング辞典』のアドラーの部分を野田先生が執筆されました。当時の私はまだ、日本カウンセリング学会の認定カウンセラーにもなろうという野心もあって、発表はそのためのポイント稼ぎでもありました。
初めての学会発表です。会場は、東京五反田の立正大学でした。ライフスタイル分析を含む生徒指導カウンセリングの整理して、「解決構成スタイルのカウンセリング」という演題にしました。グループでは私が最年長だったためか座長になっていました。アドラー心理学をやる前の自分だったら、きっと辞退していましたが、「状況が自分を必要としている」のですから快く引き受けました。発表のときには、Kぼんさんをはじめ日本カウンセリングアカデミーで学んだお仲間が何人か聞きに来てくださいました。アドラー心理学にもとづくカウンセリングでも、聴衆には大したインパクトはないようで、張り切って臨んで肩すかしを食らった気分でした。回転寿司が廻るように次々に発表が流れていく1コマに過ぎなかったです。私はアドラー心理学に出会って即ファンになりましたが、一般には魅力がないのでしょうか、私の伝えた内容が魅力的でなかったのでしょうか、それはわかりません。それでも、リハーサルをしっかりしたおかげで、本番発表は本当に時間ぴったりで読み上げることができました。その後、アドラーギルドで野田先生がKぼんさんにたずねたそうです。「どうでした?」。Kぼん「時間ぴったりでした」。
今もわからないままですが、私の発表した座(グループ)は「カウンセリング・マインド」でした。意味がわかりません。このKぼんさんは、大学を卒業されてから、福岡で本業の僧職に就かれました。その後長らく年賀状のやりとりをしています。今は途絶えています。
1997年のアドラー心理学会総会は、10月に東京・早稲田大学でありました。ヒューマンギルドの岩井俊憲さんと坂本洲子さんが参加されたのは、この学会が最後だったと記憶しています。『SMILE』の運営をめぐるアドラー心理学誤用論争のあと、ヒューマンギルドが敗退(?)してアドラー心理学会から離れていきました。
この時期の最大の話題は、アドラー心理学の誤用問題です。「誤解」というのは理論をよくわかっていないこと、「誤用」というのはアドラー心理学の思想に反すること、つまり、自分の私利私欲、支配欲のためにアドラー心理学を用いて他人を操作することです。これを防ぐには、自己点検が不可欠です。「自分は誤用していないか?」と。「あの人は誤用している!」と他人を裁くのではありません。思想は自分の行動を制御するために、そうして共同体感覚を生きるためにあるのです。ここで私は『論語』にある曾子(孔子の弟子)の言葉を思い出します。
曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省みる。人のためにはかりて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか。
吉川幸次郎先生の訳を引用すると、「私は毎日三つの事柄について、私自身を反省する。人の相談に乗ってやりながら、あるいは、単に相談に乗るばかりでなく、その人のために行動しながら、忠実さを欠いていることはないか。友だちとの交流に、信義を欠いていることはないか。よくのみ込んでいない事柄を相手に教えているということはないか。(中国古典選3「論語 上」、吉川幸次郎監修、朝日新聞社)
この年には資格認定のルールが改定されました。これまでに取得していたカウンセラー資格は2000年末で失われ、新規に取得しなけらばならないことになりました。私が92年に受験したときは学科試験だけでした。現在は厳しい実習があります。落ちたらどうしようと不安になりました。自分は学校で生徒たちにしょっちゅう試験をしているのに。休憩時間に野田先生に、「試験に落ちたらみじめですね」と言いました。「いや、お愛嬌でしょう」と野田先生に返り討ちに遭いました。
ところが、学会終了後しばらくしてアドラーギルドへ行くと、野田先生が、「あなたの資格取得は94年になっていますから、再受験の必要はないです」とおっしゃいました。94年と95年に再受講していたおかげです。やれやれ一安心です。