自叙伝07-04【出張講演始まる】
1996年6月に、児玉先生から講演依頼が来ました。これが私の出張講演デビューです。彼の住む市南部の小学校の親御さんの研修会です。児玉先生の奥様が世話役です。リクエストにより、「親の役割」というテーマでお話しました。子どもの人格形成に果たす親の役割の2つ。家族価値(躾)と家族雰囲気(モデル)のお話です。小学生の親御さんたちが熱心に話を聴いてくださり、講演のあとは、近所の「お食事処」で参加者さんたちとお昼をいただきました。
続いて、私の出身中学・丸之内中学校の職員研修に招かれました。まさか自分の出身校へ講師で行くとは思ってもいませんでした。この中学校はその後すぐに閉校になり、県立図書館になりました。同校の養護教諭・菅内先生のご紹介です。この方は、岡山工業高校公開講座の常連さんでした。
この中学校は県庁の真ん前にあり、市中心部の空洞化によって翌年には閉校になりました。私が中学生のころには、1学年9クラスもあるマンモス校でした。
夏休み中に、日本カウンセリング学会が名古屋大学でありました。前の年にアドラーギルドのカウンセラー養成講座で仲良しになった「ぼんさん」が発表する分科会に出ました。ぼんさんは博多のお寺の跡取りですが、横浜国立大学で心理学を学ばれていました。この人は俳優にしたいようなイケメンで、実際にもプレイボーイで、児玉先生と私しか知らない秘話があります(笑)。このときの発表はアドラー心理学ではなくて、國分先生版「グループエンカウンター」の効果をアンケートでまとめたものでした。この発表に刺激されて、私も翌年の東京大会(立正大学)で発表することにしました。
9月に津山東高校の職員研修に招かれました。岡工講座参加者の新免さん(宮本武蔵の親戚??)のお世話です。午前中に授業を済ませてマイカーで津山へ向かいました。この当時の愛車は1200ccのカローラで乗り心地はさほど悪くはありませんでした。私は車での津山往復はこのとき1回限りですが、児玉先生はその後、通勤でほぼ毎日往復されることになります。津山東高校は、津山駅より東寄りで、小高い丘の上にありました。職員研修というのに、参加者は全員ではなくて、肩すかしをくった感じでした。出張の方は仕方ないとしても、きちんと休暇を取る人や、あるいは校内にいて研修会に参加しない先生もいたようです。岡工でもそうでした。児玉先生と私で企画して職員研修に中島弘徳さんをお呼びしたときは、校長に働きかけて、職員研修は職員会議と同じことで、出張と休暇以外の先生は全員参加してほしいとお願いしました。効あってその会に先立って校長から全職員におふれがありました。岡工での研修会はそれ以後、全職員参加が定着しました。津山東高校では、90分ほどの講演のあと、有志の先生が残られて、談話会を行いました。その先生方の中に、私が高梁工業高校へ転勤したとき、私と入れ替わりに転出された杉山先生がいらっしゃいました。この先生と私は直接お話したことはありませんが、高梁工業の先生方から、よく私のことを杉山先生に似ていると言われていて、内心親しみを覚えていましたが、このときはお話はしませんでした。高梁工業にいたことも黙っていました。
96年9月7日の岡山工業高校公開講座は、「船上セミナー」という珍しい企画をしました。開講当時から香川の石村先生(当時、私立藤井学園の数学教師)という男性の高校教師が見えていましたが、その方の発案で、元・宇高連絡船で観光船に変身していた讃岐丸のお別れパーティーに便乗しました。お勉強の代わりに、参加者全員マリンライナーで高松へ向かい、讃岐丸に乗り込みました。阪神地区から神戸の松田喜美子さんと尼崎の上原由起子さんです。これがご縁となって、そのあと松田さんの企画によって明石で3回ほど講演させていただきました。船上セミナーの会費は3800円で、飲み放題・食べ放題です。夜の瀬戸内海を高松港から女木島を巡りながらのご馳走とおしゃべりです。このとき私は、瀬戸大橋線沿線のマンションに住んでいたので、深夜の帰宅がとても楽でした。
【相談室の状況】
教育相談室はますます盛況です。朝の始業前、授業の間の10分の休憩時間、昼休み、放課後と、どの時間帯にも生徒があふれています。特に昼休みは足の踏み場もない状態でした。何組も碁盤を出しては、昼休みを最大限に活用して勝負を挑んでいます。教師たちも相手役を所望されるので、ご飯を食べる時間をやりくりして相手を務めます。それにしても、生徒たちの成長の早いこと早いこと。私はどんどん追い抜かれますが、それも心地良いです。私はもっぱら初心者担当で、初歩を教えるのが得意になりました。1つ授業が終わると、元気な生徒は相談室へスライディングで突入して来ます。昼休みにはほぼ1クラス分くらいの生徒が来ているでしょうか。ここでミニホームルームを開いて、体育祭や文化祭の相談をするクラスもあります。
ニコニコと対応している私を見て、久しぶりに訪れた卒業生たちがびっくりします。「えっ?これがあの大森先生???」。強面(こわもて)時代の私を知っている人には、穏やかな表情の私が信じられないのでしょうか。このころは、「私のスマイルにウラがある」と思う人はいなくなっていました。一応、心底から穏やかな人柄に変貌したかのようでありました。
【マンションから一戸建てへ】
1996年2月からマンション暮らしをしていましたが、上の階の物音が気になっていました。ひと月くらいすると真上の階が空室になり、音がまったくなくなりました。それから9月まで、都心部にもかかわらず静かな環境での暮らしを満喫できました。職場へは車で7分、自転車で15分、徒歩でも35分の距離です。
お盆に、妹と姪が帰省して3泊しました。彼女たちは明石でマンション暮らしですから慣れたものです。姪は20歳前の娘で、夜一緒など、母親がいるとはいえ、風呂上がりに裸でくつろげないし、うっかりおならもできない。そのため、寝るだけのために近所のビジネスホテルをとりました。夕食から就寝時刻までは一緒にいて、「じゃあお休み」と、自転車で5分ほど自転車をこいでホテルに行きます。翌朝、「お早う」と帰り、朝食です。ちょうど、台風が瀬戸内海を西から東へ横断して、外は結構強風が吹いていましたが、さすがマンションは気密構造で、室内はとても穏やかでした。西大寺当時の借家は木造で、しかも木枠の窓は隙間だらけ、台風のときなどは今にも吹き飛びそうで、それはそれは大変でした。それを思うと、ここは極楽です。
ところが………、9月のある日曜日の午後、リビングで音楽を楽しんでいると、いきなり上の階でドンドンドンと大きな音がしたかと思うと、人が出たり入ったり。エレベータのところまで様子を見に行くと、引っ越しの荷物搬入で完全に占拠されていて、利用できない。自分が越してきたときもそうだったことを思い出して、機嫌を直して階段を使いました。搬入が一段落するまで相当長い間、ドンドンバタバタガタガタやっていたのが、夜には落ち着いたかに思えました。
悲劇はその翌日から始まります。上の階の新しい住人は、若い夫婦と4,5歳くらいの男の子の3人家族です。挨拶には来ませんでした。私は、上下と両隣の部屋には粗品を持って挨拶に行ったのに。
それからというもの、男の子が走り回るたびに振動が伝わる。夫婦の仕事は夕方から深夜までのようで、ちょうど私が寝入ったころに帰宅します。熟睡していると、突然ガタゴト物音がして目が覚める。聴覚型にはこういうとき不便です。トイレの水を流す音も、水道の蛇口の開け閉めで軋む音もはっきり聞こえます。しかも床を歩くたびに天井が揺れる。バブル時代に造られて雑にできていることが判明しました。こういうことなら9階にしておけばよかった。神経質な私は、それからあとは眠れない夜が続き、悶々と朝を迎えます。
思い切って、「何とかならないか」と、管理人にお願いに行くことにしました。管理人は同じジムでトレーニングしています。そして、このマンションの8階に住んでいます。「上の階の物音が激しいので、深夜だけでも静かにしてほしい」とお願いすると、管理人は、「うちも上がやかましいです」と答えて、それだけで、何も対応してくれません。このときはじめて、「大変なところへ来た」と後悔しました。
それからはありとあらゆる工夫をしました。アドラーギルドでたびたび体験した瞑想にヒントを得て、ヒーリング・ミュージックを枕元で流して寝ました。音楽がかかっている間は眠れますが、カセットが止まるときの「ガシャっ」という音で目が覚めます。次は、薬局で黄色のスポンジみたいな耳栓を買ってきてそれを詰めて寝ました。これはよく効きました。物音全体がずいぶん遠のいて安眠確保です。それでも耳に物が詰まっているのは不快で、いよいよ引っ越しを検討し始めました。
まずは、同じタイプの3LDKのマンション探しです。いくつか当たってみましたが、単身者用のはどこも狭い。相談室に来る生徒たちに相談すると、次々にパンフレットを持ってきてくれました。「せんせー、いっそ一戸建てを買えば」とアドバイスもしてくれます。そのうち、ジムで(管理人さんがいないとき)会員さんに愚痴をこぼしていると、「家を買えばいいじゃん」と言われました。ずっと借家の線で考えていたので、はじめは取り合わなかったのですが、そのうち、「中古を買ってリフォームすればいい」と、安く家が手に入る方法を教えてくださる方がいました。その方が、「うちの前が不動産屋だから頼んでみようか」と、早速不動産屋さんから何件かの物件紹介パンフレットを預かってきてくれた。おかげで、好条件の家が見つかりました。
1997年3月末にリフォーム成った今のおうちへ引っ越しできました。講座の参加者で建築家のM先生が、いろいろな面で援助してくださいました。家の下見にも同行してくださったり、資金面で苦慮しているとき、不足分をポンと無利子で貸してくださったり。その借金は、翌年、ちょうど母が残した保険が満期になって、全額一括返済できました。この家は、いわば母の遺産のおかげで手に入りました。
私の居住条件の1つは、JR駅の近くであることです。西大寺のときは、西大寺駅から徒歩1分。マンションのときは大元駅から徒歩5分。職場への通勤になるべく車を使わなくていいし、第一、あちこち移動するのに電車を利用するのが好きでしたから、これは重要な条件でした。この家は、山陽線で岡山駅から東へひと駅の「高島駅」から徒歩7~8分で、少し距離を感じますが、大都会ですとこれくらいの距離は何でもありません。その後2008年春には、岡山・高島間に「西河原就実」という駅ができて、岡山までの所要時間が2分長くなりましたが、地域に便利になることなので、むしろ喜びました。