自叙伝07-03
【児玉先生がアドラー心理学カウンセラーに】
1995年8月には、前年に続いてカウンセラー養成講座の後半を受講しました。この講座には最初から児玉先生が参加していました。私は後半4日間(8月最終週)だけの参加です。児玉先生がおっしゃるには、私が加わったとたんに講座の雰囲気が前半と比べて一変したそうです。私が参加したその日から、昼食は誘い合わせて集団で行くし、連夜、酒盛りです。中島弘徳さんは児玉先生の大学の後輩で、アドラーでは大先輩でも児玉さんには最敬礼されます(野田先生から「先輩を敬え」と言われたそうです。)。私が参加した日の初夜(?笑)は、中島さんのお勧めで難波地下街の焼鳥屋へ繰り出しました。キャベツは食べ放題です。店のウリは「タレ」で、これは各自にはなくて1つのテーブルのをみんなで使います。串ごとざぶんとつけますが、「二度づけ禁止」です。清潔さを保つためです。最高に盛り上がって、翌日の講座は全員二日酔い気味でも、お勉強はしっかりやりました。
休憩時間も児玉先生と私のまわりに何人もの人が集まって、「ああだこうだ」と講義や実習の感想や、次の実習の作戦を話し合います。ときどき野田先生が音もなく近づいて聞き耳を立てられたりしていて、みんなびっくり仰天。
児玉先生はクライエント役のとき、職場の上司に困っているという相談をしました。野田先生はホワイトボードにすらすらと、「あかんべー」とベロを出している仏様の像を描き、横に「幸せは心こもらぬ笑顔から 一日一偽善」と書かれました。そして、児玉先生に丁寧に、「出張したとき、300円ほどのものでいいからその上司にだけそっとおみやげをあげなさい」とおっしゃいました。職場へ戻った児玉先生は、以来、きちんとそれを実行して、見る見るその上司と良い関係になったという後日談があります。
このときの参加者の中には、その後もしばらくおつきあいが続いた方がいます。Kさんはお寺の跡取りで、児玉先生と私は「ぼんさん」というニックネームで呼んでいました。和歌山県新宮市から参加されたOさんとも親しくなり、以後長い間、年賀状のやりとりをしました。「管理職になった」という連絡を最後に文通が途絶えました。ぼんさんとはその後もしばらく年賀状を交わしました。お子さんにも恵まれ、改名もされて立派ごご住職になられました。児玉先生と私だけ知っているエピソードありますが、ここでは控えます。
この当時のカウンセラー試験合格率は4割という低さでしたが、さいわい児玉先生もKさんもOさんも合格でした。野田先生によれば、「児玉さんは少々強引だったけど、開いた質問を多用して、とにかく解決像をイメージしようとした点が合格要因だ」ということでした。ロジャース派の影響を受けた人だと、クライエントの話をただ聞くだけで方針が立たないまま20分の試験時間が切れて、アウトです。合格基準は、当時は、情報収集して目標の一致を見るところまで進めばOKだということでした。
2学期の始業式には、私のときのように職員朝礼で、相談室長から児玉先生の合格が校長によって披露してもらえました。これで、同じ職場に2人のアドラー心理学認定カウンセラーが存在することになりました。全国的にも珍しいことだと思います。
【自分で講演】
公開講座は93年秋のスタート以来、野田先生のテープで聞いて、そのあと談話していましたが、この年の4月からは私が自分で講演することにしました。原稿を覚えるのは大変でしたが、お芝居の台詞を覚えるように、寸暇を惜しんで、家でも車でもテープを聞いて、さらにプリントして何度も読み返し読み返しして本番に臨みました。
4月の演題は野田先生の『劣等感について』の講演を丸ごとパクりました。これは私のお気に入りの1つで、その後も定期的にアンコール講演しています。古典落語のようで、聞けば聞くほど学びが深まる魅力的な内容です。自分で語るようになるにつれて、そのうち徐々に外部から講演依頼が来るようになりました。
【夢のマンション暮らし】
1996年2月には、23年間暮らした岡山市(東区)西大寺の借家を出て、市中心部(北区)大元のマンションに引っ越しました。西大寺の家は駅前の大変便利な場所で、しかも母のお気に入りで、母は念願どおりここで生涯を終えることができました。大家さんから特に追い立てられたわけではありませんが、家自体にかなりガタが来ているし、ここに住み続ける理由もないので、母の死を機に引っ越しを決意しました。
前任校でボート部の顧問をしていたころ、体力筋力作りにウエイトトレーニングを積極的に導入しました。当時は、本格的にウエイトトレーニングをやっている高校はまだ少なかったかもしれません。日本漕艇教会主催の指導者講習会(3日間)が東京であったので、参加して実技をたっぷり学んできました。インターハイや国体で顔を合わせる顧問の先生方と何人か出会えました。島根県江津高校の土井先生とは特に親しかったので、一緒にトレーニングのお稽古ができてとても嬉しかったです。柔軟体操やストレッチなどもしっかり学んだ。帰ってさっそく実践しようにも何も設備がない。そこで苦肉の策で、まず、部室(部員の更衣室)に飛び箱を持ち込んでベンチプレス台にしました。柔道部のバーベルを借りてきて、昼休みに格技上でウエイトトレーニングをしました。柔道部の顧問の武内先生がとても親切な方で、快くバーベル類を貸してくださいました。備前高校の先生方は特に親切な方が多かったです。部員のトレーニング計画を立てるにも、朝トレはランニング、午後は出廷練習がありますから、ウエイトトレーニングの時間がない。やむをえず昼休みを返上です。昼食を手早く済ませた部員とともに顧問の私もしっかりトレーニングできました。現役時代にやっていたことも役立ちました。まるで筋肉が覚えているように、部員たちよりもむしろ私のほうがどんどんマッチョになっていきました。他の学校の監督さん、特に関西高校の監督さんが備前の部員の一冬超したときの変貌ぶりに驚いていました。それまではランニング一辺倒のトレーニングで、せいぜい鉄棒が筋トレになったくらいで、選手たちの筋力は乏しく、ハイピッチ・狭レンジ漕法になり、早くバテていました。筋力・パワーがあふれてくると、長レンジでじっくり引っ張れて、力強いローピッチ漕法に変わりました。当然、インターハイなどで好成績を上げるようになりました。個人種目では昭和51年度に柿本研三選手が中国大会、インターハイに優勝。続く国体での好成績が期待されながら、直前に台風に襲われて自宅が被害を受けて体調を崩したりして、惜しくも優勝を逃しましたが、ボート部の黄金時代を築きました。団体種目はあまりふるわなかったのが、ウエイトを本格的にやるようになってからは、団体競技「ナックルフォア」もどんどん実力を上げてきました。
そういう時期に、私は岡山工業高校へ転勤になりました。普通科が分離独立するため定員減で、どうしても異動せざるをえない。でもそこにはボート部がない。体がトレーニングを求める。何かやりたい。さいわい、学校の近くに本格的なジム(OSK)があったので、放課後独りでトレーニングしていました。そうすると、そのことを知った生徒たちが次々に「先生何をしとん?」とたずねてくる。教えてあげると、「自分もやりたい」と、土木課の生徒が2人、そのジムへ来るようになりました。岸君と荻野君です。その後、もっと岡山駅に近いところに「オリンピア」とうジムがオープンしました。そこはOSKよりも器具が揃っていて、多くの会員がそちらへ移動しました。私は半年遅れてそっと偵察に行くと、室内狭しとぎっしり並んだ最新鋭の器具に感動して、即、移動しました。それから機嫌良くオリンピアでトレーニングしていると、またまた生徒たちが次々たずねてきて、「僕もやりたい」と言う。「それならいっそ同好会を作ろう」ということになった。生徒会や校長を説得し続けて、ついに85年(昭和60年)に念願のウエイトトレーニング同好会が発足しました。オリンピアのオーナーがこれまたいい人で、当時一般会費が月8000円だったのを、団体割引で、うちの同好会員に限って月1000円にしてくれました。その後、これではジムに気の毒なので2000円に値上げしました。そのジムは、惜しいことに経営不振で2006年春に閉鎖されました。それまでは、退職後の私は単独でトレーニングを続けていました。そのジムの練習仲間に、貸しマンション会社の岡山支店長がいました。呉屋さんという方です。現在は岡山のボディービル協会の会長のはずです。その人にお願いしたら、岡山駅から瀬戸大橋線でひと駅の大元駅近くの3LDKのマンションを紹介してくれました。9階建てのこぎれいなマンションで、7階と9階(最上階)が空いていました。深く考えないで7階に即決しました。9階にしておけばよかったのですが、最上階では夏に屋上が焼けて暑いのではないかと思ったのです。この選択が失敗でした。そのマンションには96年2月から翌97年3月末まで13か月住んで、出て行きます。
マンション暮らしが始まると、聴覚型の私には上の階の音が気になりました。学校で生徒に話すと、「先生は神経質だ」とやられました。まあ我慢できる程度の音でしたから、諦めて慣れるのを待つことにしました。