自叙伝07-02
【母を送る】
1995年は5月下旬に、日本カウンセリング学会が東京・筑波大学でありました。そのころわが家では、母親(満87歳)の物忘れがひどくなっていました。「スマイル」などのアドラー心理学のワークショップで、私は対人対象を母親にしていましたが、野田先生が「実の親とアドラー心理学でつきあうのは至難の業だから、他の人に替えるように」とアドバイスをいただきました。あれほど親孝行だった(???)私が、このころは何かにつけて権力闘争していました。今思えば、母は軽度の認知症だったのでしょう。物の置き場所を忘れたり、同じ食材を毎日買い込んで冷蔵庫に詰め込んだりしていました。当時私はお刺身が好物で、ほぼ毎日のように食べさせてくれていました。あるとき「刺身はときどきでいいよ」と言いましたが、「わかった」と言いながら毎日買ってきます。それで家に帰ると、私の言葉を思い出して怒られると思ってか、あちこちに刺身をパックのまま隠していました。夕方になると、薄暗い廊下に座り込んで、人形ケースをじーっと見ています。どうしたのかたずねると、「人形が1つずつなくなっていく」と言います。私は「そんなことない!」と強く否定していました。のちになって、野田先生は「そういうときは一緒に探してあげましょう」とおっしゃいました。これは不適切な行動ではなくて自然な老化現象でした。叱って責めて追い詰めると、母はしょんぼりしています。その姿を見ると「しまった、またやった」と後悔するのですが、また同じことを繰り返していました。親に反抗するなら、もっと若くてエネルギーのあるころにしておいたほうがよかったです。
そういう状況で、カウンセリング学会に行って3日も母を独りにするのがとても気になり、出発前日に明石から妹に帰ってもらいました。妹が帰ると、母は「わざわざ呼ばなくても大丈夫なのに」と強がりながらも、それでも上機嫌でした。出発当日、私が家を出る時刻が近づくと、母は「あの子(妹)にいくらかお金を持たしてやりたいけど、いくらやろうか?」とたずねます。「このくらいでいいんじゃない」と、2,3度は穏やかに答えたのですが、いよいよ電車の時刻が迫って、玄関を出ようとしたら、まだ同じことを繰り返して聞くのでついにキレて、「もう!!!電車に遅れる」と振り切って、腹を立てて駅へ向かいました。これが母との永遠の別れになりました。
日本カウンセリング学会の会場は、筑波大学でした。つくば市かと思ったら、東京キャンパスで、地下鉄丸ノ内線「茗荷谷」が最寄り駅でした。池袋の一駅手前です。宿は池袋のサンシャイン近くの「ホテルグランドビジネス」にしました。これまでの出張中には、隔日くらいに電話を入れて母の様子を聞いていました。今回は出かけるときからずっと腹を立てていたため、最終日までとうとう1回も電話しませんでした。すでにアドラー心理学カウンセラー資格は取得していましたが、國分康隆先生にはずいぶんお世話になっていましたので、まだこの学会に籍を置いていました。この学会では、アドラー心理学に近い「認知療法」の講義やワークを選んで参加していました。
最終日の5月29日の午前中には、「現実療法」の発表を聞きました。来談者中心療法よりもましだと思ってここを選びましたが、どうも気乗りがしません。午後の行事もあったのですが、何となく意欲を失い、午前の部が終わるとすぐ、東京駅に直行、弁当を買い込んで新幹線に飛び乗りました。母には、「夜9時ごろに帰る」と伝言メモを渡していましたが、5時間ほど早く帰宅しました。呼び鈴を押しました。返事がありません。自分の鍵で玄関を開けて中に入ると、茶の間でテレビの音がしています。茶の間の真ん中に新聞が広げられていて、上に愛用の大きなルーペが乗っています。テレビは消画モードになっていて音声だけ出ています。たぶんリモコンを触っていて、誤って「消画」ボタンを押したんでしょう。隣の台所へ行くと、流し場と冷蔵庫の狭いスペースに母がうずくまるように倒れていました。腕に触れると完全に冷たい。袖のあたりになぜかご飯粒がついている。食卓にはおやつに食べたらしい好物のあんパンの袋と、飲み干したコーヒーカップがそのままあります。調理用電気コンロにヤカンがかかっていて、お湯がもう少しで煮え詰まるところでした。まだコーヒーの香りは室内に残っています。母のそばにシャモジが落ちている。わが家の台所には大小2台の冷蔵庫があって、小さいほうの上に炊飯器が乗っています。ご飯は炊きあがっています。どうやら炊きあがったご飯をシャモジで混ぜてそれを元へ戻そうとして、そのまま床に座り込むように永眠してしまったようです。いつかはこういう日が来ると覚悟はしていたものの、「来たーーーー!」と、胸はドキドキ、しばし呆然としました。とっさに、コンロはガスをやめて、電熱にしていて良かったと思いました。ベテラン女優の浦辺粂子さんが、天ぷらを揚げていて亡くなったことを知ってから、わが家ではそれまでのプロパンガスを撤去して、地下街のレストランなどで使用されている大型の渦巻きの電熱ヒーターの付いたコンロに替えていました。取り替えるときには母は、火力の調節ができないなどと言って猛反対でしたが、安全優先だと説得して、やっとのことで納得してもらいました。このことを思い出して「良かった」と一息つくと、次第に落ち着いてきました。それから、まず、わが家の真ん前にある藤田病院へ電話して事情を話して、院長先生に来てくれるようにお願いしました。続いて、近所に住む母の従姉妹の娘(私たちは「おねえちゃん」と呼んでいた)に電話して、明石の妹への連絡を頼みました。その「おねえちゃん」は、何とその日の午前中に孫2人を連れて母に会いに来ていたそうで、そのときはとても元気だったと言います。自分たちが帰る車を、玄関先でいつまでもいつまでも見送っていたそうです。車内で孫が「おばあちゃん、まだ見ているよ」と何度も言ったくらいに。それから近所にある町内会長宅へ電話連絡しました。このときの自分は、今思い出しても不思議なくらい冷静に課題をこなしていましたが、あとはもうテンヤワンヤです。
藤田病院の院長先生が見えて、治療中でないため死亡診断書を書けないということで、「こういう場合は警察に連絡する。知り合いの刑事がいるから」と、ご自分で西大寺警察署へ電話してくれました。院長先生と母は日ごろ顔見知りでした。病院はうちの前の大きな道路を挟んですぐ向かいにあります。うちの横にゴミステーションがあって、母は収集日には必ず収集後の掃除をしていました。当時はまだ当番制で片づけをするシステムになっていませんでした。回収車が去ったあとは、ほったらかしでした。院長先生は徒歩で通勤されていて、ちょうどここを通られます。いつも掃除している母を見かけては「ごくろうさん」と声をかけられたそうです。その母だと先生はすぐわかってくれました。刑事が来ると、形式的ではありましたが、私に「どこへ行っていたか」など、かなりしつこく聞きました。それから院長先生が「死体検案書」を書いてくれました。すでに死んでいるせいか、あまり詳しくも診ないで(失礼)、「心筋梗塞だな。お母さんは一瞬も苦しまずに逝かれたよ」とおっしゃいました。
一段落したころ、町内会長の奥さんが見えて、お通夜の段取りをしてくださいました。仏様の枕元へ備えるご飯は家族が炊いてはいけないとおっしゃって、お米を洗ってご飯を炊いてくださいました。そうしていると「おねえちゃん」が駆けつけてくれて、後はどんどんはかどります。
日暮れごろには妹が娘(私には姪)を連れて帰ってきました。妹は前の日に明石へ戻ったばかりです。帰りるとき、母は何度も何度も「私はもうあかんよ。今度はほんとにあかん。お兄ちゃん(私)を頼むよ」と言っていたそうです。会長の奥さんは、「お母さんにあやかりたい」と、苦しみなく一発昇天した母をうらやましがられました。うちの家系は祖母も一発昇天だったそうで、そういう血統なのでしょう。だとすると私もそうなるかもしれません。「ピンピンコロリ」がいいですね。
吉宗にある日蓮宗の檀那寺へ連絡すると、住職は北海道へツーリング中だと言います。お通夜にお経をあげてもらえないのかと困っていると、「おねえちゃん」の仲良しに創価学会の信者さんがいて、同じ法華経だからいいだろうと頼んでくれて、おかげでお経をあげてもらえました。お葬式は、町内会長さんが「市役所西大寺支所に頼むといい」と教えてくれました。葬儀社に頼むよりも格安だそうです。通夜の翌日はすでに予約が入っていて、その次の日に決定しました。そのためお通夜を2晩することになりました。
そして31日がお葬式です。学校は30日から忌引きですが、私の授業を同僚たちが交代で受け持てくれていると思うと気になります。家事のほうは妹と姪が甲斐甲斐しくこなしてくれます。妹は2歳下ですが、子どものころから私よりしっかり者です。私は母親べったりの泣き虫でした。
早期回想があります。小学校低学年のころ。学校から帰ると母がいない。妹が「お母ちゃんは踊りを教えに中学校の体育館へ行ったんよ」と言う。「そんならお母ちゃんのところへ行こう」と、妹を誘って中学校へ行きました。体育館では婦人会の人たちが、母の指導で踊りのお稽古をしていました。「博多夜船」という曲が鳴っていました。“逢いにきたかよ松原越しに、博多通いのよ、あれさ小夜舟の、灯が見える”と。私が窓から大声で「おかあちゃん!」と叫ぶと、指導していた母は赤面しながら出てき、「まあ、あんたらどうしたん。もうじき終わるから先に帰ってなさい」と言われて、安心して2人で帰った。
あとで母から聞いた話ですが、あのとき私は泣きべそをかいて鼻水をぬぐった上着の袖口がテカテカに光っていた。妹は筒袖をしてふんぞりかえっていたそうです。
母の居間を片づけていると、妹が、「お兄ちゃん、こんなところに大金があるよ」と私を呼びました。見ると、母愛用の小引き出しから新聞包みが出てきて、中に200万円くらいの札が入っていました。死期を悟った母が、葬式に困らないようにと、まとまったお金を目に付きやすいところへ置いてくれたのかもしれません。
31日のお葬式にもお住職は帰っていなくて、チェーン店?のお寺から若い住職さんが来てくれました。お香典は、職場の同僚に倣って、故人の遺志ということにして辞退しました。身内だけの密葬ですが、それでも母は近所の“名士”でしたから、庭先へはご近所の方がかなり見えていました。出棺のときはさらに増えて、大勢の方に送られました。母の人徳だと思います。この日は葬式日和(こんなのがあるのか?)なのか、火葬場は込んでいて順番待ちをして、いよいよ順番が来そうなとき、骨壺を床の間に忘れて来たことに気づきました。慌てて、一緒に来てくれていたタクシーで私が戻りました。バタバタと座敷へ駆け上がって床の間へ直行すると、留守番している親戚に人たちが目を丸くしていました。まるで「サザエさん」の世界です。無事に骨壺を持参して、お骨拾いまで滞りなく進みました。町内会長のアドバイスで、“オンボさん”への心付けをはり込んで渡しておいたおかげで、とても丁寧親切に処置してくれました。お骨を集めながら、「この仏さんは全然苦しまずに逝ったよ」と言われました。「脳の太い血管が一発で切れて亡くなっている」と、院長先生の説明よりむしろ丁寧でした。心付けの威力はすごいです。
初七日を別の日にしなくていいように、その日の午後にすませました。午後には、北海度のツーリングから帰った本店?の住職が来てくれました。読経の間、次から次へと母の思い出がよみがえりました。特に、ここ4,5年は続けて毎年のように行っていた有馬温泉の思い出です。母は記憶がだんだん怪しくなっても、有馬温泉・月光園からダイレクトメールが届くと、嬉しそうに「有馬から来とるよ」と言っていました。前の年の4月初めに行っています。このときは、浴室から客室まで帰る途中で迷って、仲居さんに付き添われて帰ってきました。それまではそんなことはまったくなかったのに。
翌6月1日、忌引き休暇3日目。妹と2人で母の残したものを片づけていると、教務課長から電話で「いつから出勤しますか?」。「何じゃ、こりゃ?親の忌引きは7日だろう。変だな」と思う。何か「早く出てこい」と催促されたよう。シャクなので、つい「明日から行きますよ!」と答えてしまった。今なら、冷静に「あと4日あるはずです」と答えて、規定どおりに休んだかもしれない。短気なライフスタイルが災いしました。さいわい妹が当分滞在して片づけを全面的に引き受けてくれたので、次の日から出勤できました。
授業に行くと、生徒たちは休む前と何も変わっていなくて安心しました。それでも、私は何かお腹の底力が抜けたようで、そんな日々がそれから何日か続きました。
6月の公開講座は予定どおり開催しました。ここも何事もなかったかのように盛り上がっていて、懇親会も予定どおりやりました。このころは毎月懇親会をやっていて、四国から見える石村先生も皆勤でした。帰りは、お酒を召し上がらない方の車で送っていただいていました。夜中に帰宅すると、母の存命中は、事前にきちんと帰宅予定時刻を知らせていました。そうしていないと、あとでうるさく小言を言われました。それがもう必要なくなりました。楽にはなったけど淋しい。その夜も、帰宅すると家の中は真っ暗で、灯りをつけて、しばらく座り込んでしまいました。小津安二郎監督の映画「秋刀魚の味」のラストシーンを思い出します。
35日の法要でお墓に納骨するはずが、そうはいかない事情ができました。お通夜のとき、もちろん、郷里の本家にも連絡して、「母が死んだので父の墓に入れたい」と言うと、私の従姉にあたる人(年齢がかなり上なので、“おばさん”と呼んでいた)が、「さあ、入るかなあ?」と、わけのわからないことを言う。これには困った。本家なんて何の力にもならない。私たち家族は長く郷里を離れて暮らしていて、彼岸と盆の墓参り以外は行き来してなかったから、疎遠にはなっていた。だからといって、当時住んでいた西大寺に今後永住するわけではない。このとき住んでいた借家は、母がとても気に入っていて、大家さんと仲良しなので、「自分はここで生涯を終えたい」と常々話していたとか。大家さんもご理解くださり、周囲の借家は建て替えなどで出て行ってもらっているおうちがあったのに、わが家にはそういう催促はまったくなかった。その母がいなくなったので、転居がにわかに私の大きな課題となりました。西大寺の市営墓地に新たにうちの墓を作るわけにもいかない。そこで、例の“ツーリング”坊さんに、お寺の墓地での永代供養をお願いした。ちょうど寺で集合墓建立の予定があるそうで、とにかく申し込んだ。完成まではお寺がお骨を預かってくれた。お寺の集合墓への納骨と、その後の永代供養料として50万円を要求されたが、大丈夫でした。母がたっぷり残してくれていましたから。私もいよいよという時期になったら、まとまったお金を妹の目につきやすいところへ置いておこうと思います。どこどこ?って、それは秘密。あるいは、児玉先生に「よろしく」と、お金を渡しておきましょう。
この年は阪神大震災からオーム真理教逮捕と大きな事件が続きましたが、わが家にとってもほんとに忘れられない年となりました。 初盆にはまだ母の記憶が生々しくて、妹や従姉と思い出話にふけりました。お盆提灯の飾り付けは妹がきれいにやってくれました。それ以後も、私は組み立て方がよくわからず、毎年妹に頼っています。たまに妹が帰省しないときは提灯を出せません。
ありがたいことに日にちが薬で、淋しさも少しずつ薄れて、お腹の底力も快復して気力が満ちてきました。忙しいのはこういうとき助かります。落ち込んでいる暇がないですから。