「自叙伝」目次


07-01
【衝撃の1995年】

1995(平成7)年は激動の年です。1月の阪神大震災、続いて、オーム真理教騒動、5月には母の逝去と不運がつづきましたが、、8月には、児玉先生がめでたくアドラー心理学カウンセラーに合格されました。10月のアドラー心理学学会総会は浜松であったため、ご当地在住の行司伸吾君とたっぷり時間をともにできました。

 正月に妹が帰省しました。例年どおりの親子水いらずのお正月を過ごして、5日の夜に明石へ帰りました。今回は私が車で送りました。母も同行しました。高速を通らないで一般道路を相生まで行くと、あとは車線が増え、立体交差にもなり進みやすかったです。山陽線大久保駅前のマンションに送り届けて、私たちも一休みして、リターンしました。妹夫婦と長男&長女が「おいしいラーメン屋があるから食べに行こう」と誘ってくれました。彼らの車に誘導されて、土山のラーメン屋に到着しました。お勧めのラーメンをみんなでいただきました。妹一家にはもう1人男の子(次男)がいますが、家を出て1人でアパートを借りています。そのためこのときは不在でした。食べ終わって、バイパスへ入る私たちを妹一家が手を振って見送ってくれた姿が目に焼き付いています。夜のことでもあり、車の流れは良く、ほぼ2時間くらいで西大寺の自宅に帰りました。帰宅してテレビを入れると、NHKのBSで、黒澤明監督の映画「蜘蛛の巣城」のラストシーンをやっていました。主人公の三船敏郎が、攻められて、全身矢を受けて果てるところでした。何か不吉なものを感じましたが、それから10日ほどは無事に過ぎて、あの1月17日(火)が来ました。
 当時の住居は、赤穂線西大寺駅前の大変便利の良い場所にありましたが、部活動などで帰宅時間が不規則になるため、だいたいマイカーで通勤していました。職場までは渋滞がなければ20分もあれば着きますが、市街地へ入る前が渋滞するため、その時刻を避けるために、なるべく早めに家を出ます。その朝も、午前5時半くらいには起きて、それからトイレにしゃがんでいました。用をすませて、立ち上がろうとした瞬間、激しい揺れにそのまま座り込みました。揺れている時間もかなり長く感じられ、「うわ、トイレでご臨終か?いや、この狭いスペースに柱が4本あってむしろ安全だ」と妙に冷静に自分に言い聞かせて、収まるのを待ちました。揺れが収まってトイレを出ると、今度はひげ剃りです。母の部屋の鏡台を使うので、部屋へ入ると、母がちょうど起きたところで、「すごい揺れじゃったなあ。柱がゆらゆらしたよ」とびっくりしていました。いつもどおり母の作った味噌汁で朝食をいただいて、車で出勤しました。途中のラジオではずっと、近畿地方で強い地震があったことを報じていました。職場にほぼ一番乗りで到着して、早速テレビを入れると、どの局も大地震のニュースです。兵庫県南部が震度7の大地震で、各地で大被害だとのこと。学校は、当然のことですが、通常どおりに授業が行われました。私の気がかりは妹の住む明石市の様子です。淡路島の真ん前だし、きっと大きな被害が…と案じられましたが、帰宅すると、母がすでに電話をしていました。大久保のマンションは、本棚の本がどさっと落ちたりして、結構大変だったようですが、家族はみんな無事だと確認していました。高校2年生の長女が修学旅行中でしたが、バスの旅だったおかげで、無事に帰ることができたそうです。明石市内にアパートを借りていた次男は焼け出された友人のためにそのアパートを譲って、親元へ帰りました。割と手狭な3LDKのマンションに家族5人全員が暮らすことになりました。大久保~西明石~垂水~須磨と東へ行くほど被害が大きく、長田の街はほぼ全焼、阪神高速の高架橋は転倒、三ノ宮の阪急やJR六甲道の高架橋は落ちて、JR芦屋駅は燃え、あちこちでビルや家屋が倒壊するという地獄絵巻がテレビで毎日報道されました。新幹線は姫路~新大阪が不通、阪神電車、阪急電車も寸断。JRは灘~住吉が不通になりました。
 それでも、強欲な私は、第2、第4金曜日の夜はアドラーギルドの事例検討会に通い続けました。一度目は、津山線の急行(当時は鳥取行きの急行があった)で津山へ出て、そこから高速バスで大阪へ向かいました。途中の宝塚あたりが大渋滞で時間を喰ったため、予定では7時までにはアドラーギルドへ到着しているはずが、実際には8時を過ぎてしまいました。隣町が大変な被害あるにもかかわらず、大阪はほとんど何事もなかったかのように、いつもどおりの光景でした。事例検討会にも何人もの参加者がありました。それでも、ケースカンファレンスはしないで、野田先生が最近あった何かのワークのビデオを見せてくれました。大阪で一泊して翌日帰りますが、まっすぐには帰れません。このときは、関空へ回って飛行機に乗り、30分のフライトで岡山空港に帰りました。。二度目のときは、加古川で加古川線に乗り換え、粟生(あお)で神戸電鉄に乗り換えて三田まで行き、JR宝塚線に乗り換えて新大阪へ向かいました。このときも、7時の開始には間に合わなくて、途中からの参加になりました。帰りは毎回飛行機というわけにはいかないので、大阪からとりあえずJRで住吉まで、住吉駅から少し北の阪急御影駅まで歩き、阪急電車で王子公園下車、そこからまたJR灘駅まで歩いて、JR線に乗り換えて姫路~相生~赤穂線というルートで帰りました。阪神間で2か所歩くところがありますが、その途中はほとんどの家屋が倒壊していました。その後復旧して、岡山から通しで大阪へ行けるようになったときの喜びは忘れられません。
 続いてオウム真理教の本部摘発と教祖一味の逮捕という大事件がありましたが、これは省略します。

 学校では、95年度に相談室のスタッフの入れ替えがありました。息子さんの相談に見えたM先生がアドラー心理学に大変興味を持たれて、講座に毎回参加されるようになり、さらには非常駐の教育相談係にまでなっていました。その彼女が強く「常駐」を希望されて、それが実現しました。ただ、増員はできないので、入れ替わりに児玉先生が押し出されて、彼は購買へ配置換えです。彼女は何事にも積極的で、いろいろな雑務もテキパキこなされました。ところが、それが次第に私との衝突を招くようになります。例えば、私が「これはしなくていいですよ」と言うと、かえって無気になってやってしまう。私は、早朝の来室者に備えて、毎朝早めに出勤して掃除機をかけていました。ある朝、私が出勤すると、すでに彼女が来ていて掃除機をかけていました。私も私です。負けじとばかりにもっと早く出勤して、自分が掃除機をかけます。今度は彼女がもっと早く出勤します。こういう悪循環が泥沼化して、さすがに馬鹿馬鹿しさに気づいて、私のほうが朝の掃除を放棄しました。掃除だからホウキです。今思えば、冷静に話し合って仲良く交代で担当するとかすればよかったのですが、アドラー心理学をやってはいても、競合的なライフスタイルは全然変わらないのです。その彼女はたびたび、わが家へ手作りのお総菜などを届けてくださいました。母は当初は大喜びでした。それでも相談室にはだんだん居づらくなられたのか、結局、彼女は翌年度には相談室を去られました。それ以後も公開講座のお世話は続けてくださり、翌年に他校へ転勤されましたが、講座には必ず参加されました。
 児玉先生は購買係になられて、お昼休みには機嫌良く生徒にあんパンを売っていました。児玉先生は何でもできる人です。