自叙伝06-03
【相談室に変化】
93年度は、私を相談室へ呼んでくださった佐藤室長が定年退職されて、室長が交代しました。新室長は某スポーツ種目の全国高体連委員長をなさっていて、大部屋職員室では狭くて高体連関係の資料の置き場がないからという理由で、広い相談室に目をつけられました。大学で後輩だった教頭に強引に迫って、室長として乗り込んでみえました。自分専用の大きなロッカーを3つも搬入されて、部屋がすっかり狭くなりました。相談はもちろん、相談以外でも来室する生徒も増えてきていますが、新室長は相談業務とはまったく関係ない動機でこの部屋にやってみえました。
ありがたかったのは、この人は年中出張でほとんど留守だったことです。同時に、児玉先生が念願かなって、非常駐スタッフではありましたが、教育相談係になられました。非常駐というのは、相談室にデスクはなくて、日常はご自分の科の職員室にいながら、必要に応じて出仕するというシステムです。おかげで、室長がどうあろうと、相談業務はほとんどすべて私と2人で担当することができました。他に2名の常駐スタッフがいましたが、その人たちは児玉先生と私に全面協力してくださり、そのため室長は浮いてしまいました。お気の毒に、翌年は図書館へ去っていかれました。すでに故人ですので、悪口を言うのはやめて、ご冥福をお祈りします。
私が授業に行くクラスの生徒が、しだいに昼休みなどに相談室へ遊びに来るようになりました。改まった相談ということではなくて、初めは雑談・世間話でした。まず土木科の仲良し2人組がフラッと昼休みにやって来ました。江田君と大森君(親戚ではありません)です。江田君は野球部でしたので、そのうち野球部員が次々にやって来ました。子どものころから私は野球とソフトボールは苦手でしたが、ここで野球部員たちと親交を深めることができると、不思議や不思議、いつの間にかテレビで高校野球や、プロ野球を観戦するようになっていました。来室者はだんだん人数が増えて、特に昼休みは大賑わいです。それまでは、同室の教科担任に用事があるか、あるいは謹慎生徒の「ハンコまわり」でしか訪れる人はなかった。今も来室する生徒たちに特別にサービスするわけでもありません。スタッフたちはそれぞれ昼食を取り、世間話につきあい、自分の仕事をしながら相手をしています。昼休みのほか、放課後と授業の間の休憩時間10分間にも必ず誰か来ています。放課後には、クラスの役員会をするところもありました。「セカンドホームルーム」という感じです。冬季には暖房が入るため、人数はさらに増えます。同じように生徒が集まりやすい保健室では、来室生徒のマナーの悪さに養護教諭さんが手を焼かれていたようでした。相談室ではそんなことはまったくなくて、みんなマナーがとても良かったです。山小屋かヒュッテみたいで、スタッフも来室生徒も昼のひとときをともにリラックスしていました。教頭さんが来室したとき、生徒がくつろいでいるのを見て驚かれて、「なんでここへ来てるの?」とたずねると、「大森先生のオッカケです」と嬉しそうに答えていました。
【公開講座の開始】
児玉先生が相談係になられてから、顔の広い彼が校内で数人の先生に誘いをかけられて、私を講師にしての小さな勉強会を開くようになりました。創設メンバーは、児玉先生と大森のほか、養護教諭のE先生、土木科のHr先生、建築科のN先生、体育のHk先生、国語のKy先生などで、けっこう盛況でした。常連ではなくてときどき参加される先生もいらっしゃいました。勉強会のあとは、学校近くの居酒屋で打ち上げをしていました。
93年9月には、勉強会を校外にも開放しました。開講当初は、野田先生の講演テープを聞いて、そのあと質疑応答をしていました。外来メンバーの第1号は県東部吉永町(現在は備前市)の小学校の女教師でした。彼女は、岡山大学の山口教授からアドラー心理学を知って、「県内でどこか勉強できることはないか」と、教育センターにたずねたそうです。私がアドラー心理学をやっていることを覚えてくださっていた指導主事さんが、「それなら岡山工業高校へ行ったら?」と勧められたそうです。この公開講座は、私の退職後、県の生涯学習センターに会場を変えてしばらく実施し、やがて「京山公民館講座」として定着しました。私の退職で閉講になるのを惜しまれた参加者の善意によって継続されることになったのです。私の活動領域はさらに、「愛媛講座」や「香川講座」に拡大していき、広島県からも講演依頼があったりして、最盛期には瀬戸内を駆け回る活躍ぶりでした。
公開講座開設当時、学校は毎月第2土曜日が休みで9月4日(土)は授業日でした。この日は台風が接近して警報が出たため、昼前に臨時休校になって、生徒は早々と帰宅しました。よくあることですが、帰したとたんにお天気は回復して、午後に講座を始めるころはすっかり好天になって、無事に開講できました。
年末には、校内の女性教師M先生がご自分の子どもさんのことで相談に見えました。公開講座をお勧めしたら次の回から参加されるようになって、その後2002年度の京山講座開始時まで参加されました。彼女はアドラーギルド関係の催しにほぼ全部参加されるようになってから、次第に私たちの講座からは離れて行かれます。
年が変わるころには岡工講座の参加者が増えたため、広い会議室(工友会館)に会場を変更しました。タイミング良く、市内蓮昌寺で行われている野田先生のオープンカウンセリングのお客様が集団で来られて、一気に人数が膨らみました。校内からの参加はその後も横ばいでしたが、校外への知名度はますます高まり、いつしか、「岡山でアドラーなら岡山工業高校」とまで言われるようになりました。ホントかな?手前味噌です。