自叙伝06-01
【アドレリアンカウンセラーに向けて】
アドラー心理学カウンセラーに向けての歩みが始まります。まず7月に、『SMILEスマイル』リーダー養成講座がありました。これは大阪のアドラーギルドで3日間行われ、高橋さと子さんのご指導により、参加者一同和気藹々と学び、リーダー資格のお免状をいただきました。
翌8月には、またアドラーギルドでカウンセラー養成講座があり、それに参加しました。月曜日から木曜日までの4日間の講座が2週あります。ところで、野田先生は、学校の先生がカウンセラーになるのに反対でした。学校に雇われている教師は、学校側の利益を無視できない立場であるため、純粋に生徒や保護者の味方にはなりえないからという理由でした。それを強引に押し切って参加してしました。その後、職場でカウンセリング活動を始めるやいなや、このことをイヤというほど実感しました。その学校の教師でありながら、カウンセリングすることはまことに至難の業です。努力すればするほど、校内では浮き上がっていくようでした。それでも、「どうせ浮くなら生徒のためになる動き方をしよう」と決心できました。野田先生から教わった「スクールカウンセラーは生徒の弁護士」のポジションに近づけるよう努力することにしました。
このカウンセラー養成講座には、のちにアドラー心理学会3代目会長になる梅崎一郎さんが参加されていました。すでにカウンセラー資格をお持ちの岸見一郎先生もゲストで部分参加されいて、スタディグループの実習場面では同じ小ループになりました。彼の一言一言が哲学者の言葉のようで(のちにほんとの哲学者であることを知ります)、私には雲の上の人でした。この講座へは教師の参加はほとんどなくて、ほとんど心理専門の人かお医者さんでした。当時のカウンセラー養成講座では、試験は筆記だけで、受講者はほぼ全員が合格していました。とにかく良い時代に受けたと思います。今だときっと落第でしょう。
岡山では、この夏も古田先生のSMILEが開かれていて、リーダー資格をいただいた私は、さっそくお手伝いに行くと、古田先生から1つの章を任されました。ところが、このことはリーダーのHさんにはご不満だったようで、ご機嫌をそこねてしまいました。古田さんがそれを知って、Hさんに、「大森さんはこれから伸びていく人だ。チャンスを与えてあげないといけない」とおっしゃって、私をかばってくださいました。それでも、以後Hさんからの風当たりが強くなり、イヤがらせも受けて、結局、私はこの自助グループを去りました。後日談で、他のメンバーに対しては、Hさんは「大森さんには辞めてもらった」と話されていたことを知りました。
職場では、私がアドラー心理学カウンセラーの資格を得たことを、佐藤相談室長がまるで自分のことのように喜んでくださいました。職員朝礼で校長から披露してもらうことになりました。2学期始業式に、全職員の前で「大森先生がこのたびアドラー心理学のカウンセラーに合格されました」と紹介されました。それ以後、担任の先生からカウンセリングの注文が来るようになりました。宣伝も大事です。
学校で担当したケースの第1号です。
1年男子生徒についての相談です。私も授業を担当しているクラスの生徒は、1学期途中くらいから元気がなくなり、教室最後尾隅の薄暗い席にボーッと座っていて、授業中にたびたびトイレに行きます。2学期からは欠席が激増し、担任から母親と面談してほしいと依頼されました。
最初は母親と本人が来談されました。彼は母親のそばにいて、落ち着きがなくオドオドしています。母親は、「父親がこの子の立ち居振る舞い、箸の上げ下ろしまで厳格に躾けをするので、こんなに神経質になった」と言う。体格はクラスでも大きいほうで、そのため余計にオドオドした態度が目立ちます。父親はここにはいないのにオドオドしているのは変だと思いました。「ひょっとしたら相手役はオカンでは?」。この生徒の症状の相手役が母親であると、その後の生徒本人との面接で明らかになります。
次回からは生徒本人だけの面接です。マニュアルの手順どおりに情報収集をしたのち、金曜日夜のアドラーギルドの事例検討会に出しました。そこでは、野田先生や参加者方々から、文字どおり手取り足取りのご指導を受けました。おかげで、総計8回の面接で完全治癒という快挙となりました。
自分はカウンセリングの“ド・シロウト”だと自覚していて、とにかく事例検討会で教わったとおり実行したのが良かったのでしょう。のちに、野田先生から「それが上達のコツです」と言われました。
その後も面接開始時には、挨拶代わりに「その後症状はどうでしたか?」とたずねていました。まだ、「症状に注目しない」ということがよくわかっていなくて、しかも相談目標が症状除去でなくコミュニケーション改善だと、きちんと理解できていなかったのです。案の定、質問したら必ず、「前より悪くなった」という報告が返っていました。ところが、カウンセリングが進むにつれて、私から症状をたずねなくなるにつれて、クライエント自ら、「症状はあるが、自分のは我慢できる程度のものだ」とか「ほとんど気にならなくなった」というふうに変化していきました。最終回は、予約していたことさえ忘れてしましました。
カウンセリングが終わるとちょうど体育祭があって、あの顔色の悪いボーッとして影の薄かった彼が、別人のように積極的に取り組んでいます。綱引き競技に出て、ものすごいパワーを発揮していました。担任が喜ばれたのはもちろんですが、他の先生方も彼の変化が眼に止まったことでしょう.
その後は徐々に、校内の相談申し込みが増えていきました。アドラーギルドの事例検討会で、野田先生から機関誌『アドレリアン』に投稿するよう勧められ、守秘義務の関係でケースの特徴を損なわない範囲で内容を改変して、「筋肉カウンセリングと呼ばれたケース」というタイトルにして投稿しました。