自叙伝05-05
【初めてのアドラー心理学会】
ちなみに、この年度(1991年度)から、私は担任がなくなり、相談業務に専念できることになりました。授業はありますが、幸い持ち時間が週12時間くらいと、とても恵まれていました。担当授業は主に「現代社会」で、國分先生のエンカウンターや、まだ始めたばかりのアドラー心理学のおかげで、それまでの威嚇的な雰囲気が次第に消えて、和やかに進められるようになっていました。
10月には大阪市立大学でアドラー心理学会総会がありました。当時は、自助グループ「岡山エンカレッジの会」の責任者・Hさんが私にとても好意的で、彼女が参加されるお供をさせていただけました。往復の電車をご一緒し、彼女はお知り合いのお宅へ宿泊されて、私は天王寺駅の中の「都ホテル」に2泊しました。会場へはJR阪和線で通いました。
この学会は、日本カウンセリング学会とは雰囲気が違います。アドラー心理学会は「大衆と共に歩む」そうで、心理屋さん・精神科医・援助職の人だけでなくて、学校の先生や看護師さんや家庭主婦も参加しています。期間は10月11日(金)~13日(日)でした。
初日は午後から、「総会」と「事例発表」です。総合司会は鎌田 穣さんで、事例発表は中島弘徳さんでした。夜は懇親会です。Hさんのお供ですので、私も参加しました。
2日目は、一般公開で、大阪市立大学の大講堂は満員でした。まず、会長(=野田先生)の基調講演でした。このとき、2階席の最前列から、若き日の名越康文さんがさかんにエールを送っている姿が今も目に残っています。名越さんは野田先生が目の中に入れても痛くないほどの愛弟子さんだったようです。演題は「共同体感覚の諸相」で、80分ほどのコンパクトな講演でした。野田先生のお声は良く通り、耳に心地良く、初心者の私にも、内容はところどころは理解できました。録音テープが販売されましたので、購入してMDへ保存して今も大切にしています。その後、私が講座で自分が語るようになったときの得意ネタにして、何度も使わせていただいています。古典落語の名作のようです。アドラー心理学の「思想」である共同体感覚を、実際のカウンセリングでどのように扱うかを、アドラーの仕事の変遷をたどりながら語られます。アドラーの研究テーマは、初期の「劣等感の研究」から始まり、中期の「ライフスタイル(性格)」、そして晩年の「共同体感覚」へと変遷します。アドラー心理学のカウンセリング目標は、「症状除去」でも「社会適応」でもなく、ずばり「共同体感覚の育成」です。このためカウンセリングのスタイルは、「治療モデル」でなく「教育モデル」となります。何か悪いものが取り憑いているためにクライエントが問題行動を起こしているとは考えなくて、正しいやり方を学びそこねて問題行動を起こしていると考えます。よく「アドラー心理学のカウンセリングは教育だ」と言われます。「プロブレムオリエンティッド」でなく「ソリューションオリエンティッド」、「問題・症状除去」でなく「解決構成」なのです。
ところで、科学が「思想」を含んでいることは、普通ありえません。アドラー心理学は、思想を持つために、「科学」の座を降りて「理論」となりました。あとに野田先生による解説を添付します。
続いて、外国人講師・ドロシー=ペブン女史の講演です。同時通訳を岸見一郎さんがなさいました。内容は覚えていません。そのあと、シンポジウムがあって2日目は終わります。
3日目は「分科会」です。私はHさんと一緒に「医療・福祉分科会」に出ました。そこには野田先生もいらっしゃって、岡山のオープンカウンセリングでお会いしていたため、すぐにお近づきになれました。岡山のカウンセリングで扱われた「拒食症の女の子」のケースについてお話しされました。私も見学して知っているケースで、野田先生にずいぶん親しみを感じました。のちに渦中の人となる後藤素規先生も、このころは野田先生とも会員さんたちとも良い関係のように見えました。
さて、普通、科学はザインを扱うもので、ゾレンを扱いません。すなわち、「かくあるべし」という価値判断をしないものです。それなのにアドラー心理学には「思想」の面があります。アドラーは「純粋科学」の座を失うという大きな犠牲を払って、「共同体に貢献的なことを善となし、破壊的なことを悪となす」という価値判断をしています。このため、アドラー心理学は科学の座を降りて、1つの「理論」となりました。アドラーは、ニーチェのニヒリズムの影響を受けていて、価値相対主義の立場に立ちますが、この「共同体への貢献」を価値あることとしました。野田先生は、アドラー心理学は「理論」「技法」「思想」の3つの部分からできていると考えます。アドラー心理学会機関誌「アドレリアン」通巻11号(1993年)の巻頭言に次のようにあります。以下引用です。
思想・理論・技法(野田俊作)
アドラー心理学は、思想と理論と技法の3つの部分からできていると思います。思想の中核をなすのは、言うまでもなく『共同体感覚』であり、これは「相互尊敬・相互信頼」とか「横の関係」とか「民主主義」とかいう形で実現されます。理論の中核は「基本前提」であり、具体的には「目的論」や「全体論」や「対人関係論(=社会統合論)」や「現象学(=認知論→仮想論)です。(のちに「個人の主体性」が追加されます。)そして技法の中核は「勇気づけ」であり、それは「ライフスタイル分析」や「助言/解釈/正対」という形をとります。この3つは深いところで相互に関係し合っていて、不可分な全体を構成していると思いますし、海外の文献を見ても、このように明確に分けて考えているものはないのですが、私は、便宜的にこの3つを分けて考えてみる必要を感じています。
私がアドラー心理学を学び始めた初期には、理論を中心にしていました。そのようであったのは、当時の私の生徒のほとんどが専門家であって、彼らが思想よりも理論を求めたことにも起因しますが、それよりも、私自身のアドラー心理学理解が理論中心であったことのほうが大きな要因です。そうして数年間、理論中心に教えてみた結果、その誤りに気づきました。理論を学ぶだけでは、どこまで行ってもアドレリアンには育ってこなかったのです。
私がアドラー心理学の思想的な側面を前面に打ち出し、アドラー心理学を学問としてよりも思想として捉え直し、さらには大衆運動として位置づけたとき、初期の有力な生徒の多くは失望して去ってゆきました。彼らは何よりも「素人」と一緒に学ぶことに耐えられなかったのでしょう。彼らがそういう人たちだったということに、私はそのとき初めて気づき、彼らが去ってゆくことはいいことかもしれないと思い直しました。その時点で、理論偏重であった旧初級講座を解体して、基礎講座とカウンセラー養成講座に分割し、基礎講座は思想中心、カウンセラー養成講座では理論中心のカリキュラムを組みました。
さて、現在のところ、大阪に関する限り、基礎講座受講者は多いのですが、カウンセラー養成講座受講者は年間10人あまりという状態です。さらには、カウンセラー資格取得後に心理療法士養成講座に入った人は、全部合わせても数人で、しかも新課程施行後に心理療法士資格を得た人は、まだ1人もいません。これはある意味では「惨状」と言ってもいいと思います。
心理療法士養成課程は、技法中心です。思想と理論とを理解してはじめて、アドラー心理学の強力な援助技法を使う資格ができると考えるので、基礎講座ではもちろん、カウンセラー講座でも、技法の主要部分は教えていないのです(毎週金曜日夜の「事例検討会ではしっかり教えていただきました←浩)。心理療法士養成課程の生徒がいないということです。アドラー心理学の援助技法が伝達されていないということです。これは困ったことです。
アドラーの思想の力は確かに協力です。ただ思想を知るだけでも、自分自身を救済するためには十分であるかもしれません。しかし、他者を援助するためには、理論を知る必要がありますし、さらには技法に習熟しなければなりません。日本のアドラー心理学の次の課題は、アドラーの思想に立脚しつつ、理論と技法に精通した援助専門家を養成することだと考えます。初期の、アドラーの思想を否定し、非専門家を軽視する専門家たちでなくて、大衆とともに歩む真の援助者を育ててゆかなければなりません。カウンセラー養成講座修了者が心理療法士養成講座に進まれることを切に希望しています。
引用終わり