自叙伝05-04

【暗唱の効果】
 学校では相変わらず相談室への来談者がありません。ただ、問題を起こして特別指導になる生徒が調書を持ってきたとき、以前のようにただ捺印するだけでなく、ちょっとだけ勇気づけメッセージを出せるようになりました。何か説教しようとは思わないで、まずは話を聞くように努めました。もちろんこれでアドラーというわけではありませんが、國分先生からも教わっていた「開いた質問」は、“ハンコまわり”の生徒の相手をしているうちにしっかりお稽古ができました。ほとんどの生徒は陰険な顔つきで入室します。私と話しているとそれがしだにほぐれて、退室時にはだいたい明るい表情になっています。自分が変わればほんとに相手が変わります。
 前任校・備前高校の授業で、世界の名句・名文の暗唱が好評だったのを思い出して、岡山工業高校(以下略称=岡工)でも始めてみました。不思議なくらい生徒が乗ってくれました。この暗唱という課題を通しても、生徒との関係づくりが進んだようです。
 暗唱文を指定したあとは、覚えたと思えたときいつでも聞くことにしていました。休み時間や昼休みに、職員室前に順番待ちの行列ができます。1学期間に大体10個の文を暗唱します。私を捕まえては唱えるので、おかげで休憩時間もほとんど返上で、昼ご飯を食べながらも、次々やって来る生徒たちの暗唱につきあいました。慣れてくると、それがまた楽しいひとときになりました。
 1回の暗証文の例です。(かなりハイレベル)
 無為を為し(なし)、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし、少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。難をその易(い)に図り、大をその細(さい)に為す。天下の難事は、必ず易よりおこり、天下の大事は、必ず細よりおこる。ここを以て聖人は、ついに大を為さず、ゆえによくその大を成す。それ軽諾は必ず信寡なく(すくなく)、易しとすること多ければ、必ず難きこと多し。ここを以て成人はなお之を難しとす。ゆえについに難きことなし。(老子63章)
 途中で詰まったり言い間違えたら、他の人と交代します。何回トライしてもいい。廊下を歩いていても、「暗唱します」と生徒が近寄って来ますから、私は、誰がどの文をいつ唱えても対応できるように、前もってすべてを覚えておきました。「あっ、そこ違う」と言うと、生徒は「先生、ノート見んでもわかるん?」と不思議そうな顔をします。「一応プロですから」と言うと、大笑いです。アドラー心理学に出会う前からの授業の工夫として、これは成功例の1つです。
 暗唱の重要さについては、野田先生があちこちで語られています。初めから全部自分で考えるのはすごい非能率で、先人の肩に乗せてもらうとより遠くが見える。われわれはフロイトやアドラーの肩に乗せてもらって、フロイトやアドラーが見たよりもっと先を見ることができる。また、丸ごと暗記しておくと、そのときは意味がよくわからなくても、いつか何かのきっかけで「あっそうなんだ」と腑に落ちることがある。そういう体験が大切だともおっしゃっていました。
 野田先生は次のように書かれています。
 私は本を読むとき、“まとめて大意を理解する”ということをなるべくしないようにしています。昔はまとめて大意を理解して、それでこと足れりと思っていたのです。しかし、それでは駄目だということがだんだんわかるようになって、今は、ある種の本については、そういう読み方はしていません。
 学校時代に“作者の言いたいことを100字以内にまとめよ”などという課題がよくありましたが、あれが諸悪の根源ですね。私も“もの書き”として思うのですが、もの書きというものは、例えば、1000字の文は1000字必要だから1000字で書いたので、100字にまとめられるものならはじめから100字で書きますよ。
 人の書いた文をまとめるときは、著者のライフスタイル(性格)ではなくて、自分自身のライフスタイルを読みとっているわけです。ですから、そういう読み方ではライフスタイルは変らない。自分のライフスタイルを変えるためには、決してまとめてはいけない。丸ごとそのまま一度受け入れてみないといけない。そういう種類の本があるのです。
 こういうことは、例えば、道元の『正法眼蔵』のような、どうしても知りたいことが書いてあるはずなのに、文体が極端に難解なのでわけがわからない文章を読むときにわかりました。あれは私の愛読書なのですが、今でもほとんど理解できていません。理解できていないけれど、何度も何度も読み返しています。理解できないところは理解できないままでおいておいて、文章をそっくりそのまま覚え込むように読んでいます。いくつかの巻は、いままでに何十回読みかえしたかわかりません。書き写したことも何度かありますし、外国語に翻訳してみたこともあります。
 そうして、理解できないところは無理に理解しないで、ただその部分の文章を覚え込んで、そして生活します。そうすると、あるとき何かのきっかけに触れて、いきなりパッとすべてがわかるのです。“ああ、そうだったのか、あれはこのことだったのだ”と。そうしてわかったことは、もう自分のものですから、いくらでも自分で展開できます。
 アドラーの原典もこのたぐいの本です。わからなくても何度も何度も読みかえして、いつも頭の片隅に引っかけながら暮らしておれば、あるとき突然わかるのです。“会して”しまうのですね。そうすればもうだ大丈夫。いつでも自分の言葉でアドラー心理学が語れるようになります。
 決して大意をまとめるという形で理解しようとしないことです。折に触れて何度も何度も読むことです。論語とか聖書とかと同じようなもので、1つの文にも何重もの意味が隠されています。自分なりにわかってしまうと、それ以上何もわからなくなります。
 何か問題を抱えこんだら、そのことについて、アドラーはどう言っていたか、ドライカースはどう言っていたかを読んでみます。望んでいたような答えが得られないこともままあります。反論したくなることもあります。けれども、彼らの意見をそのまま受け入れてみます。そうして生活してみます。そうすると、あるとき彼らのほうが正しかったことがわかります。そのとき、私は1枚だけだけれど脱皮するのです。
 ・・・引用終わり

 暗唱する名句について、私はいちおう丁寧にその意味を説明しました。でも生徒たちは、本気で意味を知ろうとしないで、暗唱文が指定されたら、即、覚え始めます。まるでお経を覚えるように。私たちは年号だったら、「ナクヨウグイス平安京」というふうに覚えました。語呂合わせや意味づけをすると能率よく覚えられます。今の生徒たちはそうしないんでしょうか。まるで呪文を覚えるよう。不思議です。まあ、点をもらえるからでしょうか。落語や歌なんかストーリーがあるから覚えられるのに。
 この学校では、成績評価には日常点を1/3以上加味することになっていました。100点満点のだいたい30点くらいを、提出物・小テスト・課題などで補います。暗唱点はその一部にしました。工業高校なので、実践を重んじます。何しろ校訓が“誠実勤勉”ですから。生徒も実技実習になじんでいるのか、生き生きと暗唱に取り組んでいました。「暗唱するときには意味がわからなくても、ひたすら覚え込んでいれば、いつかあるきっかけで、突然意味が見えてきたりするものだ」と野田先生はおっしゃる。でも、ついに意味がわからないまま、一生を終わってしまいそうな人も大勢いるのかもしれない。それでも中には、大学で哲学か倫理かの授業で、高校時代に名句をたくさん暗唱していたのが役に立ったという報告をしてくれる卒業生も実際にいました。そのことは退職後の講演会などでもありました。