自叙伝04-07
【教育相談室へ】
1987(昭和62)年度には、土木科1年A組を平田先生が正担任、私は副担任で担当しました。私が正担任をしたのは前年度までで、この年からしばらく副担任を続け、その後は担任なしになります。それは分掌のほうで、念願がかなって、進路指導室から教育相談室に配置換えになったことと関係があります。
以前、進路指導室の重鎮だった佐藤先生が教育相談室長になられています。私が以前から相談係を希望していたことを思い出して、招いてくださいました。佐藤先生は、前任校(備前高校)でもご一緒でした。しかもボート部の顧問のお1人でもあり、ご縁の深い方です。
私が配属された年のメンバー構成は、室長=佐藤先生、スタッフは、理科のベテラン・関隆次先生、英語の若手・山田悟先生、そして私の4人で、他に非常駐のスタッフが保健室の養護教諭さんを含めて何人かいらっしゃいました。当時は、教育相談室でなく、「相談助言室」と呼んでいました。翌年、私の提案で、全国統一名称の「教育相談室」に名称替えしてもらいました。
教育相談室は、本館から数えて2棟目の理科棟3階の東寄りにありました。隣に「旧視聴覚教室」という映写室まで備えた広い教室がありました。真下の2階は物理教室、さらに下の1階は化学教室で、それぞれ隣に準備室がついています。「旧視聴覚教室」と教育相談室の配置は、物理教室や化学教室で言うと、準備室にあたります。
私が相談室へ移動したことを生徒に言うと、彼らは不思議がって、「先生、何か悪いことをしたん?」と言います。左遷されたと思ったのでしょう。それくらい、相談室は地味でほとんど活動していない部屋のようでした。“マドギワ”という言葉が当てはまる感じでした。そして、室長さんも関先生も囲碁が大変お好きで、校内の囲碁好きの先生が放課後などに見えて、熱戦を展開していました。
教育相談室といっても、本来の業務の相談活動は皆無に近く、ときどき謹慎指導(特別指導)になる生徒が持参した始末書(報告書)を点検してあげ、指導が終わるときに見届けをしてあげるくらいです。この作業を彼らは“ハンコまわり”とか“スタンプラリー”とか呼んでいました。
年度はじめの会議で、室内の役割分担が決まります。庶務会計係、心理テスト係、渉外係(宴会係)があって、相談係というのはありません。のちになって、私がアドラー心理学のカウンセラー資格を得てから、強く要望して「臨床担当係」を設けてもらいました。それまではほとんど仕事がないので、おかげでたっぷり研修ができました。
岡山工業高校は職員の研修には大変理解があり、研修出張での旅費・宿泊費等がきちんと保障されていました。相談室では、新人スタッフは必ず、夏休み中に東京で開催される日本カウンセリングアカデミー(当時:日本カウンセラー協会)主催のカウンセラー養成講座初級の部に参加させてもらえました。相談室の先輩である関先生も、山田先生も、すでに参加済みです。この年には前年に参加された山田先生から、室内研修会でレクチャーがありました。
翌1988(昭和63)年度は私の番です。行く前に、関先生が留意点を教えてくださいました。この講座ではグループ行動が多く、初日にはいきなり全員でフロアーを歩かされて、突然「はい、近くの人とペアになって」と支持される。マゴマゴしていると取り残されるから、迷わず側にいる人とすぐペアを組め。このアドバイスは役に立ちました。どちらかというと人見知りしがちだった私は、このアドバイスがなかったら、おそらく美人とでも組もうとしてモタモタしていたかもしれません。実際、講座開始直後に、講師の國分康孝先生がフロアー全員歩きを命じ、「はい、ペアを組んで」と指示されました。「来たー」とばかりに、私はすぐ側の人と組むと、20歳代の麗人でした。高野妙子さんとおっしゃいました。翌年、その次と、毎年、中級~上級と上レベルの講座に出ますが、そのたびに高野さんとくっついていました。
この講座では、國分康孝先生からカウンセリングのイロハをたっぷり教わりました。國分先生の立場は折衷主義で、さまざまな理論と技法を自由自在に使いこなされていました。カウンセリング開始時の人間関係づくりには「来談者中心療法」、問題の分析は「フロイト心理学(精神分析理論)」、終盤の処方は「行動療法」や「交流分析」を使うのがいいとおっしゃいました。名づけて、“R→P→T理論”です。R=relation, P=problem, T=treatmentです。「どの人のどんな問題にどういう処置をするか?」を選択していくためには複数の理論を学んでおく必要があるというのが持論でした。
その後の、カウンセリング・アカデミーでの研修をざっとおさらいしておきます。
・1989(平成元)年8月:カウンセラー養成講座中級
・1990(平成2)年3月:カウンセラー養成講座、特別研修「論理療法」
この講座でご一緒した、千葉商科大学の菅沼憲治先生はあとでアドレリアンだとわかりました。『アドレリアン』創刊号に登場されています。ただ、その後間もなく、多くの大学関係者同様に去って行かれました。野田先生が提唱される、大衆ムーブメントしてのアドラー心理学に反対だったのでしょう。
・1990(平成2)年8月:カウンセラー養成講座上級
・1990(平成2)年11月:日本カウンセリング学会入会
國分先生とカウンセリングアカデミー理事長・片木良平先生が推薦人になってくださいました。
上級を修了して、学校に帰ると、自信たっぷりにチラシを作ったり、授業で宣伝したりして、来談者を待ちました。いっこうに来談者がありません。うーん、どうしてか……??? それもそのはず。授業では相変わらず、まだ“コワモテ”教師の本性が残っていて、こちらに選択肢がなくなると、ドスとスゴミを効かせて巻き舌で怒鳴っていました。これでは、生徒が「困ったときこの教師に相談しよう」と思うはずがありません。
1990年秋に、担当教科の研修会で県の教育センターに出張することがありました。そこの教育相談部長が大学の先輩でしたので、挨拶に寄って、東京へカウンセリングの勉強に行っていることを話すと、「非常勤のカウンセラーが必要なので、来年度、週1日午後からセンターに来てほしい。校長には正式に派遣申請を出すから」と依頼されました。好タイミングです。勤務校では来談者が全然なく、常に“お茶ひき”でしたから、迷わず引き受けました。