自叙伝04-06
【花の土2B】
翌1985(昭和60)年度はクラス編成替えで、土2Aと土2Bができました。半分ずつメンバーが入れ替わりましたが、どちらのクラスも落ち着いた最高レベルのクラスでした。(陰の声→この年に児玉先生が岡山理科大学を卒業されて岡山工業高校に赴任されました。まだ私との接触はありません。)
この土2Bは、私の教師生活全体を通じて、The best classだったと言えます。何から何までうまく運び、新採用当時が再現したような夢のような1年でした。
目玉は、まず、班活動が盛んで、おおかたのことは班の自主活動で動いていました。これは高梁工業時代にデザイン科を担任したおかげです。そこで多くのワザを修得していました。特に「学習班」の活動はめざましく、定期考査が近づくと、全員が記者になって各教科担当者たずねてテストへの心構えやヤマを聞き出します。すらすらと教えてくれる先生もいれば、手強い先生もいて、さまざまですが、生徒たちはひるまず屈せず粘りに粘って、何らかの情報を聞き出します。それを「ここは必読!」と銘打って、冊子を作って、考査前のお勉強ムードをあおりました。おかげでこのクラスは、1年を通じて「赤点」への憂いが消えました。玉田重人君は、通称“玉ちゃん”で、クラスのアイドル的な人気者でした、玉ちゃんは、理科の佐藤先生(例の進路指導課の改革者)をインタビューしましたが、なかなか手強く「要所」を話してくれなかったそうで、彼は、冊子には「先生の顔色からここが大事と判断しました」というコメントを付けて、あとは彼自身が推量して書いた記事を投稿していました。玉田君のお母さんはPTAの役員を快諾されるほどの教育熱心な方でした。
保護者との連携のために、毎週「学級通信」を発行して、生徒に持たせて親に読んでもらいました。一方通行にならないよう、「必ず返信を、せめてサインだけでも直筆で」とお願いしたところ、ほんとに1人の例外もなく、全保護者から毎回返信が来ました。中にはとても丁寧に日ごろの私の活動に謝意を述べらたり、家庭での近況を返信欄いっぱいに裏まで使って書いてくださる方もいらっしゃいました。そればかりか、内緒ですが、盆暮れの「中元」「歳暮」が、わが家の廊下を埋め尽くすほど届きました。保護者の話によれば、多くの生徒が帰宅したら親に、クラスのことや友だちのこと、担任のことなど、あれやこれやと話していたそうです。高校2年生の男子がですよ。
クラスには野球部員が多くいて、そのため、球技大会ではソフトボールが、毎回優勝でした。名ピッチャー・山本恭一君の大活躍で、安心して試合観戦ができました。
修学旅行は、夏休み中に実施されました。土木科は企画をほとんどを私に任せてくれたため、私の思いどおりにまとまりました。私は旅行会社への就職を希望したことがあるくらいですから、得意中の得意です。
生徒たちは日ごろ、AB2クラスの垣根を越えて自由自在に交流していました。そこで班編制は、クラスの壁をはずして80人ひとまとめにして、それを8人ずつ10の班に分けることにしました。担任から「8人ずつの班を作ってください」と言ったら、あとは生徒たちが自分できちんと10組の班を作ってくれました。仲間はずれになる生徒は1人もいませんでした。どの班も“仲良し編成”ですから、班行動がとてもスムーズにいきました。
一応生徒たちの希望を調査して、その結果、コースは東京~上高地~飛騨高山の3泊4日ということになりました。今西健太郎君という、イラストの天才的才能の持ち主がいて、修学旅行用の栞の表紙をデザインしてくれました。大胆にも、表紙には「土2B&A School
Trip」と書いてありました。Bが先です。このことについてA組の担任からも生徒からもまったく文句は出ませんでした。旅行会社は近畿日本ツーリストのお世話になり、添乗員は伊予さんという方でした。当時は、松本伊代というアイドルが有名でしたから、「伊予さん、伊予さん」と大もてでした。私の当初の希望では、東京には行かなくて、信州と飛騨を堪能するつもりでしたが、生徒たちの強い要望で、「それなら」と、初日に東京へ直行、ホテルに宿泊して、ディナーを簡易版の洋式でいただき、翌朝、新宿から「あずさ3号」で松本へということで決着しました。ツーリストとしては、東京以後のコースは全部バスにしたかったようですが、これには断固反対しました。「新宿─松本」は絶対に「あずさ」で、そのあとも可能な限り鉄道使用という条件を吞んでもらいました。80人の指定席確保はずいぶん難しかったようですが、何とか希望どおりになりました。
栞の文字部分はほとんど私の手書きです。当時はまだガリ版印刷が残っていましたので、私はこれが得意で、暇さえあれば、鉄筆でカリカリと原稿を書きました。製本段階からはほとんど生徒がやってくれました。引率教師は、相担任の1人(紳士・森本先生)がご都合で行けなくて、結局、福田先生(土木科の大ベテランで団長に)、平田先生(これまた土木科の超実力派)、小山先生(お馴染みのヤング先生)、そして私という4人でした。企画の全責任は私が負いましたが、引率の最高責任者は福田先生です。これは助かりました。私は添乗員さんと一緒にマネージメントに専念できますから。
いよいよ出発です。事前の指導で、修学旅行中は、私を「先生」と呼ばないで、「アニキ」と呼ぶようにしています。新幹線で一気に東京へ。中央線快速に乗り換え新宿へ。東京駅での乗り換えは、教室の出入り口を電車の乗降口に見立てて、ホームルームの時間にお稽古しておきました。ホテルは新宿駅西口の、今は東京都庁になっているあたりです。ホテルの名前は忘れました。京王プラザホテルの側を通ります。この旅行の少し前に、俳優の沖雅也さんが京王プラザホテルの屋上から飛び降り自殺しました。そことおぼしき場所を通るとき、彼の遺書「親父、冥土で待つ」を思い出して、みんなで「ここが冥土の入り口か」と不謹慎ながら冗談を言っていました。
部屋は全員シングルルームです。部屋の使用法とフルコースのお料理のいただき方は事前にたっぷり指導しておきました。夕食は簡易フルコースで、前菜~メインディッシュ~デザートと一応揃っていました。引率教師たちも生徒と一緒にいただきました。
夜の自由行動で歌舞伎町へ行きたいグループが、「自分たちだけではよー行かんから、先生、ついて来て」と、かわいいことを言います。そこで、ヤング小山先生と私が引率することになりました。教師2人は待機位置を決めて、全員に熟知してもらった上で、夜の歌舞伎町へ生徒たちを放ちました。どこでどう過ごしたのかわかりませんが、約束の時間に全員戻ってきました。教師2人は、それまでを近くの喫茶点で過ごしていました。
翌朝の朝食でバイキングをいただいて、信州へ出発です。好天のもと、新宿駅までワイワイガヤガヤおしゃべりしながら歩いて、「あずさ3号」に乗車します。以前、狩人というデュオが「あずさ2号」という歌を出して、大ヒットしましたが、のちのダイヤ改正で、下りは奇数号になり、“8時ちょうどのあずさ2号”は「あずさ3号」になりました。全員が同じ号車にまとまっては乗れなくて分散しましたが、無事に松本に到着しました。松本からは観光バスです。私の願いは、新島々まで松本電鉄で行き、そこから上高地までをバスにしたかったのですが、業者に強く説得されて、松本からすべてバスということになりました。上高地には宿をとれなくて、一歩手前の乗鞍高原ホテルに泊まりました。この夜は、テレビで「青い珊瑚礁」という少しエッチな映画が放映されていて、夕食後に各部屋を巡回するとどの部屋でも灯りを消して、男の子たちがみんな美少女エリック・シーガルのセミヌード姿での南海孤島で男の子と暮らすの様子を、息を吞みながら見ていました。教師たちも部屋へ帰って、もちろん見ました。
明くる日はいよいよ上高地入りです。釜トンネルを越えた途端に景色が一変します。秋だと全山紅葉になるところが、真夏ですからオールグリーンと麻雀のようですが、まず焼岳と大正池を過ぎて、河童橋に到着です。天を仰ぐと右から前穂、奥穂、西穂と勇姿が並び、河童橋は観光客で超満員です。レストランで昼食をして、あとは自由時間です。多くの生徒は梓川原で無邪気に遊び、健脚な生徒はもっと奥の神秘的な明神池まで散策したようです。上高地を堪能して、この日の締めくくりは、平湯峠を越えて飛騨高山入りです。まだ日のある内にざっと市内を観光しました。有名な高山祭の山車を陳列している屋台会館では、土木科の生徒はこういうものに興味がないのか、ろくに見ないで場内をさーっと通り過ぎて、すぐに外へ出てしまいました。前任の備前高校の普通科を引率したときは、男子女子ともに、時間をかけてじっくり見物していたのに、土木科の生徒は全然興味を示しませんでした。少しがっかりしましたが、価値観の違いで、どうしようもありません。民宿ふうの宿はとても落ち着いていて、生徒たちも最終日の夜をほとんど眠らないで楽しんだようです。引率教師はほどほどで監督業務を切り上げて寝ました。翌朝は、お目当ての「高山朝市」で、これは気に入ったようです。上三之町も駅前も両方をじっくり回って、土産物をしっかり買い込んでいました。
高山本線の特急飛騨号で名古屋へ、そこで新幹線に乗り換えて無事、岡山に戻りました。全員大満足の修学旅行でした。点呼解散して、引率教師団は駅地下の喫茶点で一休みして別れました。
土2Bの日常の様子をもう少し書きましょう。当時、岡山工業高校では全校美化に力を入れていました。放課後の清掃状況を学校の整備委員会が当番制で見回り、5段階の評定をしていました。わがクラスでは、清掃当番は週替わりでしたが、班内での個人個人の役割が日替わりで、1人1役としていました。机と椅子の移動、床の掃き掃除、机上やロッカー上の拭き掃除、黒板、窓ふき、最後のゴミ捨てとこのくらいに分業していました。机と椅子の移動&床の拭き掃除は数人で、あとはほとんど1人で受け持ちます。全作業が終了するまでは、早く終わった班も私とおしゃべりしたり、適当に監督業務をしたり、あるいは送れている班を手伝ったりで、何とかうまくいきました。スタートしたころは、ゴミ捨て係は、掃除が始まるとすぐに捨てに行ったため、掃除終了時にまたゴミ箱が満タンになるような矛盾もありましたが、間もなく解消しました。学期全体で「オール5」をもらうと、終業式に表彰されました。ほぼ毎学期末に表彰されていて、全校的にも「きれいな土2B」の評判が定着しました。ただ、生徒に気の毒だったのは、この教室は夜間の「岡山市立工業高校」と併用しているため、せっかくピカピカにしても、翌朝来てみると、床のあちこちにゴミが落ちていて、椅子の位置は乱れ、黒板は嘗めてもいいほどきれいにしたのに、チョークの粉で真っ白。何度もがっかりして匙を投げようという気になりながらも、耐え抜いて、学年末まで「オール5」を貫きました。アッパレでした。
体育祭は、クラスの団結力の見せ場です。競技成績はそこそこでしたが、目標を「応援合戦優勝」を目ざしていて、まずは看板(デコレーション)描きです。科ごとにクラス数に応じて看板の横幅が決まっています。ここでも今西君が大活躍で、豪快なイラストで誰もが目を見張りました。何を描いたかは忘れました。ハイライトの全校応援合戦の作戦も練りに練った成果が発揮され、審査員たちを釘付けにしたようです。応援の部で優勝するためには、応援合戦だけでなく、競技中の応援がものを言います。自分のクラスから選手の出ていない種目のときも、手を緩めず、緊張を維持して応援をつづけました。結果は、もちろん「応援の部・優勝」でした。応援歌の中の有名なフレーズに「岡工は土木で保っている」という一節がありましたし、掛け声は「おーせ、おーせ。押せ押せど・ぼ・く!」ですが、これは科名を替えて、どの科も歌っていました。
夢のような1年が終わりに近づくと、担任を持ち上がるかどうかが問題になってきました。私の受け持ち科目は2年生までで、3年生になると担当外の「世界史」になりますから、担任を降りざるをえません。迷った結果、これまで長く担当しなかった「世界史」を総復習して、何とか授業を受け持ち、クラスは盛り上がれるように努力してみました。世界史の復習は思ったようにはかどらず、新年度の分掌希望に「土木科3年副担任」として提出しました。世界史は何とかクリアーして、教科会議で希望して実現し、クラスは副担任に決まりました。正担任には、土木科から小幡先生が抜擢されて、3年B組は「小幡/大森」コンビです。A組は1年から持ち上がりの「小山先生と平田先生」です。
3年生になってもこの両クラスは仲が良く、教室の壁が邪魔なくらい自由自在に出入りしていました。まるで1クラス80人の生徒がいて、担任が4人いるようなものでした。生徒たちは必要に応じて、AからもBからも区別なく、4人の担任の誰かの指導・援助を求めていたようです。
3年生の2学期ころに、私のクラスで、危うく退学になりそうな事件を起こした生徒がいました。どう考えても「無期謹慎」ではすみそうになかったのですが、まず私が救済を決心しました。生徒課長は手強い中原先生です。問題を起こした生徒は、土木科の先生方には扱いにくい子だったようですが、私にも、できればその子を避けようという思いはありました。その邪心を断ち切って、残り半年ほどの高校を卒業させてあげたいと強く願うように回心して、担任の小幡先生とそのことを誓い合い、今度は隣のクラスの担任方を説得し、さらには土木科へも援助を求め、一応、担任団と科の意志は1つにまとまりました。全職員が参加する指導会議で担任の私は、まるで「ソクラテスの弁明」を彷彿させるような(と自負していますが)演説をしました。難攻不落だった生徒課長対策は、最後は浪花節しかありません。この生徒が入学した当時から、扱いにくいのでなるべく避けるようにしていたことを白状し、教師として真摯に指導しなかったことを詫びました。その上で、「もう一度私にチャンスを与えてください」と、懇願しました。会議の結果は、圧倒的多数で「無期謹慎」になり、退学勧奨は免れました。生徒本人はもちろん、保護者からも大変感謝され、学校と家庭の連携も強化され、本人も真摯に指導に従い、無事、卒業できました。
小幡先生の精力的な進路指導のおかげで、大学進学希望の生徒も就職希望の生徒もそれぞれ、順調に進路が決まり、1987年3月1日にめでたく卒業していきました。