自叙伝04-05
【土木科復帰とウエイトトレーニング同好会創設】
話を少し戻します。私は岡工に赴任してしばらくは放送部の顧問をしていました。放送部は高梁工業以来です。高梁では木造校舎の屋根裏部屋に小さなスタジオがあり、そこが部活動の場所でもありました。ときどき、全校一斉回線のマイクが入ったまま部員とおしゃべりしていて全校の笑いをとったこともありました。岡工では共通科(普通科)職員室の隣というか向かいにきちんと司令室のついたスタジオがありました。スタジオの管理は電子科(のちの情報技術科)がしていて、鍵は共通科職員室の入り口に常設しているのを借りて使えばよかったのですが、部屋の使い方に関してはしょっちゅう電子科からクレームがついていました。「放送室は学校の中枢だから、生徒が自由に出入りすべきでない」などと言われました。それでも放送部員たちはしっかりしていて、顧問の私はほとんど名前だけの存在でした。部員たちだけの親睦会などには顧問を呼ばないで、部員だけでやるのが伝統のようで、この点が高梁工業と大きく異なっていました。高梁では顧問の私はいつも部員と一緒でした。
備前高校ボート部でウエイトトレーニングを導入したことは以前に書きました。岡工へ転勤するとボート部はないので、トレーニングしたくてしょうがない私は、帰宅途中少々回り道して、岡工から徒歩10分ほどの所にあるスポーツジムに通っていました。それを知った土木科1年の生徒が2人ほど「先生と一緒にしたい」と言ってきて、3人でやっていました。そこはOSKというジムで、スイミングスクールが本命でしたが、トレーニングルームも広くスペースをとっていて、一応必要なだけのバーベル、ダンベル類は揃っていました。あるとき、岡山市民会館で文学座の公演があり、私は市民劇場の会員でしたので、当日(夜の部を)観劇に行く予定でしたが、市民会館へ行く前にOSKでトレーニングしていると、文学座の高橋悦史さんがトレーニングされていました。開演前の準備運動だったのでしょう。私は思い切って話しかけて、サインをいただきました。その夜の公演は、「おりき」という作品で、原作は樋口一葉の「にごりえ」です。この作品は昔、淡島千景さん主演で映画にもなっています。映画では相手役の間夫(まぶ:遊女の愛人)を宮口精二さん、その女房を杉村春子さんがやっていました。今回の上演では、酌婦のおりきを太地喜和子さん、間夫で愛想づかしされた男を高橋さんが演じました。2人はラストで無理心中します。劇場では、さっきまでジムに一緒にいた高橋さんが舞台で熱演されているのを見て、不思議な感動を覚えました。太地喜和子さんは惜しいことにその後まもなく、不慮の事故で亡くなられます。映画「男はつらいよ」にも1作出演されています。播州竜野の艶っぽい芸者さん役でした。
しばらくOSKでトレーニングしていましたが、そのうち、もっと岡山駅の近くにオリンピアという個人経営のジムができました。ほとんどの会員さんがそちらへ移籍しました。器具類が充実していて、駐車場も建物の真ん前で広々としていました。私は少し遅れて移籍しました。ここは新型マシーンも入っていて、バーベル・ダンベルも多種類ありましたから、トレーニングの量質ともグンと本格的にできるようになりました。冷暖房がないのが欠点でしたが、それはしのげました。
84年度は、分掌が民主教育指導室から進路指導室へ配属替えになり、石原・細川両先生と話していたことがわが身にふりかかった感じでした。私が共通科職員室を出された形です(笑)。私が進路指導室へ行くと、課長は森本先生が退かれ、建築科の浮田先生に替わられていました。他のスタッフは、備前高校でご一緒したことのある理科の佐藤先生、電子科の沖島先生(のちに倉敷工業高校校長に)、機械科の青江先生、化学工学科の武田先生、私、それに秘書の西島葉子さん(人妻でした)だったはずです。その後メンバー変更があり、佐藤先生は教育相談室へ移動され、沖島、青江、武田各先生はそれぞれの専門家へ戻られて、電気科から矢田部先生、数学の小野先生、化学工学科の西田先生が見えます。佐藤先生在任中の大仕事は、それまでなかった「進路指導マニュアル」の製作でした。夏の求人開始から秋の就職試験本番までの、書類作りから企業への対応などの手順がことこまかくまとめられた進路指導課のバイブルを仕上げて、佐藤先生は教育相談室へ移られました。矢田部先生が見えてからの大仕事は、書類の電子化でした。求人票をすべてコンピューターに打ち込むという大改革をされて、そのおかげで、膨大な書類棚が一掃されました。私は進路指導課に3年いました。その後、先に教育相談室へ行かれた佐藤先生に誘われて、念願だった教育相談室へ移動します。これは3年のちのお話です。
担任は再び土木科1年B組です。ところが今度の土木科は4年前とまったく雰囲気が違います。4年という年月の経過と関係あるのかないのか、坊っちゃんぽい子や、シティボーイふうのおしゃれな子たちで、みんな素直でかわいかったです。高梁工業でやっていた班活動がこのクラスではとてもうまくいき、清掃から学習や行事まで、班を中心に生き生きと活動できました。いかにも“学校!”という感じです。長瀬君という超まじめな生徒が学級委員長で、この人はいかに真面目であったか、エピソードがあります。あるとき、服装検査があって、学年全員が小体育館に集合してチェックを受けました。長瀬君はどう見ても違反はなかったのに、ごくごく些細なことで指摘を受けたようです。学生服のカラーがどうのだったか、頭髪がどうのだったか忘れましたが、違反を指摘されたあと教室へ戻って、納得がいかない様子で、一生懸命、生徒手帳の服装規定を読んでいました。私が「今日のところは引き下がっておこう。また反論できる機械もあろうから」と説得して、やっと納得してくれました。このクラスは、こうした小さな不満を、さまざまな活動で成功することによって、別の面で高い評価を得るという建設的な補償をしましたから、反抗的になるようなことはありませんでした。特に2年生では学校を代表するというか歴史に残る評判のいいクラスになりました。
隣のA組の担任は若い英語の小山先生で、生徒はわがB組よりもっとおとなしい連中がそろっていました。土木科1年生は2クラスとも落ち着いていてとてもまじめでした。
学年半ばのことです。ウエイトトレーニングを私と一緒にしたいと言う生徒が増えてきて、同好会を設立しようということになりました。発起人を募ったところ、AB両クラスのほとんどの生徒が賛同してくれました。それを添えて生徒会に申請しました。顧問は私です。ところが担当者がのらりくらりで、いつまでたってもラチがあきません。しびれを切らした私は、和田校長に直訴して事情を説明しました。直ちに校長が担当者の背中を押してくださり、あとはトントン拍子で「ウエイトトレーニング同好会」が成立しました。同好会は生徒会の予算をいただかない上、校内の施設は使わず、民営のオリンピアを格安料金(1か月大人8千円のところを同校会員は千円)で借用しました。これで学校が反対する理由はないでしょう。当初どっと押し寄せた会員は次第に減少して、20人弱くらいに落ち着きました。同好会が使用する時間帯は、一般会員がまだ仕事中で、ジムはがら空き状態です。たとえ低料金でも岡工ウエイト会員が利用すれば、ジムの売り上げ向上にもなり、オーナーはこちらの要望を快く受け入れてくれた上、コーチまでしてくださいました。私は部活動の指導ということですから、4時を過ぎたら学校を出て、徒歩10数分くらいでジムに駆けつけ、会員とともにエクササイズをしました。そのときの会長はわがクラスの藤原基晴君でした。彼は、卒業後もトレーニングを続け、その後、岡山県を代表するボディービルダーに成長しました。毎年来る年賀校には毎年ビルダーパンツ姿の勇姿が載っています。
翌年はクラス替えをしないで、1年の状態のまま持ち上がろうという雰囲気でしたが、学校の方針でそうもいかず、クラス替えになりました。それでも両クラスの質に変化はありません。担任の小山先生&大森はそのまま持ち上がりました。