自叙伝04-04

【引っ越しと機械科3年C組】
 翌82年度の担任・分掌希望表に、分掌は「一任」と書き、担任希望欄は半分冗談で空白で提出していました。実際には分掌は、古巣の民主教育指導室へ戻ることになりました。それも西岡先生と一緒です。視聴覚室の瀧上先生が、「2人も引き抜かれた」と残念がられましたが、仕方ありません。
 担任がなくて、分掌と授業だけの1年は、勝手なことを言うようですが、無味乾燥なものでした。
 この年の暮れだったかにわが家は引っ越ししました。総社市から越してきたばかりの家は、西大寺駅から東へ徒歩5分くらいにある2軒続きの長屋が3棟あるうちの最北の1棟西半分でした。西側に用水が流れていて、北は一面の田んぼでした。その後、すぐ北に大きな団地ができて田んぼは埋まります。越してきた当時、国道2号線バイパスの西大寺エリアが工事中で一部が未開通のため、わが家の側の用水沿いの狭い道を短絡路として大型トラックが終日走り、その排気音のやかましさで、慣れるまでは睡眠不足になくくらいでした。それでも我慢をしていると、思っていたより早めに工事が完成して、その後はそれまでの喧噪がウソみたいに静かになりました。
 ある日のこと、わが家の東よりの跨線橋の袂に立派なお屋敷の新築工事が始まりました。たまたま大家さんがわが家へ見えていたので、母がたずねました。「あれはどこのおうちですか?」。大家さんは、「これまで駅前に住んでいた娘夫婦の新居です」と答えられました。才気煥発の母は、すかさず、「では、あの駅前のおうちはどうなるんですか?」とたずねました。「借家にでもしようと思う」「それなら是非うちに貸してください」「それはかまわないけど、ここと同じ家賃(3万円)というわけにはいかない」「いくらですか?」「5万円はいただきましょう」「大丈夫です。貸してください」というわけで、その年の12月に、もっと駅に近い、というか、西大寺駅前広場の横断歩道を渡ったところの、庭付き車庫付き一戸建てのおうちに引っ越すことになりました。家の構造は、西に引き戸の玄関の間。廊下があって、北半分はトイレ、お風呂、ダイニングキッチン。南半分は8畳のリビング(洋間)、6畳和室、3畳和室。さらに南側には、昔の農家ふうの長い縁側がありました。台所の外にはゆったりした物置があり、南の縁側の外は芝生の庭でした。シャッターの下ろせる車庫があり、やがて購入するフェアレディZがきちんと収納できます。屋根には太陽熱温水器が付いていて、晴天の日はほとんど沸かさないでもお風呂に使えました。
 家の事情は激変しましたが、職場では波風の立たない1年を終えました。
 83年度には、元の機械科へ復帰して、3年C組の担任になりました。クラス替えがありますから、1/3はメンバーが変わりました。1年生のとき、A組にもB組にも、苦手は生徒がわずかいましたが、3年生になるとその子たちがクラスにいました。まさに怨憎会苦です。それでも、教師たる者生徒のえり好みをしてはいけないと、心を入れ替えて、その苦手だった生徒たちにも胸襟を開いて接していくと、何も問題はありませんでした。菊山君は他のクラスへ行きましたが、中田君はまたわがクラスです。
 夏休みに、岡崎睦君という生徒の提案で、「青春18切符」で京都へ一日旅行しました。参加メンバーは、岡崎君の他、木山君、川柳君、関口君の4人です。当時は青春18切符は5枚綴りで1万円でしたから、1人2千円で「普通&快速」1日乗り放題でした。岡山から姫路行きの普通に乗り、姫路で新快速に乗り換え、京都に行きました。あちこち歩き回りましたが、どこへ寄ったか忘れました。四条大橋を5人で渡ったことは覚えています。大橋の西北あたりのお好み焼き屋で食事をしました。高梁工業時代に生徒たちと遊びまくったのを思い出しました。まさか岡工でこんなことができるとは予想外のことでした。
 共通科職員室の東端中央には教頭席があり、その南前に民主教育指導室(室とは名ばかり、ワンコーナーです)、その南に交通指導課が配置されていました。この年に赴任された国語の細川公之先生は交通指導課でした。細川先生は東京の二松学舎大学の出身で、漢文・古文が得意分野でした。ふとしたことから、お互いに(三代目)市川猿之助の歌舞伎が大好きだということが知れて、それからは暇さえあれば、職員室の真ん中で身振り手振り付きの歌舞伎談義です。そのうち、小倉百人一首の話に発展すると、同じ交通指導課の石原先生も加わって三つ巴です。誰かが下の句を言うとその上の句を当てるというゲームに発展していきました。例えば、「からくれないに みずくぐるとは」と言うと、「ちはやふる かみよもきかず たつたがわ」とやるのです。とにかく3人が顔を合わせると、歌舞伎か百人一首の話で盛り上がり、周囲の先生方もあきれ気味で、「この調子だと、来年度は誰かがよそへ出されるぞ」と不安も抱きました。
 機械科3Cでは穏やかな日々が続き、11月初めの岡工祭を迎えます。中田君たちに動きはありません。中田君は私をチラッと見て、「先生がしてほしそうにしているから、マクドテリア2をやるか」と言って、たちまち1年生のときのようにグループができて動き始めました。また、中央廊下脇の一等地を確保できて、2年前にも優る模擬店ができて、大成功しました。いやはや彼には頭が上がりません。
 就職・進学指導に関しては、機械科が全部やってくれるので、担任の私は、履歴書などの書類書きの指導をするだけでした。進路指導課長は、土木科の紳士・森本先生で、受け持ち生徒の進路に関してたびたび進路指導室に出入りするようになると、その森本先生に「この分掌に自分も来たい」と漏らしたりしていました。就職に関して思い出すのは、一緒に京都に行った川柳君が、念願の阪急電車の運転士に合格したことです。彼は履歴書の「志望の動機」欄に、「子どものころから電車の運転士になりたかった」と書いていました。この飾り気のない率直な文が決め手になったのでしょう。長く進路指導課で話題になっていました。
 卒業式の前日に、和田道男校長が職員朝礼で、「先生方、明日の卒業式は(日ごろのジャージでなく)ネクタイは締めてきてください」と言われました。私は、ネクタイを締めなかったらどうなるのかと、心の中で不遜なことを考えるうち、名案が浮かびました。「そうだ、和服にしよう」。帰宅して母にたずねたら、羽織の紋付きで適当なのがないと言います。すぐに妹が花嫁衣装を借りた岡工近くの貸衣装屋に電話して、次の日のために紋付きと袴を予約しました。当日、式場への移動のかなり前に、相担任の皆木先生にクラスをお願いして、私は衣装屋で着付けをしてもらいました。白足袋、草履、扇子も借りて、和服の正装で、愛車のフェアレディZに乗って学校へ戻りました。体育館まで卒業生を誘導していく担任で、紋付き袴姿は私だけで、誰もがびっくり仰天していました。総指揮をされていた体育の佐藤先生は半分あきれているようでしたが、それでも「さあさあ、入って」と指定席に誘導してくれました。
 翌日、私はまたまた校長室へ呼ばれました。「大森先生、まいりました。あれ以上の礼服はありません」と和田校長は兜を脱がれました。1984年3月のことでした。


 当時の愛車フェアレディZ(ナンバーが気に入らないのでのちに替えてもらいました→確か、「す・・・3」だった)