自叙伝04-03
【視聴覚係と機械科担任】
80年代には岡山工業高校機械科はA組~C組まで3クラスありました。81年度に私は機械科1年C組を受け持つことになり、土木科からは一旦離れます。ということは、また戻るということです。
A組は英語の藤原先生という若い方。B組は機械科の中堅でいらっしゃる小松先生。そしてC組が私です。それぞれ相担任がついていて、C組は機械科の皆木先生という筋金入りの職人さんタイプの熱血教師でした。他の組の相担任は忘れました。失礼しました。しょっちゅう機械科の学年別会議を開いていましたが、当然大所帯です。機械科長が立ち会われると総勢7人です。小松先生がリーダー格で、きちんきちんと大所高所から提案されるので、この会はまことにスムーズに運営されていました。クラスの雰囲気は、久しぶりに、いかにも“学校”という感じのなごやかなものでした。幸い、保護者も私には好意的で、ホームルーム運営は、高梁工業デザイン科以来の楽しくやりがいのある仕事となりました。土木科担任時代と同様、考査前には、数学と英語の補習をしました。これも大変好評で、わがクラスだけでなく、隣のクラスからも何人も参加してくれました。ほんとに、どの子たちも勉強をわかりたいと強く願っていることがよくわかります。お勉強がわかれば、授業中に劣等感を味わう生徒もいなくて、当然クラスは安定します。おかげで、この1年間、何ら波風もなく無事に業務をこなすことができました。
分掌は、民主教育指導室から視聴覚係へ移動しました。共通科職員室を出て、AV(アダルトではありません。視聴覚機材のことです)設備のある「視聴覚教室」に隣接する「準備室」が職員室でした。スタッフは、室長の瀧上先生(電気科の超ベテラン)の他、馬場先生(芸術家・音楽の若手)と毛利先生(理科・物理)と、同期に赴任した西岡先生(英語)、それと私です。テレビが常設されていて、流し場と冷蔵庫があって、簡単な炊事ができました。スタッフはそれぞれがとても個性的で、お1人お1人説明していくときりがないです。私は同期生の西岡先生とウマがあって、よく行動をともにしました。彼は陸上の長距離走が得意で、しょっちゅう総合グラウンドの周囲を走っていました。マラソン選手のようなスリムなボディーでした。
この年は、岡工創立80周年の記念の年で、視聴覚係の主な仕事は、さまざまな記念品をスライド写真に収めて整理することでした。前任校の備前高校時代から、私はドリップでコーヒーを立てる趣味があり、この視聴覚準備室でも、毎日良い香りのコーヒーを立てて、スタッフに楽しんでもらっていました。初回は久しぶりだったため、コーヒーの量を間違えて、とんでもなく濃厚なのができあがりました。それまでインスタント専門だった瀧上先生は、ひと口ふくまれて、ブーッと吹き出しました。「わー、こりゃ重油じゃ!」と。それ以後は、適量を思い出して、ちゃんとしたものを召し上がっていただきましたが、瀧上先生にはあの濃厚なのがトラウマになったみたいです。音楽の馬場先生は、同じ赤穂線利用者で、ほぼ毎朝、岡山駅西口から岡工までの徒歩10数分の道のりを並んで歩いて出勤しました。道中あれこれ世間話をします。当時、加藤登紀子の「ほろ酔いコンサート」というのがあって、登紀子さんは缶ビール片手に歌い、聴衆も缶ビールを飲んでほろ酔い気分になって、「知床旅情」などの名曲を楽しんだそうです。友人からその話を聞いていて、自分も一度行きたかったと、馬場先生に話すと、彼は登紀子さんよりも松田聖子がお好きだと話されました。世代のズレを感じました。
視聴覚係の宴会で、ふとしたことから、私が得意の「端唄」を披露したところ、これが受けに受けて、以後は宴会ごとに必ずやることになりました。他の方々の出し物がすべて終わると私が大トリです。「槍さび」や「びんのほつれ」、「さのさ節」、「縁かいな」「青柳」などの端唄の持ち歌の他、「都々逸」などを得意げに唄っていました。
機械科1Cの生徒たちの名前を少しずつ思い出しますが、まずは菊山君と中田君です。成績がトップというわけではありません。菊山君は、保護者会以後、お母さんが私を大変気に入ってくださって、大のファンになってくださいました。何かにつけて応援してくださり、役員会などでは校長に私のことをベタほめ。あとで和田道男校長が私を校長室へ呼んで、「大森先生にはすごいファンがいますね」とおっしゃいました。この和田校長時代に私はしょっちゅう校長室へ呼ばれていましたが、悪いことをして注意を受けるのではなくて、だいたいお褒めにあずかることでした。
最高のエピソードとしては、岡山県がそれまでの人権教育の名称を他県の「同和教育」でなく、「民主教育」としていたのを、いよいよ全国と同じ「同和」に統一しようということになったときです。岡山県が「民主教育」と名づけていたには理由がありました。それは同和問題に限らず広く人権問題の解決を目ざす教育というような意味からだったと聞いてきました。職員会議で諮ると、ほぼ全職員が名称変更に反対の立場を表明しました。和田校長は独裁的な方ではなかったので、職員1人1人の考えをじっくり聞いてくださいました。私は、とっさに、担当していた科目「現代社会」の資料集にあったマルティン・ニーメラー牧師の言葉を思い出したので、それを引用して発言しました。要約すると、「小さな動きの変化を見逃すと、あとで大事を招く」ということになるでしょうか。このたびは「民主教育」の名称変更に反対の立場から発言しました。「たかが名称と、軽く見てはいけない。こういう小さな動きを見逃すことでのちのち手の付けられない大事(圧政?)を招きかねません。私が担当している「現代社会」の資料集に次のような一節がありました。ご紹介します」と。
オリジナルは次のとおりです。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
政治学者の丸山眞男は1961年の論文「現代における人間と政治」(1961年)の中で、上のを引用として紹介し以下のように訳した。丸山眞男の著書は、大学で政治学のテキストとして半田教授が使われました。私も受講して試験を受けましたが、評定は「良」でした。合宿と遠征でじっくり勉強していませんでしたから、と言い訳。
ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。
— 丸山眞男訳、「現代における人間と政治」(1961年)
「現代社会」の資料集にあったのは、丸山版のようです。
結局、和田校長の在任中は名称変更しないことになり、次期校長の意志に委ねることに決定しました。後日、例によって校長室へ呼ばれて、「大森さん、まいりました。ああいう資料を引用されて反対されたら無理押しできませんでした」と。
話を元に戻して、菊山家のお商売は、南高校の近所でお父さんが自動車整備工場を経営し、その側でお母さんが喫茶点をやっていました。私がのちに見栄を張って、フェアレディーZの中古を買って乗るようになってからは、この工場で点検や車検をお願いしました。さらに、Zを処分して今度は、クラウンの3000ccの中古をここで買って、何年か乗り回しました。当時岡工には私の他にお2人の先生がクラウン3000ccをご利用でした。
菊山ご夫婦は絵に描いたようなおしどり夫婦で、子どもさんにとても好影響を与えていました。卒業後、彼が結婚するときは、私が仲人を仰せつかりました。離婚していた私は、元妻に頼んで、一日だけ夫婦を復活して、カップルで大役を務めました。任務が終わると、またバラバラの生活に戻ります。当然ですが。披露宴では仲人として異例ですが、新郎新婦にインタビューをしました。菊山君を私が担当し、新婦を元妻が担当しました。新郎へのインタビューでは、「彼女を選んだ理由は?」とたずねたら、彼曰く、「この人なら両親を大事にしてくれると思いました」でした。彼は私が担任しているとき、バイク免許の無断取得がばれて、謹慎指導になりました。そのときの両親の対応もとても紳士的で、子どもに対して「やさしく、きっぱり」反省を促していました。ずっとのちになって、菊山君が自動車保険のセールスの仕事を始めると、もちろん私も契約しました。ある事情でどうしても他の会社に変更せざるをえなくなって、強引に変更したことから、それ以後菊山家とは疎遠になりました。現在はおつきあいはありません。
中田君は、菊山君と仲好しでした。ご両親はレストランを経営していました。彼が大活躍したのは、秋の文化祭でした。このころ岡工では、文化祭を岡工祭と名称変更していました。私は「文化祭」のほうが好きでした。この名称変更の立役者だった徳山先生とは仲好しでしたので、受け入れざるをえませんでした(笑)。C組では、中田君が中心になって、出し物を企画して、「マクドッテリア」というファーストフード店にすることになりました。場所は中央廊下の最も人での賑わう一等地が与えられました。担任は何もしなくてよかったです。全部クラスがリーダーの指揮下にテキパキ動いて、私は買い物に出る生徒に「外出許可証」を発行するだけでした。食券を作って販売する人、店番する人、料理を作る人、会計係…と、見事なチームワークで、お店は大繁盛。相当な額の売り上げがありました。生徒会への上納金を納めて、残りは学級費に入れて、のちのクラスの催しに使いました。