自叙伝04-02
【着任初年度の担任と分掌】
岡山工業高校で最初に担任したのは土木科1年B組でした。私は、工業系のクラスは2番目の赴任先・高梁工業高校で担任をしていました。次の備前高校でも担任は普通科でしたが、授業は機械科、化学工学科、窯業科も担当しました。ですが、一番の修羅場は高梁工業高校でした。「土木科」は岡山が初めてで、生徒たちの気質を理解するまでに時間を要しました。都会のおしゃれな子が多い反面、他の科とは違う独特の雰囲気があるようでした。土木科の先生方はそれぞれ個性的で、いかにも土建屋さんという貫禄の方もいらっしゃれば、英国ふう紳士のような方もいらっしゃって、お1人お1人がマイスターという感じでした。隣のA組の担任M先生は英国ふう紳士でした。穏やかなもの言い、立ち居振る舞いですが、それで生徒がよく言うことを聞きます。私のクラスは一応きちんと指導には従ってくれて、授業も円滑に進められました。クラス内は大雑把に、3つのグループに分かれているようでした。まず、「超真面目組」が2割ほど。次に、もの言わぬ「だんまり組」が7割。そして、「活動組」が1割です。あの、「2:7:1の法則」のまんまです。だんまり組の中に、この活動組の「パシリ」をさせられる子もいたようです。相担任のA先生は、定年間近のベテランの数学の先生でした。私は何と言っても初心者ですから、生徒の動向については、当初は相担任の情報をそのまま受け入れて動いていました。そのうちわかってきたことは、この先生は、ただのパシリ役の子を、真のボスだと読み違えていたことです。この子はいわばお調子者で、すぐ目立つために、ボスと間違えられたのでしょうか。新任の私に常々、「あの子に気をつけろ」とおっしゃっていました。違います。ほんとのボスは目立たず、裏で「だんまり組」をパシリに使って自分たちは手を汚さないようにしていました。2学期にクラス内で、恐喝めいた事件が発覚しました。数人の生徒が特別指導を受けることになりました。謹慎指導になった生徒の面倒を見るのは、高梁や備前で十分経験を積んでいて、そのことは大して負担には感じませんでしたが、保護者への対応に苦労しました。高梁や備前ではなかった苦労です。ボス格の1人の母親などは、典型的な「うちの子に限って」をやってくれます。相担任がすっかり騙されるくらいですから、親には「いい子」をやっていたのでしょう。それでも生徒は、指導には一応素直に従ってくれて、無事に謹慎指導は明けました。
このクラスでは、1学期の中間考査の前に、「因数分解」がわからないという生徒が何人かいましたので、補習を企画すると、多数の生徒が残ってくれました。メンバーはほとんど、だんまり組と活動組でした。科目としてリクエストが多かったのは数学と英語です。私は英語は大学で副専攻でしたから大丈夫でした。数学は最も丁寧に書かれている参考書の助けを借りて、かなり苦戦しましたが、因数分解から二次方程式、連立方程式、三角関数、対数と、2学期も3学期も続けられました。
3学期になって、各休憩時間の様子が変だと気づきました。教室にいるべき生徒たちが何人か廊下などをうろうろしているので、様子を聞くと、「教室内が乱闘状態で、とてもいられない」とのことでした。急いで教室へ駆けつけると、何事もなかったかのように整然としています。だんまり組の連中がみな下を向いています。活動組は、わざとらしいそ知らぬ顔です。いくらか室内が散乱しています。この“イタチごっこ”がしばらく続くうちに、私が午後の授業に行くと、教室の床のタイルが何枚かはがされています。様子を聞いても全員お口にチャックで、何も言ってくれません。放課後の掃除時間に、当番に混じって私1人ではがされたタイルを元の位置に戻しているうちに、徐々に手伝ってくれる生徒が現れました。深く深く感謝して、手伝ってもらいました。この件に関しては、放っておくこともできず、生徒科長と土木科長にお願いして、ホームルームで注意をしていただきました。それも一向に事態は変わらないまま、重苦しい雰囲気でこの年度は終わりました。
私は、このクラスは断念して、翌年度には他の科の担任を希望して、機械課1年C組を受け持ちました。同期に赴任した先生の中に、若手の国語のK.M.先生がいらっしゃいました。大阪府の方ですが、岡山県の採用試験に合格して、岡山工業高校に着任しました。分掌は交通指導課でした。さわやか・フレッシュで長身の先生は、生徒たちの人気の的でもありました。その先生が、土木科2年B組の担任を強く希望して、実現しました。私のあとを受け継いでくださったのですが、最初の情熱はまたたく間に冷めて、ずっと岡工に務めると言っていたにもかかわらず、この年度を終えると、大阪府へ帰ってしまわれました。
初年度の分掌は、民主教育指導室で、人権教育(当時は同和教育)を担当する分掌でした。「室」と言っても、独立した部屋ではなくて、広い「共通科職員室(他校では「普通科職員室」と言うのでしょう)の教頭席の側のワンコーナーでした。北隣に「教務課」が、南隣に「交通指導課」や「生徒課」が控えていました。民主教育室長はこの道の大ベテランの英語担当教師O.Y.先生でした。他に、ベテランの国語教師N.I.先生がいらっしゃって、この方はのちに校長になられます。例のタイルをはがした土木科1年生の1学期の授業で、「えもいわれぬ」というフレーズを使って文を書かせたら、その中に「大森先生は、えもいわれぬ良い先生だ」というのがあったと、私に教えてくれました。小柄な方でしたが、情熱的でしかもスマイルを絶やさない素敵な紳士でした。
室長は思想的にはずいぶん左寄りの人のようでしたが、英語の授業の工夫が素晴らしかったです。キング牧師の演説「I have a dream.」を利用されたことがあります。生徒の感想文がどれも素敵でした。英語の授業でこんなにも生徒が感動するのかと、あらためてこちらが感動しました。
民主教育指導室の大きな仕事としては、毎学期の同和教育(当時は岡山県では民主教育と呼ばれていましたが、数年後に全国統一名称の同和教育に名称変更されます)ロングホームルームと職員研修の企画・立案・実施でした。職員研修で特に印象に残っているのは、滋賀県からお招きした東上高志先生でした。彼から聞いた言葉で覚えているのは、歴史の経過で、古くは「1人もしくは少しの人の権利」が保障されていたのが、「多数の人たちの権利」に広がり、そして今は「すべての人の権利」が保障されなければならないということでした。憲法14条に「1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とあります。
この室長さんのモットーは「人権教育は研修だ」ということで、おかげで私は県内はもちろん全国規模の研修会にたくさん出席させていただきました。京都へも名古屋へも滋賀へも行きました。どこだったか忘れましたが、あるとき小沢昭一さんが講師で見えていました。彼は、ラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的心」のパーソナリティーでも有名でした。全国の大道芸や門付け芸人の研究のため、全国を回られたお話をなさいました。盲目の瞽女(ごぜ)のお話が特に心に残っていますが、細かいことは忘れました。
翌年度は分掌変更で、民主教育指導室を離れて独立部屋の「視聴覚教育室」の配属となりました。担任クラスは、今度は機械科1年C組です。