04-01
【岡山工業高校へ転勤】
 備前高校に変化がありました。普通科が分離して新設の備前東高校に移転し、工業科だけの小規模校になりました。普通科は新規募集をやめて、在校中の学年が残ります。年々生徒数が減っていくにつれて、職員も、あるいは備前東高校へ、あるいは市外の他校へ転勤していきました。私自身は半分残りたい、半分替わりたいという思いで1979年の3月を過ごしていました。
 下旬になって、大阪の梅田コマ劇場(旧)へ朝丘雪路のお芝居を観に行きました。木村功さんという名優と共演で、京都の花街が舞台のお芝居でした。木村功さんは数々の映画で好演されていて、中でも黒澤明監督の「七人の侍」の若侍や、中村錦之助が武蔵をやった内田吐夢監督の「宮本武蔵」での武蔵の友だち・本井田又八が印象に残ります。彼はこの大阪公演の後、1981年7月4日(満58歳没)に癌で亡くなられました。貴重な舞台を観ることができました。
 帰宅すると、母が慌てて、「学校から転勤の知らせがあったよ」と言います。早速問い合わせてみると、「岡山工業高校へいついつ面接に行け」とのことでした。
 3月下旬の某日、何度かは出張で行ったことのある岡山工業高校の玄関を入ると、以前、高梁工業高校でご一緒した清水直道先生(高梁では工芸科=インテリア科。岡工ではデザイン科)とばったり出会いました。清水先生「あー、久しぶりですねえ。どうされました?」。浩「こちらへ転勤になって、面接に来ました」。岡山工業高にはボート部はありませんが、岡山駅西口から徒歩10分強という通勤便利の良さもあり、この転勤をとても喜びました。
 校務分掌は「民主(同和)教育指導室」で、スタッフは室長の他、同時に赴任したN.K.先生と私の3人です。本館2階の広々とした「共通科(普通科)職員室」のワンコーナーに「民主教育指導室」がありましたが、独立した部屋ではありません。担任クラスは、土木科1年生B組でした。部活動は希望どおり「放送部」になりました。放送部は、高梁工業以来です。授業は、1年生の「地理」が3クラスと3年生の「倫理社会」が4クラスで、合計は週に17時間だったと記憶しています。
 記憶を辿ると、1年生の地理は、土木科A、B両組と電気科だったと思います。このうち、電気科は最も授業のやりやすいクラスでした。土木科は担任のB組も隣のA組もそれなりに成り立ちました。問題は3年生の倫理社会です。これは2単位で、4クラスを受け持ちます。着任早々の分担では、3年生は土木科A、Bと化学工学科と電子科でした。1年生も3年生も土木科があるのは、いわば“新任いびり”なのですが、当時、交通指導課長の中原素樹先生が社会科主任のK.T.先生を説得してくださり、1年土木科は担任があるためそのままで、土木科3年生A、Bを建築科3年生A、Bに変更してもらえました。
 赴任当初はご多分に漏れず、「なめられてはいけない」をスローガンにしていました。私の取った作戦は、無口でむっつり・こわもて教師で押し通すことです。
 高梁工業や備前高校での長年の体験から学んだことは、「年度最初の授業でその1年が決まる」ということです。そこで、4月の最初の授業では、自己紹介も雑談も一切なし。いきなり授業を始めます。生徒たちは、まさか最初から授業があるとは予想していなくて、教科書もノートも準備していませんから、ブツブツ文句を言います。「なんで授業をするん!」と。私は低い声で一言、「授業の時間ですから」。それだけ言います。ありがたいことに多くの生徒がきちんと準備をしています。私のほうは、生徒自らが教科書や資料集を使ってその日の学習を進められるように、プリントを用意しておきます。ただし、そのプリントは必要事項は自分のノートに転記してもらい、授業後は返却させます。「他のクラスの人も使うから大切に扱ってください」と注意しておきます。最初の授業でジョークなど飛ばしていると、その時点ですでに足下を見られるようです。次回の授業から早速ザワついて、次第にシメシがつかなくなります。これまでに何度も何度も苦い体験をしていました。
 備前高校では高梁時代に比べると授業の苦労は少なくなっていましたが、それでも時には指導の難しいクラスに遭遇して、大げさに言えば、世の中の不条理に絶望しかけたとき、同僚の若い先生が『老子』を愛読していることがわかりました。私も何気なく読み始めますと、すっかり魅了されて、担当科目「倫理社会」ではそれまでは省いていた東洋思想をきちんとやることにしました。原始仏教、中国の諸子百家思想とかです。寸暇を惜しんで『老子』を読み続け、逆説的な道家の処世法あkら、柔弱謙下・謙下不争の人生哲学を学びました。さらには『荘子』に発展し、ここからまたたくさんの知恵を授かります。その後アドラー心理学を学ぶと、老荘思想は土着思想だと教えられて、半分納得、半分困惑しました。今はいいとこ取りをすればいいと、自分をなだめています。
 『荘子・人間世篇』の“始めを順(ゆず)れば窮(きわ)まりなし”という一節が気に入って、授業でこれを文字どおり実践したわけです。少し長くなりますが現代訳で引用しておきましょう。

《引用》
 それにだね、と孔子はなおも語り続ける(荘子は、有名人の孔子の名を借りて自説を展開している)。お前の誠実さがこの上なく堅固で、他人の評判に心を乱されない自己の純粋さをもっているとしても、自己が誠実であり、純粋でありさえすれば、それだけで事が足りると考えるならば大間違いだ。対人関係においては常に相手の気持の複雑さや、人間心理の微妙さを洞察することが何より肝心だ。そうでなければ仁義道徳のお題目を暴君の前で述べたてて自己の正しさを相手に押し売りし、自己の善意で他人を傷つけてまわる結果になる。いわゆる「人の悪を以て其(おのれ)の美をほこる」――人の弱点を食い物にして自分の長所をひけらかすというやつだ。こういう手合いを苗人(さいじん)―─いつも周囲の人間を傷つけてまわる男─―という。他人を傷つけまわって自分だけ無事でありおおせるわけがない。お前もその独りよがりと善意の押し売りを用心しないと、とんでもない禍を受けるぞ。
 それにだよ。お前は権力者の前で人がいかに卑屈になるかということの切実な自覚がなさすぎる。あの衛の国の殿様は名うての暴君だ。もし彼が心から賢者を近づけて不賢者を遠ざけるほどの明君であるならば、今さらお前の言うことなど聞いて偉くなろうとする必要などないからね。その名うての暴君に向かって説得しようなんて、よしたほうがよい。よしたほうがよい。彼は王公の権力をカサにきて、お前の弱点につけこみながら逆にお前をやっつけようとするだろう。そうなるとお前は権力の前にたじたじとなり、目の色は落ち着きを失い、顔の色は変わり、口はもぐもぐと何か言いわけをしようとし、態度はへなへなとおとなしくなって、心は相手の言いなりになってしまうでしょう。そうなるとお前の説得も逆効果で、まるで火に火を加え、水に水をそそぐ羽目になる。いわゆる「益多(えきた)」―─輪に輪をかける―─というのがこれだ。
 一般に権力者に意見を述べる場合、「始めを順れば(ゆずれば)窮まり(きわまり)なし」─―最初にこちらが一歩を譲ると、その譲歩は果てしない譲歩となって、遂には取り返しのつかぬことになるものだ。何事も始めが大切だ。まだ相手に十分信用されていないのに、あの乱暴者の前でずけずけものを言えば殺されるに決まっている。……」(中国古典選12、荘子・内篇、福永光司訳、朝日新聞社)

・・・引用終わり

 1学期中はもちろん2学期も半ば過ぎまでは、授業でも廊下を通るときでも一度も笑顔を見せない。常にムッツリ。もちろん、授業中は雑談も世間話も一切なし。授業内容に関係ないことはまったく口にしない。おかげで、「陰険教師」「ムッツリ教師」「サド教師」などと陰口をたたかれました。2学期の終わりごろから少しジョークを言うと、生徒たちは「笑っていいんだろうか」と半信半疑です。ことらも常に緊張で大変でしたが、授業は何とかできました。