自叙伝03-07
【岡山大学ボート部7】
7 夜行急行寝台で早朝に東京駅に着くと、赤羽まで国電(今のJR)で行き、そこからはバスでした。京浜東北線の最寄り駅は蕨で、そこからもバスの便はあったようですが、われわれは赤羽で乗り換えました。現在は「埼京線」が通っていて、「戸田公園」で下りると戸田コースがすぐです。 戸田会場は64年に東京オリンピックが開かれるため、この全国選手権大会の後、全面改修されます。宿舎はコース脇の「ボート会館」という木造のぼろぼろの建物でした。ここには地方から参加したクルーがたくさん合宿していました。試合の1週間前から合宿しました。お風呂がないので、隔日に近くの銭湯に行きました。コックスの新谷君は漕ぎ手並みの立派な体格で、油断すると体重が増えるので、少しでも軽くしようと、お風呂に入れてみんなで出さないように抑えつけていました。洗濯物はほとんど乾かない。半分濡れたままのシャツで次の日の練習というのが当たり前でした。ラジオからは当時大ヒットしていた中尾ミエの「可愛いベイビー」が流れていました。コースは静水であるため練習がマンネリ化してスピードが鈍ると、キャプテン(整調の)水野氏のアイディアで、平行して流れる荒川本流に移動して、濁流に乗っかってスピード感を取り戻したりしました。が、艇を移動するには苦労しました。水を吸い尽くした愛艇は重くて、身長が一段高い2番3番の肩にずしっとかかるので、バウの三宅氏といつも楽しく口論です。彼の肩から艇が浮いていましたが、ご本人は無気になって否定されました。 戸田コースにて、水野氏とのひととき 16日の試合当日からはお天気が一気に回復しました。予選と準決勝を2位で通過して決勝戦へ上がりました。このコースでは、1つのレースに5艇並べるので、2位で次へ上がることができました。地方から苦労しての参加だったので、決勝へ出ただけですでに十分な満足感がありました。決勝戦はおまけのようなものでしたが、それでも「ここ一番」と、決死の覚悟で臨みました。それにしても2000メートルは長い。当時の記録ではまだ7分ほどかかっていました。スタートからトップの慶応大学はダントツで、グングン飛ばして5挺身はリードされました。その次を早稲田とわが岡山大が抜きつ抜かれつのデッドヒートです。後に日大だったかが続いていました。競技中はずーっと早稲田が横に並んでいて、抜きつ抜かれつ。生きた心地はしない。ラストの追い込みではもう死んでいました。ゴールインはほぼ同着みたい。選手一同ぐったりうつぶす。岸から藤原潔マネージャーがサインを送っているみたい。艇を岸に寄せると、「2センチ勝った。準優勝だ!」と叫んでいる。全員死んでいたのが即生き返ります。関東地区のOBが駆けつけて祝ってくれる。オールを片づけてビール大瓶のラッパ飲み。岡山のカトリック教会の信者さんで上智大学の高原照治さんに連絡をしたら、レースを見に来てくださっていました。彼もそれはそれは大喜びでした。操山高校3年生のクラスメート新田靖君が東京大学にいて、彼はボート部でコックスをしていて、岡山大学の準優勝を知って駆けつけてくれました。高校で同じクラスではありましたがほとんどおつきあいはなかったので嬉しかったです。 右から、三宅、大森、今村、水野、新谷 秋には、地元岡山では国体が開催され、ボート競技は児島湖で行われました。私も役員として競技のお手伝いをしました。モーターボートでスタート地点やゴール地点のブイを点検するのに、自衛隊員さんとともに働きました。このうち1人の隊員と特に気が合い、大会ののちも長らく文通を続けていました。お名前は忘れました。 自分たちの試合は、11月に瀬田川で関西選手権大会があり、全日本2位の貫禄十分に、見事優勝を果たしました。ラッキーだったのは、最強クルーの東洋レーヨン滋賀が国体に重点を置いて関西選手権に出場しなかったことです。当時の関西選手権は、瀬田の唐橋がスタートで、2000メートル漕ぎ下り、石山寺前がゴールでした。途中2か所カーブがあり、ここでの操舵技術が勝敗を分けると言われていました。わがクルーは柴田名コックスからの伝授で、全日本の後交代した渡辺修身君も見事に艇速を落とさずして2か所を余裕で通過しました。 決勝戦の様子 レース後着岸して優勝祝いの恒例で水に飛び込んだクルー。対岸は豪華な東レ滋賀工場の合宿所 1962(昭和37)年度は栄光に満ちた1年でした。そして私たちは引退の時期を迎えます。当時、私は同年齢ながら1学年下の行司伸吾君とウマが合って、彼の家の2階、彼の部屋の隣室(8畳和室)に下宿していていました。場所は原尾島で、現在の自宅のすぐ近くです。翌1963(昭和38)年度には、その行司君が水野氏に替わって新しいキャプテンとなりました。彼の強い希望で、私は4年生で本来は引退していますが、新シェルフォアークルーの「整調」に迎えられました。他の同期生は全員引退しています。朝日レガッタはそこそこの成績で終わり、続いて毎年恒例の学内レガッタに備えての練習が相生橋付近で行われました。津島キャンパスと鹿田キャンパス(医学部)両方からたくさんのクルーが参加します。5月下旬のある日、その練習中に相生橋下流の洗堰付近で、増水した水に艇が転覆し、手塚君という学生が行方不明になりました。さあ大変。部員職員総動員で、警察、機動隊、自衛隊(がいたかどうか?)による捜索が始まりました。昼夜を問わず和船、モーターボート、漁船などで現場から下流へと丁寧に探しますが、数日を経ても見つかりません。漁船では、延縄のようなものを川に沈めては川底をさらえます。夜間は照明弾が打ち上げられ、京橋付近は煌々と照らされます。私は和船で艪の扱いを覚えて、渡船の船頭ができるくらいに上手になりました。「真白き富士の嶺」の逗子開成中学の遭難の捜索が5日くらいかかったように、旭川での捜索もそれくらいかかりました。私は、6月からは教育実習が始まります。それまでに見つからないといけないと心配になったころ、京橋の1つ下流の桜橋の東岸で手塚君が遺体で発見されました。残念で仕方ありません。学内レガッタはシロウトさんが漕ぎますから、当然ボート部員がコックス席の後ろに乗って、まさかに備える体制をとっています。手塚君のクルーにも当然部員は乗っていました。それでも梅雨時の大雨で増水していた堰に接近しすぎてコントロール不能になってしまったのです。警察の取り調べで、不慮の事故という扱いになり、同乗していた部員の刑事責任は問われなかったようです。実家の山口県からご両親が見えていて、私たちはどうすることもできないジレンマを味わいました。それでも葬儀を終えて、ご両親は大学関係者全員に深く謝意を述べられて遺骨とともに岡山をあとにされました。 |