自叙伝03-06

【岡山大学ボート部6】

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 翌年1963年度には、鶴田、柴田両先輩が引退され、新たにコックスに新谷明義君(一年下)、同学年のドロンこと今村穣君が入りました。ポジションが少し変わって、ドロン今村穣君が3番に、三宅氏がバウになりました。私と水野氏は同じです。


 朝日レガッタ会場(琵琶湖)で。右から、今村(ドロン)、三宅、大森、水野、前列がコックスの新谷。

 このクルーは強くて、朝日レガッタで好成績だったため、岡山大学ボート部としては、初めて全日本選手権大会に出すことになりました。
 整調とバウは4つ年上ですからリーダーシップは抜群で、しっかりクルーを引っ張っていました。3番の今村と2番の私は年上の2人よりもそろって背が高く、艇をかつぐと2人の肩にずしっと重さがかかって、いつもブツブツ不平を言っていました。バウの三宅氏がそれにムキになって反論して、いつもささやかな楽しいトラブルがありました。


 地元旭川の艇庫前、クルーの総揃い 


 練習出艇前(3番の今村と2番の私の肩にずしりと重い愛艇Castor)

 「エンジンペア、アホでも漕げる」と茶化されながらも、ドロンと私は必死に漕ぎました。聡明な整調の水野氏は、東京大学の漕法を研究したりして、当時としてはずいぶん時代を先取りしたような練習をしていました。ウエイトトレーニングやサーキットトレーニングもやり、艇庫の前におんぼろのベンチを置いて、バーベルを使う筋トレもやりました。

 全日本選手権の会場は埼玉県戸田コース(2000メートル)です。ボート競技は自艇参加が原則で、地方からの参加するには開催地で艇を借りないといけません。いつもボロボロの艇しか借りられませんでした。絶対に不利!それで、岡山から艇を運ぶことになり、まずは運送会社の指示どおり梱包箱を作ったら、巨大すぎてトラックに積めなくて断られました。それで挫折。合宿練習中のわれら選手たちは行きつけのスナックで残念会をして、男泣きにおいおい泣きました。私は柴田さんに「泣くな!」とビンタを食らいました。痛かった。このあとは、藤原潔マネージャーが大活躍されて、大学の自動車部の全面的な協力によってわが愛艇を現地へ運んでもらえることになりました。晴れの自艇参加実現です。岡山大学農学部のトラックを借りることができて、運転は自動車部の中原耕作君という操山高校の同期生でした。不思議なご縁です。農学部のトラックを借りることに関しては、事務局の直木太一さんが好意的に動いてくださって実現したと、とになって藤原さんから聞きました。この直木さんは、あの直木和子・昭子姉妹のお父さんです。トラックには、中原君と藤原さんが乗りました。Castorが箱根を越えます。
 われわれ選手は、6月10日から15日まで現地で合宿して、16&17日がレースです。
 季節は梅雨の真っただ中です。夜行寝台急行の長旅でした。松本清張の『点と線』を買い込んでベッドで読みました。あまりに面白いので一気に読み終わりました。
 あらすじです。
 機械工具商会を経営する安田辰郎は、料亭「小雪」の女中2人に、東京駅の13番線プラットフォームで見送られていた。この3人は、向かいの15番線プラットフォームに、同じく「小雪」で働くお時が男性と夜行特急列車「あさかぜ」に乗り込むところを見つける。だが数日後、お時とその男・佐山は、香椎の海岸で情死体となって発見された。
 一見ありふれた情死に見えたが、博多のベテラン刑事・鳥飼重太郎は、佐山が持っていた車内食堂の伝票から事件の裏の真相を探るため、一人、捜査をすることにする。
 一方、佐山は現在社会をにぎわしている産業建設省の汚職事件の関係者であった。この事件を追っていた本庁の刑事・三原紀一は、心中事件を追って九州へ向かい、鳥飼と出会う。
 捜査の結果、2人は、東京駅で13番線プラットフォームから15番線プラットフォームが見えるのは、1日の中でわずか4分間しかないことを突き止め、安田を容疑者として追及しようとする。だが、安田には完璧なアリバイがあった。これから読まれる人のために、この先はカット。