自叙伝03-05
【岡山大学ボート部5】
1962年秋には、翌年春に医学部へ行く坪田君と福田君がメンバーから抜けるため、クルーの再編が行われました。私は今度はシェルフォアーの2番になりました。当時の岡山大学は花形のシェルエイトを出すほどの力がないのか、看板はこのシェルフォアーでした。クルーのメンバーは、コックス=柴田浩志先輩、整調(S)=水野久隆氏、3番=三宅一雄氏、2番=大森浩、バウ(B)=鶴田文夫先輩でした。 写真:11月琵琶湖瀬田川での関西選手権2位の記念:右から、鶴田さん、大森、三宅、水野、前列が柴田さん。 1位は当時無敗の「東洋レーヨン滋賀工場」でした。 このクルーのコックス・柴田先輩はとてもやさしく、個人的にもいろいろ面倒を見てくれました(2023年1月に他界されました)。彼は大学裏(福居方面へ通じる門の外)の家賃の安い学生用アパート(東雲寮だったか?)に住んでいました。ホテルのシングルルームよりも狭い部屋に備え付けのシングルベッド、あとは学習机と押し入れがあるだけのテレビも冷蔵庫もないアパートでした。隣室が空いたことを知って、私はそこへ転がり込みました。千日前という岡山一の繁華街というより、盛り場のど真ん中から今度は文教地区のど真ん中、大学の隣です。家賃は確か2000円くらいでした。家庭教師1軒で2~3000円にはなりましたから、余裕で借りることができました。年間のほとんどが合宿か遠征で、どちらに長く住んでいるかわからないくらいでした。合宿のないときの食事は、朝と昼は学食で、夜は家庭教師宅で出ました。洗濯は共同の流し場で手洗い。トイレは汲み取り式の共同便所。お風呂はアパート共同の大浴場がありました。家主さんのはからいで、ときどき全住人を集めてのコンパがありました。そのメンバーの中に、横山史雄さんという上級生がいて、彼は確か山岳部で、隠し芸に、「山を恋うる歌」という哀愁味ある歌を披露してくれました。熱心にくどいて歌詞を教えてもらって、わがボート部の愛唱歌に加えました。あとでこの歌は「坊がつる讃歌」の替え歌だとわかりました。芹洋子さんが歌って大ヒットしていました。 ♪人みな花に酔うときも 残雪恋し山に入り 歓喜の涙山男 雪解の水に春を知る …… ネットで調べたらありました。 「坊がつる讃歌」 1 人みな花に 酔うときも 残雪恋し 山に入り 涙を流す 山男 雪解(ゆきげ)の水に 春を知る 2 ミヤマキリシマ 咲き誇り 山くれないに 大船(たいせん)の 峰を仰ぎて 山男 花の情を 知る者ぞ 3 四面山なる 坊がつる 夏はキャンプの 火を囲み 夜空を仰ぐ 山男 無我を悟るは この時ぞ 4 出湯の窓に 夜霧来て せせらぎに寝る 山宿に 一夜を憩う 山男 星を仰ぎて 明日を待つ 5 石楠花谷(しゃくなげだに)の 三俣(みまた)山 花を散らしつ 篠分けて 湯沢に下る 山男 メランコリーを知るや君 6 深山紅葉(みやまもみじ)に 初時雨(はつしぐれ) 暮雨滝(くらさめたき)の 水音を 佇み聞くは 山男 もののあわれを 知る頃ぞ 7 町の乙女等 思いつつ 尾根の処女雪 蹴立てつつ 久住(くじゅう)に立つや 山男 浩然の気は 言いがたし 8 白銀(しろがね)の峰 思いつつ 今宵湯宿に 身を寄せつ 斗志に燃ゆる 山男 夢に九重(くじゅう)の 雪を蹴る 9 三俣の尾根に 霧飛びて 平治(ひじ)に厚き 雲は来ぬ 峰を仰ぎて 山男 今草原の 草に伏す ☆「坊がつる讃歌」のエピソード 「坊がつる讃歌」の作詞者の一人でもある梅木秀徳さんに、元歌を教えたのは葱花(ぎぼう)勲さんで、葱花さんが広島高等師範(現広島大学)に昭和14年に入学されたあとに新しくできた山岳部歌ということで歌われていたようです。広島大学に残されている資料には、「山岳部第一歌・山男(昭和15年8月完成)」となっており、作詞:神尾明生 作曲:竹山仙史 編曲:芦立寛氏の名前が記載されておりました。しかし、原爆で古い資料が焼失し、これ以上の事がわからない時代が長く続きました。 昭和53年、栃木県の杉山浩さんがあるきっかけで、当時、地質鉱物学研究室の助手補に「神尾(かんお)」さんなる人物がいた事を知り、千葉大学名誉教授(当時):神尾明正氏が作詞者であることが発見されたのです。神尾さんは作曲者が誰なのかは知りませんが、「もしもしカメよ」や「荒城の月」でも歌えるように作詞した事や大山あたりをイメージに四季の山の情景を書いた記憶がある事を語っています。(昭和53年7月9日付、読売新聞)。 その2か月後、今度は作曲者が判明しました。編曲の芦立寛さんの実姉の夫:宇都宮大学名誉教授(当時)武山信治さんがその人だったのです。昭和15年の6月頃、芦立寛さんから、いい詩があるからメロディーをという依頼の手紙をもらい、一晩で作ったそうです。「竹山仙史」は武山信治さんの書道の雅号で、このとき1回だけのペンネームだったそうです。 芹洋子さんが歌うようになったきっかけは、昭和52年夏の阿蘇山麓の野外コンサートで、夜、宿舎のテントにギターを持った若者たちが遊びにきて、「坊がつる讃歌」を唄いコンサートで歌ってみたらと勧められたのが始まりのようです。その時の譜面には、作詞:松本征夫 梅木秀徳 草野一人の名が記され、作曲者は不明になっていたそうです。 この3人が、昭和27年にあせび小屋の小屋番をしていた夏、雨に降り込められ所在なさに「替え歌を作ろう」ということでできたのが「坊がつる賛歌」です。歌詞のあちこちを九重に置き換え、この歌は瞬く間に山仲間に広まります。最初は替え歌の「賛歌」だったのが「讃歌」となり、歌詞の一部も一般向けに替え、4番までのその歌は芹洋子さんによって全国に広められたのです。 話が元に戻ります。横山史雄先輩は、その後、私が高梁工業高校に勤めているとき、そこへ転勤してみえました。意外なご対面です。彼は日本史の担当でした。私が人権教育の担当で苦労しているとき、彼がずいぶん助けてくれました。今でもご恩を忘れません。 このアパートへは次から次へとボート部員が住むようになり、まるで岡大ボート部宿舎のようになりました。藤原潔先輩は艇庫近くに豪邸があるのに、ここへ来て、1年下の大須賀康孝君も移り住みました。大須賀君は香川県高松市志度の出身で、独特の讃岐弁を今でも思い出します。「いっきょる、いっきょる」とか。長距離ランニングが得意で、決して美しい走り方ではないのに、ベタベタと足音が聞こえると、必ずといっていいほど追い抜かれました。同い年ですが浪人して1年後にやって来て、のちに腹心の友になる行司伸吾君は関西高校出身で、柔道の黒帯でした。その行司君はランニングが苦手で、少し走ると息が切れていました。その行司君を私や大須賀君が背中を押して走りました。柴田先輩とはしょっちゅう食糧や日用品の貸し借りをしていました。2人だけの連絡用にそれぞれの部屋に玄関ブザーを取りつけて、用事があるときはそれを鳴らして、壁越しに話していました。ラジオで落語をやっていると、ブザーを鳴らして、「壁越しに落語やってるよー」と知らせ合ったりして。それぞれ合鍵を持ち、部屋の出入りもお互い自由自在でした。柴田さんの出身地は阿哲郡神郷町(今は新見市)で、伯備線の新郷(にいざと)が最寄り駅でした。岡山からちょうど99.9キロで、当時は学割が100キロ以上は5割引だったため、柴田さんは次の鳥取県上石見(100キロを超える)まで切符を買っていました。のちに学割は2割引になります。冬休みにボート部員がほとんど大山にスキーに行ったとき、私はそんな贅沢はできない身分でしたので不参加でしたが、お正月休みで家庭教師がお休みのとき、思い切って普段着で大山の山小屋をたずねました。一泊しました。いろんな部からスキーに来ていて、消灯後、真っ暗な部屋で、みんなでエッチな歌を回していました。放送禁止ですが、♪「ゆうべ○○さんと寝たときは、変なところに**がある。○○さんこの**何の**?……」だけ、思い出しました。柴田さんはエッチソングは歌わないで、「大山お雪」という怪談を話してくれました。ラフカディオ・ハーンの「雪女」のようでした。岡山へ帰る前、新郷の実家へ寄るということで、私を一緒に連れていってくれました。新郷駅からバスでどんどん山の上へと上がっていきます。もちろん真っ白な雪のやまです。大忠(おおただ)という集落におうちがあり、母子家庭で、お母様は小学校の校長先生でした。節枝先生というお名前で、それはそれはやさしい方でした。私が教育学部で将来は教師になる予定でしたから、柴田さんはよく私に、「志のないお前はおふくろの下で働け」とおっしゃってからかわれました。名前が彼は「浩志」で、私は「浩」です。一晩泊めていただいて、翌日は私だけ岡山で帰ることになり、バスで新郷駅まで下りました。バスの便も1日に数本でしたが、それよりも、伯備線の列車が2時間に1本という具合でした。バスが駅に着いたらちょうど出た後で、雪の中にぽつんとあるバス停の待合所で、次の列車を2時間待ちました。おうちの近くにはスキー場もあって、さすがに柴田先輩はスキーは大得意でした。 |