浩の自叙伝 03-01
【岡山大学ボート部】1
1960(昭和35)年、岡山大学へ入りました。学部は教育学部中等課程で、「社会科」を専攻しました(もっと詳しくは「倫理学」)。当時はまだ、一般教養部も教育学部も、もと兵舎の木造校舎での授業でした。服装は高校のように制服はなく自由になりましたが、私は詰め襟金ボタンの学生服のままでした。ズボンは上着と揃いの黒でなく、替えズボンを着用しましたから、一目で高校生とは区別がついたと思います。靴は生意気にも革靴を履いていました。木張りの床を歩くとギシギシときしむ音がします。通学手段は多くの学生が自転車で、私もそうでした。でも革靴に自転車は合いません。遠距離から通う学生は法界院まで津山線で来て、岡北中学沿いの長い道のりを歩いて大学構内に入っていました。市内バスの停留所が学内に何か所かありました。構内を東西方向と南北方向に幹線道路が貫いていて、特に南北線は銀杏並木が立派で、神宮外苑を彷彿させます。当時は今の教育学部の場所が教養部で「岡大東門」が最寄りバス停で、その右側(北)にありました。教育学部は左側で、今はそこが教養部になっています。次のバス停、「岡大西門」の右手に広大な「法文学部」がありました。教養部と法文学部の間に理学部や工学部(新設)がありました。西門で南へ曲がると銀杏並木で、国道53号線(旧)にぶつかり、そこは県の総合グラウンドです。
大学から配布された大きな講義時間割を見ながら、自分で単位修得のルールに従って授業を選びます。これは大学ならではの珍しい作業です。同じ「憲法」の授業でも複数の教官が担当していて、他の必須科目とかち合わないように配慮して、なるべく単位をもらいやすそうな授業を選びました。
入学式のあと大学校内を歩いていると、さまざまな部が勧誘してきました。中には強引なのもありました。私は当時身長が180センチ近くあり、大勢の中を歩いていても自分だけ群を抜いていてすぐ目立つためか、全部体育系の、柔道部、バスケットボール部、陸上部、山岳部…とさまざまな部の恐いおっさんふうの上級生が誘いかけてきました。どの部も振り切って、私は高校時代にやっていた演劇部に入るべく、部室を目ざして歩いていました。そこへ、色の黒い怪しげなおっさんふうの男(上級生:楠原先輩)が現れて、「ちょっと来い」と強引に私を引っ張って、いきなり部室ふうの部屋へ連れ込みました。そこは「ボート部」の部室でした。真四角の板張りの床の部屋で、調度品は何もなく、みんな立ち話をしたりタバコを吸ったりしていました。小さなテーブルだけがあって、その上に白紙の表が置いてあり、その色黒男が「ここに学部と名前を書け」と言います。私は言われるままに、「教育学部 大森浩」と書きました。それから地図のような紙切れを渡されて、「土曜日の午後○○時にここへ来い」と言いました。当時は土曜日の午前中は授業でした。それで帰っていいことになりました。部室を出るときにふと隣室を見ると、「演劇部」と看板がありました。なぜそこへ飛び込まなかったのか今でも不思議です。
その決められた土曜日に地図の場所に行きました。行かなくてもよかったのに(笑)。場所は旭川の下流の「三蟠」にある岡山大学ボート部の艇庫です。正式な地名は「江崎」です。大学からは自転車で約1時間の距離です。当時は舗装していない土の道でしたから大型トラックやバスが通ったあとは、舞い上がった土埃が大変でした。雨の日はぬかるんで無茶苦茶でした。艇庫は木造2階建てのどっしりしたもので、1階が艇庫、2階は合宿所になっています。2階にはベランダがあって、こ汚いおにいさんが日光浴をしていました。艇庫前にも汗と垢で汚れたタンクトップと短パン姿のおにいさんがうろうろしています。異様な雰囲気です。
(写真:艇庫)
私と同じように名簿に名前を書いた新入生が数人集まっていて、2階へ案内されました。私を誘惑した色黒男もいました。そこで楠原洋さんという名前だと知りました。リーダーふうの男が、「お前たちは今日から岡大ボート部員じゃ。練習時間は放課後の○○時から。それまでにここへ集合するように」と説明しました。
艇庫の2キロほど下手に「三幡火力発電所」があり、3本の高い煙突からはいつも煙が上がっていてランドマークにぴったりでした。この発電所はその後廃止されました。
一緒に行った連中は、法文学部の山内宏一君(倉敷青陵高校出身)、同学部の長森倶和(ともかず)君、理学部の今村穣君(滋賀県甲賀郡出身)、医学部進学課程の坪田輝彦君、同学部の福田範三君、工学部の水野久隆さん(兵庫県西宮高校出身、4歳年上)、同学部の三宅一雄さん(京都堀川高校出身、4歳年上)と、こういう面々でした。医学部進学課程というのは、われわれの津島キャンパスで2年間「一般教養」課程を修めてから鹿田町の医学部へ行くからです。女子もいたような気がしますが、はっきり覚えていません。
このうち、山内君とはいち早く仲好しになりましたが、彼は1年生の終わりには退部しました。在部中もその後も何度か倉敷市西岡のご自宅へ遊びに行きました。近くに「浅原教会」という宗教の施設があり、バスはそこ行きでした。倉敷駅から徒歩でも行けますが時間がかかりました。時には歩きました。そのお宅の特にお母さんが私を大変歓迎してくださいました。それで、彼が退部してのちもたびたびお邪魔しました。他のメンバーでは、水野氏と三宅氏は浪人経験者でこの年に開校した工学部の一期生として入学しました。水野氏は機械科、三宅氏は化学科でした。それぞれ4歳も年上ですが、学年は同じだという理由で「呼び捨て」で呼びました。どうも失礼いたしました。今村君は、甲賀の人で、しかも練習中にたびたび姿を消すので、直ちに「ドロン」とあだ名がつき、同級生にも上級生にも卒業までそう呼ばれていました。