自叙伝02-03
【ボート部のある学校3】
まさか、予選から2位、2位で決勝戦に残るとは想定外でした。艇を備前に運んで帰っていただく日も1日延ばしてもらいました。決勝ということで柿本君は上がっているかと思いきや、冷静にひと言私に次のように頼みました。「先生、僕は800メートルで力が落ちることがわかっているので、ここが800だとわかれば意識して元気を出します。で、800メートル地点に立っていてもらえますか?」。私は快諾しました。レースは1000メートルを競います。通常のレース運びでは800メートルからラストスパートを入れるところですが、200メートルをオールスパートではスタミナがもちませんから、入れたり出したりでゴールインします。最後の100メートルくらいからはヤケのヤンパチ、ストロークレンジは極端に短くなり、いわゆる「お椀漕ぎ」状態で、ただオールで水をかきあげるだけの展開になりがちです。柿本君は冷静に800地点を意識したら、そこでスタミナ配分をきちんと計算できる自信があるようでした。決勝出場の5クルー(でしたか)が揃ってスタートしました。何百メートルも遠方から横並びにゴールへ向かってくるそれぞれの艇のサイズのわずかな差から、目のいい人はどの艇が先んじているかわかるそうですが、視覚型でない私にはどの艇も同じ大きさに見えて判然としません。いよいよ接近してはじめてわかります。柿本君は手前から2番目のレーンでしたか、トップで800地点に飛び込んできました。私の姿をしっかり確認したらしく思い切りスパートを入れて、さらに他の艇を引き離すと、コンスタントピッチの大らかな漕ぎに落として悠々とゴールインしました。優勝です。ゴールへ走り寄ります。上陸してきた柿本君は満面の笑顔で、「先生、やったよ!」。「おめでとう!カキモト!」と私が彼の名前を叫んだとたん、まわりの人たちの視線が一斉に私たちに集中しました。「セーラー服と機関銃」なら、ここで薬師丸ひろ子さんが「快感ーん!」と叫ぶところでしょう。表彰式で立派な優勝カップと賞状をもらって、宿へ帰り、無理を言って1泊余計に泊めてもらったことにお礼を言い、優勝したことを女将さんたちに伝えました。間もなく備前からトラックが来て、艇はトラックで、私たち2人は国鉄(今のJR)でした。朝日レガッタ初出場で、優勝です。
似たようなときめきを、私自身もかつて体験したことがあります。優勝ではありませんが、全日本第2位(準優勝)です。これは次章の「私自身のボート部体験」で詳しく述べます。
6月には中国大会が島根県であったと思います。ここへは男女ナックルと柿本君が出場しました。女子ナックルがかなり実力を上げていましたが、やはり山口、広島、島根勢が強く、入賞は無理でした。ひとり柿本君が楽勝で、この年2つ目の優勝です。
インターハイは8月冒頭に、石川県は能登半島付け根の津幡でありました。金沢までは大阪からの特急「雷鳥(その後「サンダーバード」に)」で行きました。ボート部は備前高校の部活動では、野球部に優る活躍が高く評価されてか、予算は運動部・文化部通じての最高額でした。引率教師の旅費は事務室の女性係長さんのご配慮により、個人負担がないように必要経費全額を出していただけました。県などからの強化費もいただけて、かなり潤っていました。おかげで、贅沢なことに、柿本君用のオールの新調するときは、いつも同じ物を2組作りました。レース場へも2組送りました。万一の事故に備えて、1組はスペアーとして使うためです。実際、この金沢大会で、一度オールをブイに当てて破損したため、直ちにスペアーを使って事なきを得ました。備えがなければレースを断念したかもしれないところです。交通手段も、中国地区で強豪の山口県・西市高校は急行を利用していて、備前は特急でしたから、西市の選手から「備前は金持ち学校やのー」と言われました。
春から2大会で優勝している柿本君は、インターハイでも楽勝で、島根県江津工業高校の先生が、決勝戦を観戦しながら、「また、備前にやられたー!」と叫んでいました。
次は9月の国体です。この年は佐賀県唐津市でありました。男女ナックルは出場できなくて柿本君1人参加です。ところがその8月に、大型台風が鹿児島県から宮崎県の東方海上に3日ほど居座って、西日本は大雨が続きました。岡山県地方も、まるでノアの洪水のように雨が続きました。西大寺のわが家の側の用水路は水が溢れて、家の敷地にもちょろちょろ入ってきそうな状態です。このまま降り続けると住宅地が浸水する危険があると、ちょうどわが家の北側の水門を閉じました。するとその水門の上流が浸水しました。これは大変とばかりに、今度はわが家の南側の水門を開きました。すると水門の下流が浸水しました。わが家の地区だけ助かって、あまりにも気の毒だというので、各世帯から500円ずつお見舞い金を徴収して被災地区にさしあげました。台風が一向に動かないので、わが家でも、浸水に備えました。大事な物を棚の上やタンスの上などに徐々に移動して、不安な日々を過ごしました。そのとき、私はいざというときは、何を優先的に守ろうかと考えました。授業に使う資料類やノートの類いは必需品です。これを一番高いところに置きました。それから背広を何着かビニール袋に包んで高いところに避難させました。結果的には、進水一歩手前で、台風が動いてくれて、被害はありませんでした。
柿本君は日生町(今は備前市内)の人で、この地区ではたくさんの住宅が床上・床下浸水するという大きな被害が出ました。国体直前の練習ができなくなって調整も乱れて、回復する間もなくそのまま佐賀へ行きました。そのためかどうかはわかりませんが健闘空しく優勝を逃しました。それでも、やるだけのことはやったと、慰労を兼ねて大会後は長崎観光をしました。まあ、朝日レガッタと中国大会とインターハイで三冠達成という偉業は成し遂げました。
柿本君はこの年、岡山県のスポーツ大勝を受賞し、私はスポーツトレーナー賞というのをいただけました。
その後の備前高校ボート部は、男子ナックルがかなり実力を上げました。メンバーが漕法や試合運びについて細々とした工夫をするようになったからです。折しも日本漕艇協会が指導者のためのウエイトトレーニング講習会を東京で開きましたので、私も参加して講義と実習を受けました。全国の学校と実業団からボート部の監督が集まりました。1964年に東京オリンピックで使われた代々木の選手会館が宿舎で、講習会場は東京大学駒場体育館などでした。ここでウエイトトレーニングの理論と実際をたっぷり修得して、その成果を生かすべく、帰るとすぐに本格的なウエイトトレーニングを始めました。当時ボート部にはダンベルもバーベルもなかったので、柔道部から借りました。場所も顧問の先生にお願いして格技場を使わせていただきました。この学校では部相互が大変仲良しでした。シーズン中、部員は、朝はランニング、午後は乗艇練習で、ウエイトの時間がありません。苦肉の策で、お昼休みに行いました。部員も私も早めに弁当を済ませて格技場へ向かいます。時間は短いながらも、集中的に基本種目のベンチプレスとスクワット、ベントロウイングなどをこなしました。そのうち、予算がついて、ボート部にもバーベルやベンチプレス台など一部の器具が購入できて、部員の更衣用部室に常時設置して、昼休みには部室でトレーニングができるようになりました。スクワットはサポート(支柱)がないので、2人がかりで実施者の肩にバーベルを乗せてやり、終わるとまた2人が降ろしてやるという、原始的な方法でした。インクラインプレスは、斜めの台がないので、部室前に穴を掘って、壁に跳び箱を斜めに傾けて置いて、実施者は穴に足を突っ込んで、跳び箱にもたれて、また2人がかりで胸元までバーベルを持っていき、終わるとまた2人で下げてやりました。冬のシーズンオフには、長距離走などの持久力強化とウエイトのパワーアップを集中して行い、春には全員すっかりマッチョに変身するようになりました。関西高校の監督さんが、「備前さんはひと冬超えたら体が違う」とおっしゃっていました。こういうトレーニングの成果が実って、漕法に変化が見られるようになりました。レース前日などは、選手が部屋に集まって、あれやこれやレース運びについて作戦を練っていました。
1987(昭和53)年のインターハイは福島県の喜多方でありました。男女ナックルとシングルスカルが参加しました。上野から郡山まで東北本線の特急で、磐越西線に乗り換えて、磐梯山を見ながら猪苗代湖を通過して、ラーメンで有名な喜多方へ、そこからもう少し田舎の町で民宿でした。このときも夜は宿が好意で生ビールのタンクを設置してくれたりして、静岡の行司君とたっぷり楽しみました。ウエイトトレーニングと漕法改善の成果はこの大会で如実に表れ、「一漕入魂」と言ってもよいロングレンジの力強い漕ぎ方で、またまた島根県の江津工業高校の監督さんから、「備前は強くなった」とお褒めをいただきました。それまでのレースではスパートを乱用してはバテて、ピッチばかり上がる不細工な漕ぎ方でした。それが、この大会では、ゆったりしたコンスタントピッチのストロークの1本1本が力強く、スパートはごくまれにしか入らなくて、選手はゆったりとゴールインできました。結果は全国の強豪の中のレースですから、準々決勝止まりくらいでしたが、十分な満足感を味わいました。監督の私も、ほとんど結果にこだわらない人になっていて、「負けたら宿でトランプだ」とパラドキシカルな勇気づけをしていました。そのころ、金井克子の「他人の関係」と歌が大ヒットしていて、♪ぱんぱんぱぱんぱん、会うときはいつでも他人のままで……♪「勝てば他人、負ければ親戚」と、まるで早く負けて宿へ帰ってトランプしようと言わんばかりの、ひどい監督でした。そう言うとかえって選手にはファイトが湧くみたいでした。楽しく民宿生活を終えて、帰りは「原宿に寄りたい」というリクエストに応えて、東京に途中下車しました。ちょうど前の年の修学旅行では、初日は東京に一泊して、新宿から「あずさ3号」で松本へ向かっていました。女子選手に担任クラスの子が2人いて、原宿散策を強く希望しました。他の選手たちも同行しました。
さて、備前高校に歴史的な変化がありました。普通科が分離して新設の備前東高校に移転し、工業科だけの小規模校になりました。その影響でボート部員も減り、シングルスカルだけの活躍なっていき、私自身も1980年に岡山工業高へ転勤することになります。
このあたりで稿を換えて、私自身の大学でのボート部生活について回顧することにいたしましょう。