自叙伝02-02

【ボート部のある学校2】

 翌1974年のインターハイは佐賀県でしたが、私は高梁工業高校の卒業生3人(電気科卒業生の野口三郎君、中山憲之君、難波雅弘君→今思えば3人とも苗字のイニシャルがNです)と北アルプス登山をするため、欠席しました。大阪発夜行急行の寝台でない普通車の床に新聞紙を広げて寝て、早朝松本到着。大糸線に乗り換えて有明で下車して、バスで中房温泉まで行くと、そこが登山口です。登山登録をしてまずは燕岳を目ざします。燕岳は岩と松の緑が調和して美しい山です。そこで昼食休憩して、大天井岳までの長い稜線を縦走します。北アルプスの山並みが抜けるような青空に映えて、大パノラマです。這松の影には所々に雷鳥の夏姿が見られます。大天井岳の山小屋で1泊。ここでは、持参していたキャノンの一眼レフカメラのシャッターが故障して、悔しい思いをしました。山小屋の朝ご飯をいただいて早朝に出発すると、お昼には槍ヶ岳に到着です。槍ヶ岳山荘に1泊して、翌日は槍の穂で見事なご来光を拝みました。好天に恵まれて遠くは富士山まで見えました。それから、今回は上高地を目ざして下山しました。槍沢へ降りてさらに槍見川原を経て、長い長い距離を歩いてやっと河童橋で一休み。そこからはバスで松本へ出て、また夜行で大阪へ帰るというコースでした。
 9月の国体は、前年インターハイのあった千葉県小見川町の隣の茨城県潮来でありました。今回は引率選手はシングルスカルの○元○一君1人です。前年までは男女ナックルフォーも一緒でしたが、この年から県代表が中国ブロックで勝たないと本大会に参加できなくなりました。当時は、男女とも山口県の西市高校が圧倒的に強くて、備前高校は歯が立たず、出場できませんでした。期待されていた○元君は、この年は残念ながら決勝進出できませんでした。私は岡山県漕艇協会の理事をしていて、潮来で開かれた全国理事会に参加するという役目もありました。帰りには、昨年お世話になった小見川の新聞屋さんに挨拶に行くと、大歓迎され泊めていただけて、またまたものすごいご馳走のおもてなしを受けました。翌日は、岡山大学ボート部の2年後輩の国崎泰君をたずねるべく、東京で途中下車して、高輪の下宿に泊めてもらいました。彼は村田機械に勤めていました。狭い冷房のない部屋に3人で雑魚寝しました。彼は中国と取引するための中国語学習が必要だと言って、夕食には行きつけの中華料理店に連れて行ってくれました。そこの大将としきりに「シェンマ?シェンマ?」と話しかけていました。国体の成績はさっぱりでしたが、旅行としては大満足の2人でした。
 この○元君がその後、卒業するまでに交通事故を起こしたり、喫煙が露見したりで、一時は退学の危機に陥りました。担任も見放していましたが、私は高梁工業時代に、クビになりそうな生徒の救済のために職員会議で擁護の弁舌をふるうワザを覚えていて、これが功を奏しました。浪花節の泣き落としあり、理路整然とした長所や貢献力の強調ありと、思いつく限りの策を弄して、何とか助けることができました。
 このあとを少し省きますが、その後、男子ナックルフォーはインターハイには毎年出場、女子ナックルフォーはインターハイ毎年、ときどき国体という具合でした。シングルスカルは布元君のあと、川野君~柿本研三君へと続きます。
 柿本君は身長は小柄ですが、筋肉質でしかも高い持久力の持ち主でした。心肺機能と筋力に優れていて、ピッチの短さをスタミナとパワーでカバーするという怪物クンでした。すでに前年1975年の埼玉県戸田インターハイに2年生で出場していて、そこそこの成果を上げていました。これはいけると、76年(3年生)にはまず5月の朝日レガッタ(琵琶湖)に出場させました。自艇参加ですから、スカル艇を備前から琵琶湖まで運ばないといけません。そこでは、交通指導係“ナンバー2”松原先生が大活躍してくださいました。生徒からは“鬼のマツバラ”と恐れられていた先生ですが、お顔の表情はいつも穏やかそのもので、ご本人は“仏のマツバラとおっしゃっていました。ほんとに仏様のような先生でした。不正には厳しいですが面倒見のよい先生で、一旦気に入るとどこまで骨身を惜しまず世話をするという、義理人情に厚い方でした。その先生がまたボート部に好意的で、備前高校機械科のトラックで艇を琵琶湖まで運んでくださったのです。そのとき助手を務められたのが、当時“備前高校のプリンス”と女子生徒に騒がれて人気ナンバーワンだった、イケメンの藤原光郎先生でした。この方は私が備前を去った後、それからずーっと東岡山工業高校でご退職までボート部の顧問をされました。私よりもボート部顧問暦は比較にならないほど長いです。
 宿舎は石山寺のそばの「松乃荘」でした。ここは私が岡山大ボート部時代にも、関西選手権大会や龍谷大学との定期戦などでの宿舎でした。艇は近くの河原にシートを被せて置いて、運転手のお2人は一旦引き上げ、試合終了日にまた来てくれることになりました。後は柿本君と2人の生活です。時節は5月のゴールデンウィークで、観光客で賑わっていました。客室は見晴らしのいい2階の和室で、思う存分くつろぐことができ、お料理も豪華で、お風呂も2人一緒に入り、しっかり栄養補給もできました。レース第1日目の予選は5艇か6艇で競い2位で予選通過です。その次の日が準々決勝で、これまた2位で準決勝に進みました。予想では、準決勝止まりだろうと踏んでいましたので、旅館の予約はその日でおしまいです。
 ところが何と、準決勝も2位で通過して最終日の決勝戦に残ったのです。その日のうちに宿を引き払わないといけないので泊まるところがありません。どうしよう!近くに岡山大学が泊まっているから、そこへ潜り込ませてもらおうか。いやいや、それでは柿本君がくつろいで休めない。どこか他に宿を取ろうか。連休でそれも無理だろう。これは松乃荘へ帰って頼むしかない。日が高いうちに宿へ帰って、部屋担当の仲居さんにまず「もう一泊を」と頼む。何しろゴールデンウィークのこと。私たちの部屋は私たちが出たらすぐ後予約が入っているとのこと。女将さんに頼んでも全然無理。それでも諦めきれず、仲居さんやおかみさんを見るたびに跪いてはお願いする。また見かけてはお願いするで、とうとう根負けした女将さんが「食器を収納している物置でよければ」と折れてくれた。食事やお風呂は通常どおりとのこと。雨露をしのげればいいし、あの豪華な食事が保証されれば申し分ないとばかりに、早々と風呂と食事をすませた。物置の食器棚を片寄せて板の間にお布団を敷けるスペースを作ってくれて、縦長のウナギの寝床のような所に、縦に2人分のお布団を敷いてくれました。頭と頭がくっつくように寝ました。テレビはないし、しばらく雑談をしましたがあとはすることがない。「もう寝ようか」と、7時くらいには灯りを消して熟睡しました。おかげで翌朝の目覚めはすっきり、お天気も上々。食事をしてレース場へ行く。いよいよ決勝戦です。(つづく)