02-01


【ボート部のある学校1】
 高梁工業高校から備前高校への転勤にともない、住居も総社市から岡山市(現在は「東区」)西大寺へ引っ越しました。妹は井原の美容院に住み込み勤務している間に良縁に恵まれて、すでに兵庫県明石市へ嫁いでいます。旦那さんは同族の営む米屋さんに勤めていました。とても気のつくやさしい人で、母がベタほめでした。その後、長男、次男、長女と3人の子どもができて、賑やかでしあわせな家庭を築いていきます。その妹の縁談を世話したのは、西大寺に嫁いで喫茶店を営む遠縁の「おねえちゃん」(私たちきょうだいはそう呼んでいた)です。その「おねえちゃん」の夫の甥っ子が妹の旦那です。
 母と私はその「おねえちゃん」から不動産屋を紹介してもらって、西大寺駅から徒歩5分ほどの所に、手頃な借家を見つけました。井原と総社ではアパートでしたが、今度は、平屋の2軒棟割り長屋ですが、ほぼ一戸建てと言っていいです。借家団地で、同じ形の長屋が3棟ありました。わが家は北端の西側半分でした。側を流れる用水の対岸は狭いながらも県道で、当時はまだ2号バイパスの西大寺地区内が工事中だったため、北方の2号線へ向かう短絡路として、この用水沿いの県道を大型トラックが昼夜ひっきりなしに走っていました。音に過敏な私は夜通し聞こえるトラックの排気音に辟易としていましたが、そのうち、バイパスが通じてトラックがパタッと消えて、静かになりました。
 部屋の間取りは、北半分が「玄関」「トイレ」「キッチン」「風呂」、南半分が「6畳和室」二室でした。平屋でしたから、上の階の騒音の心配はありません。
 このころはマイカーを持っていなかったので、引っ越しに先立って、本や細々とした道具類は、高梁工業高校の世話好きの先輩教師田中憲治先生が、ご自分の車で総社と西大寺を2往復ほどしてくれました。残りの大型家具類は引っ越し当日に、妹の旦那さんが軽トラックで一気に運んでくれました。
 備前高校へは赤穂線(当時はまだ国鉄)で通いました。何しろ、家が西大寺駅の近くで、備前高校は西片上駅のそばですから最高の通事情です。片道約25分でした。
 この学校は、私にとって初の大規模校です。これまでの2校は、どちらも全校で12クラスでしたが、今度は普通科15クラス(就職コース6&進学コース9)、工業科12クラス(機械科6&窯業科3&化学工学科3)です。職員室は完全に普通科スタイルで、各専門家の職員室はなくて、学年ごとの3つの職員室がありました。担任が替わるごとに職員は自分の机や荷物を抱えての大移動でした。まさにゲルマンの大移動で、年度初めの風物詩です。
 私は普通科1年3組の担任で、進学クラスでした。この学校には社会科の教員は6~7人いました。私が授業を担当したクラスは、確か、普通科1年進学組の地理3クラス(9時間)+窯業科1年の地理(3時間)+化学工学科1年の地理(3時間)&窯業科3年の倫理社会(2時間)で、合計週17時間だったかと思います。2種類の科目を担当しますので、事前の教案作りは大変でした。しかも、放課後は決まってボート部の練習を見ますから、帰宅は毎日20時ごろになりました。それでも20歳代ですからまったく平気でした。赴任と同時に入学した1年生の授業はとてもやりやすく、工業系の2クラスも、普通科と同じペースで進めることができました。ただ、窯業科3年の倫理社会では、高梁工業高校の初年度の悪夢が復活するかと思いきや、このクラスにボート部のキャプテンがいて、私がその顧問だったためか、割りとすんなりと取り組めて、助かりました。それでも生徒はほとんど“おっさん”に見えました。生徒会長(西坂利彦君)がこのクラスで、私とは息が合って、高梁工業高校の文化祭に私が行くというと、ついて来たくらいです。
 担当分掌は生徒課中の交通指導係でした。当時マイカーを持たない私が交通指導係はないでしょう。同室には、生徒課長の茂本常藏先生以下、交通指導係長の片山博美先生(男性です。のちに岡山工業高校の校長になられます)、生徒指導係長の小川洋先生(この人は「おねえちゃん」の旦那さんの親友でした)がいらっしゃって、他に。交通指導では松原和夫先生と大饗良先生、そしてしんがりの私です。生徒指導にはいかにも恐そうな柔道の森本先生、生徒課で一番紳士的に見えた数学の見村先生でした。見村先生はご趣味が「能」だとしって感動しました。私がボート部の顧問だということにどなたも大変理解を示してくださって、放課後は授業が終わると即着替えて、自転車で10分ほどの位置にある艇庫へ向かうことができました。ボート部にはあと2人顧問がいましたが、そのうちこの学校にボート部を作った私の大学の先輩でもある重康郁夫先生は大の囲碁好きで、放課後は校内のどこかで碁を打っていました。まだ規制がそれほど厳しくないおおらか時代でした。それを見た片山係長が、「大森さんは部員と一緒に走ったり、海でボートの練習を見ているのに、あんたはここで碁を打つか」と言ってくれました。でもその代わり、ボー部関係の事務仕事はすべて重康先生が段取りよくこなされました。私が常に部員たちと行動できたのはこの先生のおかげです。
 交通指導係長片山先生は、この学校でのユニークかつ効果的な交通安全指導の成果が高く評価されて、その後、私が岡山工業高在に赴任して5年目かに校長としておいでになりました。赴任したときは香山一夫校長でした。片山先生は備前では、御自らツーリング服を纏い、配下のスタッフ2名を従えて、生徒たちの先頭に立って、コーナーリングの仕方や安全確認の仕方などを身を以て指導されました。私の役割はいつも教習所の自転車置き場の整理係でした。
 この学校は普通科進学コースを持ちながら、全県学区という変わった学校でした。邑久郡(現在は瀬戸内市)と備前市と日生町(現在は備前市)は進学校として名の通った邑久高校の学区で、その中に含まれる備前高校は全県学区で、県内のどこからでも入学できたのです。そのため、一部の生徒にはオートバイ通学が認められていました。ただし、バイク通学の許可を得るには、交通指導係が教習所を借り切って行う講習会に出席して技能講習を受けるという条件がありました。高梁に比べると事故や違反の数は少なかったですが、それでも時に大事故を起こして松葉杖で登校する生徒を何度か見ましたし、体が回復すると今度は謹慎指導を受けないといけませんでした。このころは、家庭謹慎はなくなっていて、授業には出られないものの、毎日登校して交通指導室の空席に先生方に混じって座り、各教科からの課題を自習し、まるで教習所の学科のような交通安全学習と、反省文を書かされていました。
 ほとんど記憶が薄れていたこの学校の校舎の配置が、だんだんよみがえってきました。赤穂線西片上駅のすぐ北の土手を国道2号線が通っていて、土手下が備前高校のグラウンドです。学校の西側に用水路があり、それに沿って駅から数分歩くと、校門です。入って、右へ行くとグラウンドと体育館&格技場で、左側にまず木造2階建ての校舎がありました。1階は西から体育教官室、保健室、進路指導室、第1職員室、事務室と並び、2階は、今度は東から会議室、普通科(略称=G科)2年1組~5組までのホームルームでした。第1職員室には、教務課があり2年生の担任団がここにいました。この木造のすぐ北に炊事場と宿直室がくっついてありました。北へ通じる長い中央廊下を少し行くと、右手に鉄筋3階の校舎がありました。各階西端がトイレで、1階には確か、機械科3年1組~2組、窯業科3年、化学工学科3年とホームルーム、2階3階に普通科3年1組~5組が入っていました。この校舎の南側に木造の窯業科の実習室が、その南にまるで「離れ座敷」のような平屋の木造があり、そこが当時、第2職員室でした。ここには生徒課の生徒指導係と交通指導係、そして3年生の担任団がいました。私はG1-3組の担任ですから、本来は第3職員室にいるべきですが、ここの交通指導室に配置されていました。その後、学校の鉄筋化が進んで、第1職員室のある木造と第2職員室は廃止され、3年のホームルーム棟・トイレの西横に4階建ての管理棟ができて、1階に事務室、2階に第2職員室、3階に図書室、4階に会議室が入りました。
 中央廊下をさらに北上すると、一段高い位置に東西に長い鉄筋3階建ての理科棟があり、さらに北端に、鉄筋3階建ての校舎がありました。この校舎は、中央廊下を挟んで東西に分かれていました。西半分の1階は、東から第3職員室、G1-1組、機械科実習室、夜間部の片上高校職員室などがあり、2階と3階にG1-2~G1-5組と実習室などでした。東半分は機械科の各種実習室だったと思います。
 備前高校では、毎年インターハイと国体に選手を引率して行くという大きな仕事がありました。いくつか思い出を拾ってみましょう。
 着任の年、1973年のインターハイは三重県の大台町でありました。時期は7月下旬か8月上旬でした。場所は尾鷲と松阪のちょうど真ん中あたりで、宮川という川がコースでした。3泊くらい民宿しました。ここへの行き方がユニークで、総監督の重康先生の企画で、全行程を在来線で行きました。備前片上始発の関西方面行きの快速(姫路まで各駅)に乗り、東海道線草津で草津線に乗り換え柘植(つげ)でさらに関西線に乗り換え、さらに亀山で紀勢線に乗り換え、会場最寄りの「三瀬谷」に到着するという超長行程でした。町を上げての大歓迎で選手監督歓迎のパレードがありました。特に民宿では家族以上のもてなしを受けました。レース会場への送り迎えを車でしてもらえるし、食事は毎回お祭のような豪華さで、夜はふかふか布団で休めるし、引率の監督にはビールがどっさりふるまわれました。この大会で、はじめて大学のボート仲間の行司伸吾君(2009年2月に亡くなりました)と監督仲間として出会います。彼が赴任した静岡県の三ヶ日町へはたびたび遊びに行っていましたが、ボートの会場で会って、宿を抜け出して2人で乾杯というスタイルはこの年に始まりました。当時は、彼の指導する三ヶ日高校のクルーは強くて、わが備前高校の男女ナックルフォーは足下にも及びませんでした。いずれも予選で敗退、敗者復活で準々決勝へ上がり、そこで敗退というのがパターンでした。負けると早々に引き上げるのは経費節減で仕方ないことで、もう1人の監督が選手たちを連れてさっさと帰ってしまいました。シングルスカルの選手の○元○一君が1人勝ち残って、決勝戦に出ることになり、私と2人が残りました。彼はぎりぎり6位に入賞しました。この年は伊勢神宮の式年遷宮の年にあたり、社殿が新たになった内宮と外宮に宿のご主人が案内してくれるというお土産がつきました。○元君は2年生でしたので、翌年も彼と二人三脚の遠征ができることになります。大台町からの帰りは記憶が曖昧ですが、おそらく関西線で串本経由で天王寺まで夜行寝台で帰ったと思います。
 一息つく間もなく、9月には国体です。ここへも男女ナックルフォーと男子シングルスカルが参加し、インターハイ同様重康先生と私と2人の監督が同行しました。会場は千葉県の小見川町で、水郷潮来がすぐ近くです。ここも民宿で、男女それぞれの宿舎で大歓迎を受けました。私は女子と一緒に新聞配達店に、男子と重康先生は布団屋さんにお世話になりました。新聞屋のご夫婦は、選手たちをわが子のようにかわいがってくださり、大切に大切にお世話してくださり、彼女たちが出るレースは必ず見に来てくれました。ここでも三ヶ日の行司君と会い、宿を抜け出して2人で乾杯しました。試合結果はやはり男女ナックルは予選落ちか敗者復活戦どまりで、シングルスカルの○元君が6位に入賞しました。